マルコによる福音書3章20-30節「神の言葉を取りなさい」
2026年3月1日(交換講壇)玉島教会主日礼拝
牧師 武石晃正
本日は玉島教会と米子教会にて東中国教区宣教部による礼拝交流事業としての交換講壇が行われております。それぞれに普段より主日礼拝の説教が日本基督教団の聖書日課に則って語られておりますので、教師が交換しても切り口こそ違えど同じ聖書箇所から御言葉が取り次がれることは感謝です。
教会暦において受難節(レント)の第2主日を迎えています。救い主イエス・キリストが私たちの罪を身代わりに負うために多くの苦難と痛みを引き受けられたことを覚え、静かに祈りを深めましょう。
地上を歩まれた公生涯において、主キリストは徹底した苦難の中を歩まれました。本日は受難節第2主日にあたりマルコによる福音書を中心に「大きな救い」と題し、悪と戦うキリストの姿を見つめながらキリスト者がどのように神の言葉を取って生きるべきかを共に聴き取ってまいりましょう。
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1.神の家の内輪もめ
マルコによる福音書3章の場面は、ただならぬ忙しさの中で始まります。キリストが家におられると群衆が押し寄せ、「一同は食事をする暇もないほどであった」(20)と記されています。
マタイによる福音書によれば、このとき主イエスのもとには目が見えず口の利けない人が連れてこられていました(マタイ12:22)。キリストとその弟子たちは人々の病を癒し悪霊を追い出し、人々に神の国の福音を語るために、自分自身の生活や食事すらも犠牲にして愛の業に奔走しておられました。
身を粉にして仕えるという言葉がこれほどふさわしい場面はありません。誰でもお腹が一杯になれば笑顔になり空腹であればイライラして争いの原因となります。
食事を共にすることは愛と平和の始まりと言えるでしょう。けれども主イエスはその最低限の慰めである食事すら後回しにして、人々の救済に向かい合っておられました。
ところがその多忙を極めるキリストのもとへ、冷ややかな視線を送る2種類の集団が現れます。一つは、キリストの身内の人たちでした。
「あの男は気が変になっている」(21)という噂を聞きつけ、恥ずかしいから取り押さえて連れ戻そうとやって来たのです。「気が変になっている」とは、我を忘れた狂人のようだと見なされていたということですから、家族から狂人扱いされることは主イエスにとってどれほど深い孤独をもたらしたことでしょうか。
もう一つのグループは遠くエルサレムの都からわざわざ下ってきた律法学者たちであり、この人たちは当時の宗教界の最高権威でした。彼らはイスラエルでありますから本来は「神の家」に属する人たちなのですが、主イエスが目が見えず口の利けない人を癒やしたという神の業を目の当たりにしながらも素直に喜ぶことはしませんでした。
それどころか、「あの男は悪霊の頭ベルゼブルに取りつかれている」「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」(22)と、到底耳を疑うような言いがかりをつけたのです。ベルゼブルとは「ハエの王」や「糞山の主」という意味があり、異教の神をあざ笑うための極めて下品で侮辱的な言葉です。
神の愛のゆえに食事の暇もなく忙しく働いている主イエスに対し、律法学者たちは無責任なレッテルを貼りました。しかし、これは決して二千年前の昔話だけではないのです。
弱さをもつ私たち人間はだれしも、自分自身が労苦を担っていないときほど熱心に仕えている他者のアラが見えてしまい、批判的な言葉を口にしてしまうことがあります。私自身もそのような自らの心の隙間から、共同体に不協和音をもたらす誘惑に直面したことが何度もあります。
このような理不尽な誹謗中傷に対してキリストは静かに、しかし毅然とした態度で彼らを呼び寄せては論理の破綻を突かれました。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は立ち行かない」(23-24)と。
サタンが悪霊を追い出しているのだとすれば、それは悪霊の国が内乱を起こしているということであり、自滅に向かっているに過ぎないという鮮やかな反論です。しかし、主イエスのこの言葉は、単に律法学者を論破して言い負かしたという武勇伝ではないのです。
後にキリストの血によって贖われ聖霊によって「神の家」が建てられることとなります。その神の家すなわち公同の教会に対して「家が内輪で争えば、その家は立ち行かない」と深い愛の警告が与えられています。
2.「我は聖霊を信ず」
よくよく注意を向けるべきはマタイ、マルコ、ルカという三つの福音書が揃ってこの出来事を記しているという事実です。このことは初代教会の時代から共同体の内部における争いがどれほど深刻な脅威であったかを物語っています。
教会の中で信徒同士が些細な意見の違いから非難し合い、あるいは教区内の教会どうしがそれぞれの立場の違いからさばき合うようなことになれば、「神の家」は一体どうなるでしょうか。それはまさに「内輪もめ」であり、神の家は根底から崩れ去ってしまいます。
日本基督教団は多様な歴史や伝統を持つ教会の集まりです。玉島教会が大切にしてこられた会衆主義の自由で温かな伝統もあれば、私が属するような敬虔さを重んじる伝統もあります。
それぞれに固有の歴史を背負いながらも、私たちは共にキリストをかしらと仰ぐ一つの「聖なる公同の教会」の肢(えだ)であるのです。 違いを排除するのではなく互いを認め合いながら主の愛にあって一致すること、それこそが内輪もめを越えて神の家を立て上げる道でありましょう。
続いて主イエスは極めて厳格な言葉を口にされます。「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠の罪の責めを負う。」
どんな罪でも赦されると語られた神の御子が、なぜこれほどまでに厳しいことを言われたのでしょうか。それは律法学者たちが聖霊による神の救いの御業を「汚れた霊の仕業だ」と言い張ったからです。
ルカによる福音書では、この癒しを「神の指」によるものだと表現しています。まさに神業を悪魔の仕業だと決めつけたことを主は激しく否まれたのです。
人間はみな弱さのゆえに過ちを犯しますが、過ちを犯したとき私たちの心に働きかけては罪を悟らせて、その人を悔い改めへと導いてくださるのが聖霊なる神の働きです。しかしその聖霊の働きを「これは悪魔の働きだ」と故意に拒絶してしまうなら、その人は自ら悔い改めの機会を永遠に閉ざしてしまうことになります。
ものの例えでありますが、毒薬を飲んでしまった人が差し出された唯一の解毒剤を見て「これは毒薬だ」と信じ込んで拒絶するならば、その人は決して助かることはないでしょう。主イエスがここで厳しく戒めておられるように、人間が自らの傲慢さのゆえに救いの命綱そのものを自ら断ち切ってしまうことになるでしょう。
ですから私たちはキリストの体として永遠の命を自ら失うことのないように、使徒信条において「我は聖霊を信ず」と告白します。聖霊において成り立つ「聖なる公同の教会、聖徒の交はり」のうちに「罪の赦し、身体(からだ)のよみがへり」というキリストの救いがあるのですから、私たちはこの告白のうちに救いの確信を明らかにするのです。
3.神の言葉を取りなさい
公同の教会に属するキリスト者として、私たちは自らの正しさを主張しようとする誘惑や他者を非難しようとする思いに対してどのように立ち向かえばよいのでしょうか。その手がかりをエフェソの信徒への手紙6章に求めてみましょう。
使徒パウロはこのように語っています。「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。」(エフェソ6:12-13)
本当に戦うべき私たちの相手は「血肉」すなわち目の前にいる意見の合わない兄弟姉妹や、あるいは自分に信仰上の誤解を与えてくるこの世の人々ではないというのです。真の敵はキリストの体である教会を分裂させ、愛と平和の絆を断ち切ろうと暗躍する「悪の諸霊」です。
この霊的な現実を見誤って信徒同士が血肉の争いを始めるとき、神の家は内輪もめによって倒れてしまいます。だからこそキリスト者は人間的な知恵や自己主張によってではなく、神が備えてくださった武具を身に着けなければならないのです。
真理を帯として腰に締め正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物とし信仰を盾として取ります。そして最後に「霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい」(エフェソ6:17)とパウロをとおして主が命じておられます。
「神の言葉を取る」とはどういうことでしょうか。例を挙げるならば、キリストが語られた「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(マタイ12:28)という真実のみを人生の要として握りしめることです。
世間が投げつける無責任なレッテルや律法学者のような権威者からの否定的な言葉は私たちの心を深く傷つけるものでありますが、同時に私たちの心はそれらの言葉に引き寄せられては縛られてしまうことが何と多いことでしょう。そのうえ悪魔の策略は非常に巧みなものです。
「お前のような罪深い者が神に愛されるはずがない」「あの人の信仰は間違っている」と、常に疑いと分裂の火の矢を放ってきます。その火の矢を消すことができるのは私たちの立派な行いや正しい神学知識ではなく、ただ信仰の盾と神の言葉という霊の剣だけなのです。
独り子である神キリストは「悪霊に取りつかれている」といういわれのない非難を受け、濡れ衣を着せられては行く先々で妨害を受けました。しかし、どれほど誤解されようとも、ご自身の歩みをお止めにはなりませんでした。
人間の罪と悪意のすべてを身に引き受け、挙句の果てに主イエスは無実の罪で捕らえられました。愛する弟子たちには見捨てられ、夜通し暴力を受けた末に私たちの救い主は十字架への道を進まれたのです。
キリストがそのようにしてご自身の血を流されたのは、神に敵対していた私たちを神と和解させるためでした。そして私たち人間同士の間に立ちはだかる敵意の壁を打ち壊し、一つの新しい体である教会を造り上げてくださるのです。
受難節の歩みの中で、私たちはこのキリストの十字架の愛を仰ぎ見ます。私たちが赦されているのは私たちが正しいからではなく、ひとえにキリストが悪と戦い十字架の上で勝利してくださったことによるのです。
主の兄弟ヤコブは手紙の中で「義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです」(ヤコブ3:18)と語ります。現代の教会もまたこの世から様々な誤解を受けますし、あるいは内部に課題を抱えることもあることでしょう。
教会には神の聖霊が与えられておりキリストの平和が支配しているのですから、私たちは決して絶望することはないのです。キリストの体の肢(えだ)として互いに執り成し祈り合い、神の言葉をしっかりと手に取って立ち上がりましょう。
<結び>
「なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。」(エフェソ6:16-17)
主イエスは食事の暇もないほど愛の業に奔走されましたが、周囲からは狂人扱いされては神の業を悪魔の仕業と中傷されました。主はこれに対し内輪もめをする家は立ち行かないと説き、聖霊の働きを拒む罪を厳しく戒められました。
私たちの真の敵は兄弟姉妹ではなく教会を分裂させる悪の諸霊なのですから、血肉の争いを避けて神の武具を備えましょう。そして十字架の愛を仰ぎ、平和のうちに結ばれる神の家を建て上げるのです。
現代という邪悪な日にあっても信仰の歩みを確かにすることで、私たちはキリストの体である教会として互いに平和のうちに結び合わされることになります。キリストご自身が人々からの無理解や誹謗中傷を受け続けた末に十字架にかかってくださったのですから、「神の言葉を取りなさい」と命じられた私たちは聖霊の助けられながら受けた救いをしっかりと握って歩みましょう。
「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」(マルコ3:28-29)
(引用「聖書新共同訳」©日本聖書協会)