ヨハネによる福音書16章12-24節「真理の霊が来る」

2026年5月10日
牧師 武石晃正


 5月の第2日曜日は「母の日」として教会ばかりでなく世の中の多くの人々も母に感謝をいたします。日本の法律の上では5月5日に「母に感謝する日」と定めがありますますので、母への感謝に感謝を重ねて覚えることであります。
 一方で教会暦ではイースターの喜ばしい朝から数週間が経過し、私たちの歩みは復活節の第6主日を迎えました。本日はヨハネによる福音書を開き、「真理の霊が来る」と題して主の復活と再臨に思いを深めてまいりましょう。


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1.キリストを見なくなることによる悲しみ

 朗読の箇所は主イエスが十字架に架かられる前夜、弟子たちと最後の食事を共にしながら語られた告別の説教の場面です。明日には十字架の死が迫っているという極限の状況の中で、主イエスは愛する弟子たちに向かっておもむろに語られました。
 もしあなたが最も信頼している方から「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない」(12)と打ち明けられたなら、一体どのような気持ちを抱くでしょうか。原文の言葉を直訳するならば、この一言には「あなたがたは今、それに耐えることができない」という重い響きがあるのです。

 3年間あまりの年月を弟子たちはこれまですっと主イエスと寝食を共にし、数々の奇跡を目の当たりにしては神の国の福音を聞いてきました。しかし、いざ彼らの主が十字架につけられてこの地上から去っていこうとされるという現実を前にして、彼らの理解力と信仰は完全に限界に達していたことであります。
 「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなる」(16)とのお言葉は、その真の意味が分からなくとも弟子たちの心に非常に深い絶望と悲しみの影を落とすのです。いつも頼りにしていた方が暴力と死によって彼らのもとから奪い去られ、もはや見えなくなってしまうというのです。

 しかし、この「わたしを見なくなる」という耐え難い悲しみと喪失の経験は決して2000年前の弟子たちだけのものではないのです。私たち一人ひとりの歩みの中にも、まさに「今は耐えられない」と叫びたくなるような重圧や孤独、そして喪失という現実が横たわっています。
 教会の交わりにおいて、長く共に信仰の歩みをしてきた敬愛する者たちを天へと見送ることが起こります。愛する信仰の友の姿がこの礼拝堂から見えなくなり、その声を直接聞くことができなくなるという現実があるのです。

 その魂はすでに御父のもとに委ねられていると信じているとしても、地上における別れは姿が見えなくなることへの深い悲しみを私たちの心にまざまざと突きつけます。そして私たちは肉体の死という冷酷な壁の前で、自らの無力さを思い知らされる弱い羊のような存在に過ぎないことを改めて知るのです。
 地上の生涯において信仰者が味わううめきを伴う深い悲しみは、私たち個人の生活や教会の内側にとどまるものではないことです。使徒パウロの書簡に照らすならば、ローマの信徒への手紙の中で「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている」(ローマ8:22)と語られています。

 この言葉のとおりに私たちが生きているこの世界を見渡すとき、そこにはまさに被造物全体の絶望的なうめき声が満ちあふれています。天地創造において最初の人アダムが主なる神に背いたために「お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ」(創3:17)と宣告されて以来、彼の子孫であるすべての人類をこの呪われた被造物が取り囲んでいるからです。
 そのような凄惨な現実を前にして、私たちの心はどうなっているでしょうか。同じ世界で起きているとは思いたくないような光景が映像として映し出されても、まるで道の向こう側から眺めているかのように慣れてしまっていることもあるのです。

いつの間にか被造物のうめきさえ聞こえないほどに私たち人間は慣れてしまっているのではないでしょうか。実はこれこそが人間の罪の深さであり、主イエスがもたらした平和と命が「見えなくなっている」世界の暗闇そのものです。
 すべての人は神の前に罪を犯したので死の力に脅かされているのに、永遠の滅びに定められて共にうめき声を上げていることに自ら気づいていないからです。「あなたがたは泣いて悲嘆に暮れる」(2)と告げられた主の弟子たちがそうであったように、私たちも自らの力だけでは乗り越えられない悲しみやうめきというものを避けられないことも事実です。


2.真理の霊が与える再臨と復活の希望

 ところが、主イエスの言葉は「見なくなる」という絶望で終わることはありませんでした。主は悲しみとうめきに沈む弟子たちに、「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」(13)と驚くべき約束を与えられます。
 そればかりか「またしばらくすると、わたしを見るようになる」(16)と約束されたのです。「しばらく」とはこの時点では弟子たちにとって思いもよらないことでありましたが、実に主イエスが十字架の死を経て三日目に復活し、天に昇られた後のことであります。

 ペンテコステの日に父なる神のもとから「真理の霊」である聖霊が遣わされました。真理の霊とは私たちが自分の力ではたどり着くことができない神の真理へと私たちを導き、悟らせてくださる方です。
 弟子たちにとって主イエスとの別れがそうであったように私たちは現実の重圧に耐えられないほどに力のない存在であるわけです。それでも主なる神は私たちを見捨てることなどなさらずに、御子が天に帰られた後に真理の霊をお与えくださいました。

 キリストが死と罪の力にすでに勝利しており今も目に見えない形で私たちと共に歩んでおられることを事実として、真理の霊は私たちの心のうちに悟らせてくださいます。真理の霊が降ると私たちは肉眼における視覚に代わって霊的な目を与えられ、キリストが共におられることを心で「見るようになる」のです。
 使徒パウロがローマの信徒への手紙において、この聖霊の働きをさらに具体的な慰めとして語っています。「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」(ローマ8:26)

 深い悲しみあるいは身に降りかかる理不尽さを前にして、私たちは祈る言葉さえ失ってうめくしかないことがあります。そのような時に私たちの内に住まわれる真理の霊が私たちのうめきを引き受けてくださり、神の御心に従って執り成してくださるというのです。
 苦しみもがく私たちの只中に真理の霊が共にいてくださることはなんと大きな恵みでしょうか。そればかりか、主イエスは「女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである」(16:21)という産みの苦しみの比喩を用いて、真実なる希望を語られました。

 子供が生まれた喜びによって苦闘を忘れるように、私たちの現在のうめきは決して死と虚無へと向かう絶望的な苦痛ではないということです。私たちが地上で受けるしばらくの苦しみは陣痛のようであり、「一人の人間が世に生まれ出た喜び」として新しく創造された者として新生の恵みに与るものであると主は説かれます。
 更にこの恵みはキリストを信じる者たちの心の内だけにとどまらず、新しく生まれた喜びから救いの完成という希望へと続いています。それこそパウロが語っている「神の子とされること、つまり、体の贖われること」(8:23)なのです。

 主キリストの十字架の死と復活よって与えられる救いが単に死後に魂が天国に行って平安を得るということだけであったなら、ともすれば口約束や気休めのようなものに思われることもあるでしょう。ところが聖書が約束する希望の行きつくところは世の終わりにおけるキリストの再臨にあり、その時に「身体(からだ)のよみがへり」(使徒信条)があるとホーリネス信仰は「四重の福音」のうちに信じます。
 イエス・キリストを死者の中から復活させた方の霊が私たちの内に宿っておられるのですから、その同じ霊が私たちの死ぬべき体をも生かしてくださいます。これこそが「わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」(ヨハネ16:22)と主イエスが約束された喜びの完成です。

 信仰とともに一人ひとりに与えられた真理の霊がキリストにある永遠の命ばかりでなく肉体の復活という希望をも確かにしてくださいます。そしてキリストの体である教会に御父と御子から遣わされた真理の霊が与えられているのですから、私たちもまた「“霊”の初穂をいただいて」(8:23)神の子とされた喜びを証するため世に対して遣わされます。
 新生の恵みによって神の子として新しく作られた私たちは真理の霊の導きによって聖化の歩みを続けます。魂ばかりでなく体の贖われること信じる私たちは神癒の恵みに与りながら、主のふたたび来たりたもう日であるキリストの再臨を待ち望みます。


<結び>

 「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」(ヨハネ16:13)

 主イエスとの別れは弟子たちに深い悲しみをもたらしましたが、主は「真理の霊」を遣わし、再び会う喜びを約束されました。聖霊は祈る言葉さえ失いうめく私たちの弱さを助け、執り成してくださいます。
 信仰者にとって現在の苦しみは絶望の予兆ではなく、「産みの苦しみ」のように新しい命が生まれる希望があります。私たちはキリストの再臨による体の贖いを待ち望みつつ、真理の霊が来ることで悟らせていただいた復活の喜びと希望のうちを歩みます。

 「被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」(ローマ8:23)


(引用「聖書新共同訳」©日本聖書協会)


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