投稿

3月, 2026の投稿を表示しています

マルコによる福音書15章21-41節「十字架の死に至るまで」

2026年3月29日 牧師 武石晃正  教会暦において本日は受難節第6主日を迎えまして、この一週間は「受難週」として復活日(イースター)の前日まで守られます。受難週は私たちの救い主であるイエス・キリストが十字架の死に至るまで負ってくださった苦難の歩みを最も深く覚える期間です。  受難週にあたり私たちは自分自身の信仰の姿勢を静かに省みつつ、真心から主イエス・キリストに従う道を尋ね求めます。本日はマルコによる福音書を中心に「十字架の死に至るまで」と題して、主イエスの十字架の言葉に聞き従いましょう。 ( PDF版はこちら ) 1.無理に担がされた十字架  まずは十字架の言葉に思いを寄せましょう。マルコによる福音書はマタイやルカによる福音書と同じく、一人の予期せぬ人物の登場からイエスの十字架について語り始めます。  「そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた」(15:21)と書かれています。福音書がわざわざ「アレクサンドロとルフォスとの父」として紹介していることから、この親子の信仰が古代の教会の中で広く受け継がれていたと知ることができます。  当時のローマ帝国における十字架刑は、国家に対する反逆者などに科せられる最も残酷で恥辱に満ちた処刑方法でした。死刑囚はゴルゴタの丘まで自ら十字架の横木を背負って歩かされるのが通例でしたが、主イエスはすでにおびただしい鞭打ちを受け自ら歩みを進めることができないほどに衰弱しきっておられました。  そこでローマの兵士たちは、過越祭のために遠方から巡礼に来ていたキレネ人シモンに目をつけました。「無理に担がせた」という言葉には、公権力によって強制的に徴用するという意味合いがあります。  シモンにとってこれは全く理不尽なことであり、寝耳に水の災難であったはずです。見知らぬ死刑囚の刑具を背負わされては祭りのために清めていた身が汚れ、ローマへの反逆の片棒を担がされるような恐ろしささえ感じたことでしょう。  無理やり十字架を背負わされたシモンはこの日、人生で最悪の日というものを味わいました。しかし血にまみれた重荷を背負ってキリストの後を歩んだことこそが、後に彼自身ばかりでなく彼の家族をも救いへと導く信仰に結びついたのです。  人生においても予期せぬ苦難や病、...

マルコによる福音書10章32-45節「御子の死によって」

2026年3月22日 牧師 武石晃正  3月も下旬に入り、受難節第5主日を迎えました。この山陰地方にも本格的な春の訪れを感じる季節となり、柔らかな日差しが大地を優しく温め始めています。  季節は春を迎えつつも、私たちが自分自身の人生や内なる心に目を向けるとき、必ずしもそこには暖かな春の風景ばかりが広がっているわけではないものです。病の苦しみや先の見えない不安を抱えては、あるいは日々の生活における人間関係での葛藤や孤独などが私たちを「荒れ野」のただ中に立たせることもあるでしょう。  受難節は神の子キリストが人間として私たちと全く同じ肉体をとられ、痛みや苦しみという現実を味わわれたことを黙想する期間です。本日はマルコによる福音書10章を開きつつ、「御子の死によって」という題で私たちの身代わりに十字架の苦難を引き受けてくださったキリストの恵みに思いを深めましょう。 ( PDF版はこちら ) 1.自分が何を願っているか  「一行がエルサレムへ上って行く途中」(32)という場面でありまして、先頭に立って行かれるイエスを見て「弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた」というのです。主はご自身が十字架に架けられる場所であるエルサレムへと断固たる決意をもって歩まれるのですから、その背中に覚悟とただならぬ気迫を感じて弟子たちは言葉を失ったことでしょう。  改めて主イエスは十二人の弟子たちを再び呼び寄せ、ご自分が祭司長たちばかりでなく異邦人にまで引き渡されて殺されることを告げられました(32-34)。これは弟子たちに対する3度目の受難予告であり、「三日の後に復活する」(34)ことも含めて主はご自分が向かっているのが死への道であることをはっきりと弟子たちに伝えたのです。  ところが主イエスがご自身の死に至る激しい苦難について語られたばかりというのに、ゼベダイの子ヤコブとヨハネが耳を疑うようなことを願い出ました。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」(37)  彼らはナザレのイエスがエルサレムに上り、そこでローマ帝国の支配を打ち破って力強い地上の王となられることを期待していました。そして新しい政治体制が樹立された暁には、自分たち兄弟に右大臣と左大臣のような最高の地位を与えてほしいと懇願したのです。  主イエスは死に至るまで神に従い、人々のため...

マルコによる福音書9章2-10節「死者の中から復活するまで」

2026年3月15日 牧師 武石晃正  受難節(レント)の第4主日を迎え、主イエス・キリストの十字架への歩みを深く覚えます。私たち自身の信仰の姿勢を静かに省みつつ、この主日の礼拝において私たちは先月主の御許へ帰られた山崎光子姉の告別をいたします。  天の故郷へと凱旋された姉妹の地上における信仰の歩みに思いを寄せ、今日ともに主の御前に集われるご遺族ご近親のお一人ひとりを主なる神が豊かな慰めと平安で顧みてくださることを祈ります。私たちの救い主である主イエス・キリストの栄光を仰ぎつつ、本日はマルコによる福音書を開き「死者の中から復活するまで」と題して主の憐み深さを慕い求めましょう。 ( PDF版はこちら ) 1.人の子は苦しみを重ね  地上に生きるすべての人間はいずれ等しく「死」という圧倒的な現実に直面します。愛する家族との別れや肉体の衰えを伴い、自らの力ではどうすることもできない現実です。  あるいは長く続く病による苦しみは絶えず私たちを悩ませ、時に心までをも深く打ち砕きます。しかし、キリストの福音に生きる者にとって「死」とは決してすべての終わりを意味するものではないのです。  なぜなら私たちは「死者の中から復活する」という確かな約束を、死を打ち破られた救い主であるキリストご自身からいただいているからです。私たちがどのような暗闇の谷間を歩む時であっても、遣わされているその場所において神は必ず恵みの光を受け継がせてくださると私たちは信じます。  マルコによる福音書9章には、主イエスが十字架の苦しみをお受けになる前に3人の弟子たちにご自身の栄光をはっきりと示された出来事が記されています。ガリラヤ地方での宣教活動からいよいよ十字架が待ち受けるエルサレムへと進路を定められた時のことです。  主イエスはご自身がこれから長老や祭司長たちから排斥され、殺されるという受難の予告を弟子たちに明かされました(8:31)。そして、ご自身に従う者たちにも、自分の十字架を背負って従うようにと、厳しい覚悟を求められたのです(8:34)。  それから6日後のこと、主イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけを連れて高い山に登られました(2)。日常の喧騒や人々の群れから離れたこの高い山は、かつて旧約聖書の時代にモーセがシナイ山に登って神の栄光に触れた出来事を思い起こさせます(出34章)。  そこで突如と...

マルコによる福音書8章27-34節「信仰と愛をもって」

2026年3月8日 牧師 武石晃正  教会暦において本日は受難節第3主日を迎え、私たちの救い主であるイエス・キリストが罪に満ちたこの世界においてどのような道を歩まれたのかを深く思い巡らします。十字架の苦難へと向かわれる主を覚えつつ、受難節(レント)において私たちは自らの信仰と生活を静かに省みるのです。  キリストの体である教会とその肢(えだ)である私たち一人ひとりもまた、この世において苦難に直面しながらも福音の真理を保ちつつ主の証し人として歩み続けます。本日は受難節第3主日にあたりマルコによる福音書を開き、「信仰と愛をもって」真心から私たちが主イエス・キリストに従う道を尋ね求めてまいりましょう。 ( PDF版はこちら ) 1.「あなたは、メシアです」    本日の福音書の箇所は、主イエスが弟子たちを伴って「フィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった」(27)場面から始まります。このフィリポ・カイサリアという地名は、当時の社会的、宗教的背景を理解する上で非常に重要な意味を持っています。  この町は、ガリラヤ湖からさらに北へ向かったヘルモン山の麓に位置し、異邦人の文化が色濃く交錯する場所でした。その名は、時のローマ皇帝カエサル(カイザル)と、この地を統治していた領主ヘロデ・フィリポの名に由来しています。  ここにはローマ皇帝を現人神として礼拝するための壮大な神殿が築き上げられ、まことの命を持たない木や石で作られた偶像が立ち並ぶ偶像礼拝の中心地ともいえる場所でありました。ローマ帝国という圧倒的な軍事力と政治権力が支配するこの場所において、主イエスはあえて弟子たちを立ち止まらせて声を抑えるように問いを投げかけられました。   「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」(27)という主の問いに対し、弟子たちはこれまでの宣教の旅の中で耳にしてきた群衆の声を報告します。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」(28)。  群衆の認識はナザレのイエスを単なる一介の教師ではなく神から遣わされた特別な存在と見ていましたが、あくまで「預言者の一人」という枠内に留まります。人々は奇跡や大勢の腹を満たしたパンを熱望しただけで、この方ご自身が独り子である神すなわち地上の王たちの支配者(黙示1:4)であるという真理に...

マルコによる福音書3章20-30節「神の言葉を取りなさい」

  2026年3月1日(交換講壇)玉島教会主日礼拝 牧師 武石晃正  本日は玉島教会と米子教会にて東中国教区宣教部による礼拝交流事業としての交換講壇が行われております。それぞれに普段より主日礼拝の説教が日本基督教団の聖書日課に則って語られておりますので、教師が交換しても切り口こそ違えど同じ聖書箇所から御言葉が取り次がれることは感謝です。  教会暦において受難節(レント)の第2主日を迎えています。救い主イエス・キリストが私たちの罪を身代わりに負うために多くの苦難と痛みを引き受けられたことを覚え、静かに祈りを深めましょう。  地上を歩まれた公生涯において、主キリストは徹底した苦難の中を歩まれました。本日は受難節第2主日にあたりマルコによる福音書を中心に「大きな救い」と題し、悪と戦うキリストの姿を見つめながらキリスト者がどのように神の言葉を取って生きるべきかを共に聴き取ってまいりましょう。 ( PDF版はこちら ) 1.神の家の内輪もめ  マルコによる福音書3章の場面は、ただならぬ忙しさの中で始まります。キリストが家におられると群衆が押し寄せ、「一同は食事をする暇もないほどであった」(20)と記されています。  マタイによる福音書によれば、このとき主イエスのもとには目が見えず口の利けない人が連れてこられていました(マタイ12:22)。キリストとその弟子たちは人々の病を癒し悪霊を追い出し、人々に神の国の福音を語るために、自分自身の生活や食事すらも犠牲にして愛の業に奔走しておられました。  身を粉にして仕えるという言葉がこれほどふさわしい場面はありません。誰でもお腹が一杯になれば笑顔になり空腹であればイライラして争いの原因となります。  食事を共にすることは愛と平和の始まりと言えるでしょう。けれども主イエスはその最低限の慰めである食事すら後回しにして、人々の救済に向かい合っておられました。  ところがその多忙を極めるキリストのもとへ、冷ややかな視線を送る2種類の集団が現れます。一つは、キリストの身内の人たちでした。  「あの男は気が変になっている」(21)という噂を聞きつけ、恥ずかしいから取り押さえて連れ戻そうとやって来たのです。「気が変になっている」とは、我を忘れた狂人のようだと見なされていたということですから、家族から狂人扱いされることは主イエスにとってどれほど深...