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ヨハネによる福音書10章7-18節「大牧者がお見えになる」

2026年4月19日 牧師 武石晃正  復活節第3主日を迎えました。主イエス・キリストが死人のうちよりよみがえられたイースターの喜びから引き続き、主の復活の命と恵みにあずかる期間として歩んでおります。  新年度に入って3度目の主日であり、次週には私たち米子教会は2026年度を教会として主に捧げるべく定期教会総会を行おうとしています。本日はヨハネによる福音書を開いて「羊の門」また「良い羊飼い」にたとえられた主イエスご自身を覚えつつ、「大牧者がお見えになる」と題してキリストの体なる教会と信仰者自身の歩みについて思い巡らせましょう。 ( PDF版はこちら ) 1.わたしは羊の門である  「はっきり言っておく。わたしは羊の門である」(7)と主イエス・キリストはご自身について宣言されました。とはいえ福音書の読者である現代の日本に生きる私たちにとって、羊や羊飼いの姿を日常的に目にする機会はほとんどないことも事実です。  福音書に記されている時代の古代中東の社会では、羊飼いと羊の関係は文字通り命を繋ぐ最も身近で絶対的なものでありました。まず思い起こしていただきたいのは、羊という動物が皆様もご存知のように自らを守る牙も鋭い爪も持っていないということです。  力ばかりか視力も弱いため、羊たちは羊飼いが導かなければ豊かな牧草を見つけることも澄んだ水場にたどり着くこともできないのです。そして何より、荒野を徘徊する狼や羊を奪おうとする盗人たちから身を守るすべを羊は一切持っていないわけです。  聖書は私たち人間の真の姿をこの羊に例えています。現代社会は一見すると非常に豊かで安全で、高度な仕組みに守られているように見えますが、病や肉体の衰えなどの困難は狼のように突如として襲いかかってくるものです。  一歩礼拝堂の外に出て現実の生活に向き合えば、職場で毎日のようにのしかかる責任と重圧、誰にも理解されない心の奥底の深い孤独という困難が私たちを待ち受けています。これらはすべて私たちの命と魂を脅かす「狼」のようであり、実に私たちは自分自身の力では自分を守り切ることのできない弱い羊であることを思い知るところです。  古代の羊飼いたちは野営をする際に石を積み上げて囲いを作りました。扉のない囲いの入り口に羊飼い自身が自らの体を横たえて眠ることで、か弱い羊たちを守ります。  羊飼いの肉体そのものが「門」となる...

ヨハネによる福音書20章19-31節「日々新たにされて」

2026年4月12日 牧師 武石晃正  復活節第2主日の礼拝を迎えました。先週はイースター礼拝として教会の最大の喜びである主イエス・キリストの復活を祝う礼拝をいたしました。  実際に死人がよみがえったことを目の当たりにしたことがない者としては復活と聞いても俄かには信じがたいものではあります。けれども聖書の言葉を信じる私たちには主の復活の喜びが、死の力を打ち破り永遠の命がもたらされた希望が心に満ちているのです。  一方で私たちがひとたびこの礼拝堂から一歩外に出ればそこには病や肉体の衰え、生活の重圧などの自らの力ではどうすることもできない不安が待ち受けているのも事実です。本日はヨハネによる福音書を中心に「日々新たにされて」と題し、失望と恐れの中に現わされたイエス・キリストの復活の恵みを求めてまいりましょう。 ( PDF版はこちら ) 1.「信じる者になりなさい」  世界で最初のイースターの朝、そこにあったのは喜びに満ち溢れた祝祭の空気ではなく、むしろ深く重い恐れと暗い不安に包まれた弟子たちの姿でした。主イエスが十字架におかかりになったあの過酷な金曜日から三日目である「週の初めの日」のことです。  主イエスが復活されたという知らせはマグダラのマリアたちを通してすでに一部の弟子たちの耳に届いてはいました(2)。その弟子たちについてヨハネによる福音書は「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」(19)と記しています。  弟子たちは、師である主イエスがあのような残酷な十字架刑で処刑された以上、次は自分たちが捕らえられ同じように殺されるのではないかという死の恐怖で身をすくませていました。それと同時に、主イエスが捕らえられた時、自分たちが見捨てて逃げ出してしまったという深い罪悪感と自己嫌悪に苛まれていたことでしょう。  「もし本当に主イエスが復活されたのなら、あんな風に裏切って逃げ出した私たちをきっとお見捨てになるに違いない。厳しくお叱りになるに違いない」。そのような恐れも、彼らを部屋の奥へと閉じ込めていた大きな要因であったのではないでしょうか。  なんとそこへ彼らの主が真ん中に立って「『あなたがたに平和があるように』と言われた」(19)のです。頑丈に掛けられた物理的な鍵も彼らの心を満たしていた恐怖や不信仰の壁も、もはや...

ヨハネによる福音書20章1-18節「三日目に復活したこと」

2026年4月5日 牧師 武石晃正  受難節(レント)における主イエス・キリストの十字架への深い苦難と死の歩みを覚える日々を経て、本日は輝かしい復活節第1主日すなわちイースターの朝を迎えました。主イエス・キリストは冷たい石の墓に閉じ込められることなく、死の力と暗闇の支配を完全に打ち砕いて三日目に死人のうちよりよみがえられました。  圧倒的なキリストの勝利の知らせは2000年近い隔たりと国や民族の壁を超えて、今日この場に集う私たち一人ひとりにも等しく届けられています。本日はこの復活節の礼拝においてヨハネによる福音書を開き、「三日目に復活したこと」と題して主の復活という歴史的事実とキリストの体である教会の歩みにについて御言葉に心を向けましょう。 ( PDF版はこちら ) 1.なぜ泣いているのか  キリスト信仰において「復活」の喜びを語るためには、決して避けて通ることのできない厳粛な前提があります。それは、主イエスが完全に死んで葬られたという事実です。  「復活」という言葉を「復(ま)た活きる」と読み下すならば、キリストは再び生きるために一度完全に命が絶たれ死の支配下に置かれなければなりませんでした。仮死状態から息を吹き返したという程度の話ではなく、私たち人類のすべての罪をその身に背負ったゆえに父なる神から見捨てられてまで死の苦しみを味わい尽くされたのです。  アリマタヤのヨセフとニコデモによってイエスの遺体は亜麻布で包まれて「だれもまだ葬られたことのない新しい墓」(19:41)に葬られました。その入り口が大きな石を転がしてふさがれたことは(マタイ27:60)弟子たちにとってすべての希望の終わりであり、絶対的な絶望の象徴でした。  しかし、イエスの死は終わりではありませんでした。父なる神はモーセと預言者たちに与えた御言葉の成就として、主イエスを三日目に死者の中から復活させられたのです。  朗読の箇所はその「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうち」(1)に起きた出来事です。その早朝、マグダラのマリアが深い悲しみの中で主の墓を訪れました。  愛する主を失ったこのマリアにとって、せめてその遺体に香料を塗って最後の世話をすることだけが残されたささやかな慰めとなるはずでした。ところが彼女は「墓から石が取りのけてあるのを見た」(1)ために慰めを得る間もなくなってしまいました。  涙でまぶ...

マルコによる福音書15章21-41節「十字架の死に至るまで」

2026年3月29日 牧師 武石晃正  教会暦において本日は受難節第6主日を迎えまして、この一週間は「受難週」として復活日(イースター)の前日まで守られます。受難週は私たちの救い主であるイエス・キリストが十字架の死に至るまで負ってくださった苦難の歩みを最も深く覚える期間です。  受難週にあたり私たちは自分自身の信仰の姿勢を静かに省みつつ、真心から主イエス・キリストに従う道を尋ね求めます。本日はマルコによる福音書を中心に「十字架の死に至るまで」と題して、主イエスの十字架の言葉に聞き従いましょう。 ( PDF版はこちら ) 1.無理に担がされた十字架  まずは十字架の言葉に思いを寄せましょう。マルコによる福音書はマタイやルカによる福音書と同じく、一人の予期せぬ人物の登場からイエスの十字架について語り始めます。  「そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた」(15:21)と書かれています。福音書がわざわざ「アレクサンドロとルフォスとの父」として紹介していることから、この親子の信仰が古代の教会の中で広く受け継がれていたと知ることができます。  当時のローマ帝国における十字架刑は、国家に対する反逆者などに科せられる最も残酷で恥辱に満ちた処刑方法でした。死刑囚はゴルゴタの丘まで自ら十字架の横木を背負って歩かされるのが通例でしたが、主イエスはすでにおびただしい鞭打ちを受け自ら歩みを進めることができないほどに衰弱しきっておられました。  そこでローマの兵士たちは、過越祭のために遠方から巡礼に来ていたキレネ人シモンに目をつけました。「無理に担がせた」という言葉には、公権力によって強制的に徴用するという意味合いがあります。  シモンにとってこれは全く理不尽なことであり、寝耳に水の災難であったはずです。見知らぬ死刑囚の刑具を背負わされては祭りのために清めていた身が汚れ、ローマへの反逆の片棒を担がされるような恐ろしささえ感じたことでしょう。  無理やり十字架を背負わされたシモンはこの日、人生で最悪の日というものを味わいました。しかし血にまみれた重荷を背負ってキリストの後を歩んだことこそが、後に彼自身ばかりでなく彼の家族をも救いへと導く信仰に結びついたのです。  人生においても予期せぬ苦難や病、...

マルコによる福音書10章32-45節「御子の死によって」

2026年3月22日 牧師 武石晃正  3月も下旬に入り、受難節第5主日を迎えました。この山陰地方にも本格的な春の訪れを感じる季節となり、柔らかな日差しが大地を優しく温め始めています。  季節は春を迎えつつも、私たちが自分自身の人生や内なる心に目を向けるとき、必ずしもそこには暖かな春の風景ばかりが広がっているわけではないものです。病の苦しみや先の見えない不安を抱えては、あるいは日々の生活における人間関係での葛藤や孤独などが私たちを「荒れ野」のただ中に立たせることもあるでしょう。  受難節は神の子キリストが人間として私たちと全く同じ肉体をとられ、痛みや苦しみという現実を味わわれたことを黙想する期間です。本日はマルコによる福音書10章を開きつつ、「御子の死によって」という題で私たちの身代わりに十字架の苦難を引き受けてくださったキリストの恵みに思いを深めましょう。 ( PDF版はこちら ) 1.自分が何を願っているか  「一行がエルサレムへ上って行く途中」(32)という場面でありまして、先頭に立って行かれるイエスを見て「弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた」というのです。主はご自身が十字架に架けられる場所であるエルサレムへと断固たる決意をもって歩まれるのですから、その背中に覚悟とただならぬ気迫を感じて弟子たちは言葉を失ったことでしょう。  改めて主イエスは十二人の弟子たちを再び呼び寄せ、ご自分が祭司長たちばかりでなく異邦人にまで引き渡されて殺されることを告げられました(32-34)。これは弟子たちに対する3度目の受難予告であり、「三日の後に復活する」(34)ことも含めて主はご自分が向かっているのが死への道であることをはっきりと弟子たちに伝えたのです。  ところが主イエスがご自身の死に至る激しい苦難について語られたばかりというのに、ゼベダイの子ヤコブとヨハネが耳を疑うようなことを願い出ました。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」(37)  彼らはナザレのイエスがエルサレムに上り、そこでローマ帝国の支配を打ち破って力強い地上の王となられることを期待していました。そして新しい政治体制が樹立された暁には、自分たち兄弟に右大臣と左大臣のような最高の地位を与えてほしいと懇願したのです。  主イエスは死に至るまで神に従い、人々のため...

マルコによる福音書9章2-10節「死者の中から復活するまで」

2026年3月15日 牧師 武石晃正  受難節(レント)の第4主日を迎え、主イエス・キリストの十字架への歩みを深く覚えます。私たち自身の信仰の姿勢を静かに省みつつ、この主日の礼拝において私たちは先月主の御許へ帰られた山崎光子姉の告別をいたします。  天の故郷へと凱旋された姉妹の地上における信仰の歩みに思いを寄せ、今日ともに主の御前に集われるご遺族ご近親のお一人ひとりを主なる神が豊かな慰めと平安で顧みてくださることを祈ります。私たちの救い主である主イエス・キリストの栄光を仰ぎつつ、本日はマルコによる福音書を開き「死者の中から復活するまで」と題して主の憐み深さを慕い求めましょう。 ( PDF版はこちら ) 1.人の子は苦しみを重ね  地上に生きるすべての人間はいずれ等しく「死」という圧倒的な現実に直面します。愛する家族との別れや肉体の衰えを伴い、自らの力ではどうすることもできない現実です。  あるいは長く続く病による苦しみは絶えず私たちを悩ませ、時に心までをも深く打ち砕きます。しかし、キリストの福音に生きる者にとって「死」とは決してすべての終わりを意味するものではないのです。  なぜなら私たちは「死者の中から復活する」という確かな約束を、死を打ち破られた救い主であるキリストご自身からいただいているからです。私たちがどのような暗闇の谷間を歩む時であっても、遣わされているその場所において神は必ず恵みの光を受け継がせてくださると私たちは信じます。  マルコによる福音書9章には、主イエスが十字架の苦しみをお受けになる前に3人の弟子たちにご自身の栄光をはっきりと示された出来事が記されています。ガリラヤ地方での宣教活動からいよいよ十字架が待ち受けるエルサレムへと進路を定められた時のことです。  主イエスはご自身がこれから長老や祭司長たちから排斥され、殺されるという受難の予告を弟子たちに明かされました(8:31)。そして、ご自身に従う者たちにも、自分の十字架を背負って従うようにと、厳しい覚悟を求められたのです(8:34)。  それから6日後のこと、主イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけを連れて高い山に登られました(2)。日常の喧騒や人々の群れから離れたこの高い山は、かつて旧約聖書の時代にモーセがシナイ山に登って神の栄光に触れた出来事を思い起こさせます(出34章)。  そこで突如と...

マルコによる福音書8章27-34節「信仰と愛をもって」

2026年3月8日 牧師 武石晃正  教会暦において本日は受難節第3主日を迎え、私たちの救い主であるイエス・キリストが罪に満ちたこの世界においてどのような道を歩まれたのかを深く思い巡らします。十字架の苦難へと向かわれる主を覚えつつ、受難節(レント)において私たちは自らの信仰と生活を静かに省みるのです。  キリストの体である教会とその肢(えだ)である私たち一人ひとりもまた、この世において苦難に直面しながらも福音の真理を保ちつつ主の証し人として歩み続けます。本日は受難節第3主日にあたりマルコによる福音書を開き、「信仰と愛をもって」真心から私たちが主イエス・キリストに従う道を尋ね求めてまいりましょう。 ( PDF版はこちら ) 1.「あなたは、メシアです」    本日の福音書の箇所は、主イエスが弟子たちを伴って「フィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった」(27)場面から始まります。このフィリポ・カイサリアという地名は、当時の社会的、宗教的背景を理解する上で非常に重要な意味を持っています。  この町は、ガリラヤ湖からさらに北へ向かったヘルモン山の麓に位置し、異邦人の文化が色濃く交錯する場所でした。その名は、時のローマ皇帝カエサル(カイザル)と、この地を統治していた領主ヘロデ・フィリポの名に由来しています。  ここにはローマ皇帝を現人神として礼拝するための壮大な神殿が築き上げられ、まことの命を持たない木や石で作られた偶像が立ち並ぶ偶像礼拝の中心地ともいえる場所でありました。ローマ帝国という圧倒的な軍事力と政治権力が支配するこの場所において、主イエスはあえて弟子たちを立ち止まらせて声を抑えるように問いを投げかけられました。   「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」(27)という主の問いに対し、弟子たちはこれまでの宣教の旅の中で耳にしてきた群衆の声を報告します。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」(28)。  群衆の認識はナザレのイエスを単なる一介の教師ではなく神から遣わされた特別な存在と見ていましたが、あくまで「預言者の一人」という枠内に留まります。人々は奇跡や大勢の腹を満たしたパンを熱望しただけで、この方ご自身が独り子である神すなわち地上の王たちの支配者(黙示1:4)であるという真理に...