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ヨハネによる福音4章5−26節「霊と真理による礼拝」

 2020年6月28日 担任教師 武石晃正   プロテスタント教会は伝統として説教と聖礼典を重んじています。教団教派に分かれており、各地に地域教会が置かれているとしても、聖なる公同の教会として公の礼拝を守っています。神のことばである聖書から福音を正しく宣べ伝えるばかりでなく、キリストのからだと契約の血を覚える聖餐を礼拝の中で守ります。聖餐式を毎週執り行うことはなくとも、据えられている聖餐卓をもってひとつなる教会を覚えています。  さてご存知の通り、今年は4月より2ヶ月ほど共に集まることが制限されるという事態を経験しました。どこでどのように礼拝を守るのか、短い期間のうちに私たちは様々に模索を重ねました。もちろんこの私たちとは宇都宮上町教会ばかりを指すのではなく、ホーリネスの群をはじめ日本基督教団の諸教会、そして全国全世界の教会や伝道所をも覚えます。キリストのからだ全体が大いに悩み、今なお続いています。まことの礼拝とは何か、この問いは福音書が書かれた時代より教会が祈り求めてきたものです。 ( PDF版はこちら ) 1.どこで礼拝するのか   本日の箇所はイエス・キリストがサマリアという地方でとある女性と交わした問答が記されています。どこか二人の間で話が噛み合っていないような感じも否めませんが、会話のすべてを書き留めているわけではありませんので仕方がないことでしょう。なにしろ「弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた」(8)ので、使徒ヨハネもこの場には居合わせなかったわけですから。  ここでは井戸と水の話と礼拝するための山の話と大きく2つの話題から成っていますが、共通するところは場所と主体者と言えるでしょう。水源である井戸を守ることは身体的な死活問題であり、民族と宗教が切り離せない文化において礼拝の場所を守ることは社会的な死活問題です。礼拝の場所を失うことは民族が絶たれることとほぼ同義であり、事実紀元70年のエルサレム陥落においてユダヤ人は歴史上の表舞台から一旦その姿を消すことになりました。井戸と山とは一見すると別なもののように思われますが、命の源という主題においてひとつのつながりを見ることができます。  これら2つの話題で共通する要素は「どこか」と「誰が」、つまり場所と人が問われているということです。井戸は人々の喉を潤し、礼拝は民の魂を満た...

ヨハネによる福音3章22−36節「信仰の道」

2020年6月21日 担任教師 武石晃正  「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(ルカ2:11)と、かつてユダヤの野辺で野宿をしていた羊飼いらが天使の御告を受けました。彼らが御告を受けて探し当てたのは飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子でした。何かに抗うどころか身動きすることさえままならない弱い存在として、神の子がお生まれになりました。聖霊によりて宿り、おとめマリヤより生まれたキリストは、まことに人として地上生涯を歩まれました。  神の子である方が聖霊によって御父のみこころに従って歩まれた道です。神の子とされた者が聖霊をいただいて歩む道は、このキリストが歩まれた信仰の道に通じるものです。今日はキリストご自身の宣教活動における初期の出来事から信仰の道について探ります。 ( PDF版はこちら ) 1.迫害と困難に根ざした歩み(22-30節)  キリストすなわち私たちの救い主であるイエス様が、弟子たちと一緒にユダヤ地方に滞在したことから切り出されています(22)。イエス様ご自身は罪がない方でしたが、私たち罪人と同じ立場を取られるために悔い改めのバプテスマを受けられました。それは同時に洗礼者ヨハネの門下に入ったとみなすことができるでしょう。神の子であるからと言って一足飛びに事を運ぶようなことはなさらなかったのです。  さて洗礼者ヨハネについて24節に「まだ投獄されていなかったのである」と証言されています。なぜヨハネは投獄されたのでしょうか、何か悪事を働いたということでしょうか。彼が逮捕され、投獄されたことについてマタイによる福音書に記されています。領主ヘロデの不正を糾弾したことにより逮捕され(マタイ14:3)、その末にゆえなく洗礼者ヨハネは斬首されたのです(同14:10)。また彼の逮捕はイエス様にその活動の場を変更させるほど衝撃的なことでした(同4:12)。不正がなかったばかりか、神と人との前に正しいことを申し立てた故に逮捕され殺害されたのが洗礼者ヨハネの歩みでした。キリストの先駆者として現れたヨハネですが、イエス・キリストの福音が成立する頃にはすでに殉教者の先駆けとしての人物像が定着していたことでしょう。  ヨハネによる福音書が記された年代は諸説ありますが、そのうち早い年代を採っても紀元90年代です。キリストの十字架と復活を...

ヨハネによる福音書 14 章 8−17 節「真理の霊」

2020年6月7日 担任教師 武石晃正  救い主イエス・キリストは十字架につけられ、「全きいけにえ」となって私たち罪人の身代わりとなられました。しかしそれは死に終わるものではなく、葬られ、3 日目に復活し、栄光を受けるために天に昇られました。主が天に昇られたのは愛する弟子たちをお見捨てたのではなく、ご自身が受けられていた聖霊を弟子たちにお授けになるためでした。  お約束のとおりに主が聖霊を賜ったのが聖霊降臨日すなわちペンテコステです。今日はご聖霊の働きについてその働きの一部を探って参りましょう。   ( PDF版はこちら ) 1.神の業を示す(8-14節)  一連の話としては13章から続いており、主が十字架にかかられた過越祭に臨もうとする数日内の出来事です。主ご自身が受難を前にし、また栄光をお受けになろうとする日に近づいている緊張感がただよいます。またこの福音書は、主の直接の弟子が世を去ろうという緊迫した中で書かれました。神の子ばかりでなくその弟子たちさえいなくなるのでは、神の業が地上から絶たれてしまう恐れもあったわけです。シモン・ペトロ(13:36)、トマス(14:5)、フィリポ(14:8)と使徒たちがそれぞれにイエス様へ質問を投げかける様は、使徒ヨハネに寄せられる当時の教会の人たちの姿が重なるように思われます。  「主よ、わたしたちに御父をお示しください」と熱意のこもった求めではありますが、その心は「そうすれば満足できます」というところにありました。神のみこころを知りたいと願うことそのものはよいのですが、それが人間の思いや満足のためであるならば正しく知ることは難しいでしょう。現にイエス様と寝食を共にし、数々の奇跡を目の当たりにした弟子たちでさえ「こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか」とたしなめられています。時に人は神の御旨を求めて占いなどに手を出すことがありますが、まじないや占いを行うものを主は忌み嫌われます。繰り返しになりますが、人間の都合や欲求から神のみこころを知ることはできないのです。  主ご自身も神の独り子でありながら、自分の思いではなく「わたしのうちにおられる父」によって業を行われました。このことを思う時、私は自分の祈りが的を射ていないものだったのではないかと考えさせられました。自分の願いを叶えるために、神様を呼びつけてあれ...

ヨハネによる福音書 14 章 8−17 節「真理の霊」

 2020年6月7日 担任教師 武石晃正  救い主イエス・キリストは十字架につけられ、「全きいけにえ」となって私たち罪人の 身代わりとなられました。しかしそれは死に終わるものではなく、葬られ、3 日目に復活し、栄光を受けるために天に昇られました。主が天に昇られたのは愛する弟子たちをお見捨てたのではなく、ご自身が受けられていた聖霊を弟子たちにお授けになるためでした。  お約束のとおりに主が聖霊を賜ったのが聖霊降臨日すなわちペンテコステです。今日はご聖霊の働きについてその働きの一部を探って参りましょう。  PDFはこちら