マタイによる福音書16章13-28節「生ける神の子」
2025年3月23日
宇都宮上町教会主日礼拝
受難節第3主日を数えております。春分が過ぎましたので次の満月の後にはイースターを迎えることでありますが、受難節におきまして主イエスが十字架に臨みエルサレムへと向かわれる日々を覚えるところです。
キリストの受難そして十字架をしっかりと見つめることは信仰の要であり、同時に弟子たちの弱さやつまずきの中に私たち信仰者の姿を見出すものです。本日はマタイによる福音書を開き、「生ける神の子」と題してエルサレムに向かうイエスと弟子たちに目と心を向けましょう。
(引用は「聖書 新共同訳」を使用)
1.弟子たちの信仰告白
「フィリポ・カイサリア地方に行った」(13)とこの地名が聖書で取り上げられるのはこの場面だけであります。フィリポもカイサリアも人名に由来するもので、前者はヘロデ大王の息子ヘロデ・フィリポ、後者はローマ皇帝にちなんだものです。
ガリラヤ地方より更に北の果てにあるのでユダヤの人たちにとっては全くの異教の地であり、皇帝の像を納めた神殿さえあるほどに偶像が満ちておりました。異邦人のガリラヤ(4:15)でさえユダヤ人の指導者たちからの迫害が強まったことで、ナザレのイエスと弟子たちはとうとうフィリポ・カイサリアくんだりに逃れてきたという有様です。
声を潜めたかは定かでありませんが、主イエスは弟子たちを集めて「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになりました。弟子たちは人々の声としていくつか名前を挙げて答えています(14)。
洗礼者ヨハネは福音書の各々に示されるとおり主イエスに洗礼を授けた人物です。「洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった」(11:11)と主がおっしゃったほどに優れた人でした。
エリヤとエレミヤは旧約の預言者の代表格であり、特にエリヤは列王記において「嵐の中を天に上って行った」(列王下2:11)ほどの預言者でした。「預言者の一人」は誰であるか特定できないものの、「大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす」(マラキ3:23)と告げられたエリヤに比類する預言者です。
当時のユダヤの人たちにとって救い主メシアとは旧約における偉大な預言者の再来というものでありました。来るべき「主の日」に先立ってかつての預言者が現れることですから、終わりの日における死者の復活というものが信じられていたことが示されます。
当たらずといえども遠からず、しかし遠からずとはいえ的を射ていないことも事実であります。主イエスは弟子たちに「それでは、あなたがたは」(15)と正解を促します。
口を開いたシモン・ペトロは弟子たちを代表して答えています(16)。もし弟子たちの一致した答えでないとすれば「口々に」「互いに言った」と記されているところでしょう。
「あなたはメシア」と主イエスが預言者たちより優れた方であり、ましてやこの世の権力者であるフィリポやカエサルなどとは比べ物にならないほどに偉大であると弟子たちは信じています。「神の子です」とは主イエスが洗礼を受けられたときに天から響いた言葉により(3:17)、また弟子たち自身が嵐の湖でイエスを拝んだ信仰告白によるものです(14:33)。
「生ける神」とは命を与える創造者であり(創世3:17)、フィリポ・カイサリアに数多く祀られている石や木で作った偶像すなわち「命のない神」との対比が明らかです。ヨハネによる福音書では「言の内に命があった」(ヨハネ1:4)「わたしを信じる者は、死んでも生きる」(同11:25)「わたしは道であり、真理であり、命である」(同14:6)と主イエスにある命の豊かさが随所に記されていますので、実に弟子たちが教会にくまなく証しをしたことであります。
2.岩の上の教会、天の国の鍵
ペトロとの問答が続く中、18節では主が「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と宣言されています。この箇所だけではペトロ一人のことのようにも見受けられますが、使徒たちがどのように命じられていたのかは使徒パウロの手紙に確かめることができます。
「使徒や預言者という土台の上に建てられています」(エフェソ2:20)とパウロは使徒も預言者も複数形で扱っています。そもそも生ける神の言葉を聞いて行う者について、主イエス自らが「皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」(マタイ7:24)と説かれたことを弟子たちも私たちも聞いているところです。
すなわち教会が主イエス・キリストにおける信仰告白の上に建てられていることであります。世の人々は神とは呼ばれても命のないもの、人が造った「口があっても話せず/目があっても見えない」偶像を拝みますが、私たちの救い主は「生ける神の子」なのです。
もう一つこの箇所で注意を引くのは「天の国の鍵」(19)という語です。聖画であればペトロが主イエスから大きな金属製の鍵を手渡されているものや、ステンドグラスなどでも鍵を握りしめたペトロ像などに見覚えのある方はおられるでしょう。
メシア預言が多く記されているイザヤ書には「彼が開けば、閉じる者はなく、彼が閉じれば、開く者はないであろう」(イザヤ22:22)とダビデの家の鍵について述べられています。この預言書によれば「鍵」とは「かんぬき」のことであり、かんぬきとは一般に扉と扉をつなぐことで門を固く閉ざすものであります。
したがって「つなぐこと」とは扉を閉ざして出入りを禁じること、「解くこと」とはかんぬきを外して門戸を開くことを意味します。しかも主イエスが語られた「鍵」について元の言葉では複数形で記されておりますし、後の箇所では「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(18:18)と19節と同じことが弟子たち全員に語られています。
ペンテコステにおいて弟子たちに聖霊が臨むとあらゆる国ことばを用いる人々にイエス・キリストの福音が開かれ、使徒言行録15章の使徒会議においては異邦人にも救いの門戸が開かれました。後の時代にも使徒的教会は教会会議において「天の国の鍵」を用いて異端の門にかんぬきをかけ、基本信条(ニカイア・コンスタンティノポリス信条、カルケドン信条など)の上に信仰伝統を築いてきたのです。
3.自分の十字架を負う
さて一行はガリラヤよりも北の果てにおりましたが、主イエスは「御自分が必ずエルサレムに行って」多くの苦しみを受けて殺されることを弟子たちに告げられました(21)。それを聞いた弟子たちは主が気落ちしているのを励まそうとしたのか、ペトロは「そんなことがあってはなりません」といさめ始めたというのです(22)。
良かれと思ってとった行動であっても、「人間のことを思っている」(23)ものはみな「肉から生まれたもの」(ヨハネ3:6)であります。たとえ弟子であっても主イエスの邪魔をすることになり、あのペトロでさえ「サタン、引き下がれ」と退けられてしまうものです。
先ほどの「天の国の鍵」を人間のことを思って用いることがあったらば、大変なことになってしまうのです。たとえば主が「狭い門から入りなさい」(7:13)と命じているにもかかわらず私たちが勝手に広い門のかんぬきを解くならば、良かれと思って招いたとしても大勢の人々を滅びに通じる道へと導いてしまうことになりかねないのです。
ですから主は「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(24)と弟子たちを招かれるのです。キリストを信じて新しい霊を受けた者であっても肉体は古い性質にあるので、そのまま生きていれば「あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる」(コリント一3:3)ことになってしまうからです。
教会の礼拝堂には十字架が掲げられています。この十字架は主イエスが私たち罪人の身代わりとなって多くの苦しみを受けて殺されたことを証しするとともに、キリストの弟子である私たちが自分を捨て主に従うために背負うべき十字架を表しています。
「わたしのために命を失う者は、それを得る」(25)と主イエスが約束されているので、私たちには十字架を背負う苦しみの先に復活の希望があるのです。「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」(ローマ14:3)
全世界を手に入れるほどの富や力ではなくとも銀貨たった30枚で主を売った者がおりました(27:3)。「それぞれの行いに応じて報いるのである」(27)と人の子と呼ばれるキリストが天使たちと共に来られることを覚えます。
使徒ペトロは書簡の中で「神の家から裁きが始まる」「わたしたちがまず裁きを受ける」と教会と私たちへの裁きについて明らかにしています。「人の子がその国と共に来る」(28)とも「神の国が力にあふれて現れる」(マルコ9:1)とも言われるその日まで、教会はキリストの十字架を背負い、私たちは自分の十字架を背負うのです。
<結び>
「生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」(フィリピ1:21)
偶像が溢れる場所であっても弟子たちは人々の声に惑わされず、「あなたはメシア、神の子です」と主イエスに告白しました。生ける神の言葉を聞いて行う「岩の上に」主はご自身の体である教会を建てると宣言されました。
「天の国の鍵」は教会が福音を正しく宣べ伝えるとともに、偶像や偽りの教えに対して門を閉ざす役割でもあります。人間のことを思うばかりに主の御心を妨げることがありうるので、私たちは自分を捨て十字架を背負って主に従うのです。
十字架にかかり御子キリストが私たち罪人の命を買い戻す代価となってくださいました。人の子の再臨において教会も裁きを受けますが、生ける神の子イエス・キリストが「命を失う者はそれを得る」と自分の十字架を背負う者たちに復活の命を与えられます。
「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」(ルカ20:38)