マタイによる福音書10章1-15節「わたしはあなたがたを遣わす」
2025年8月17日
牧師 武石晃正
先週金曜日は8月15日、今年の終戦の日は戦後80周年を数えました。改めてこの国の歴史を覚えるにおいて、「日本基督教団罪責告白」では日本基督教団が天皇を神とする国家体制を容認し、植民地支配に協力する罪を犯し、戦争に協力したことを懺悔告白しています。
その傍らで治安維持法のもとにホーリネス信仰を掲げる群は特に弾圧を受け、多くの牧師が投獄され、獄死者も出ました。国内外での迫害を覚えつつも、私たちの国と教会が近隣諸国の主にある家族を深く傷つけたという事実を、終戦の日に悔いるところです。
罪を認め、主なる神の前に赦しを乞い、平和を祈り求めることは世に遣わされた御国の子らの務めであります。本日はマタイによる福音書を開き、「わたしはあなたがたを遣わす」と題して御国の福音を心に刻みましょう。
1.選ばれた使徒たちとその使命
主イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊を追い出す権威とあらゆる病を癒す力を授けられました(1)。これは人間の熱意や努力の結果ではなく、召し出された者に与えられる神からの賜物です。
ガリラヤ地方でご自分の権威を示されるにあたって、主イエスは神の国の福音と癒しの御業の2つをもって一つのわざとされました。御言葉を説き病や煩いを癒す力は、弟子たちがまぎれもなくナザレのイエスに遣わされた者であるとのしるしです。
弟子たちの名前は一人ひとり挙げられています(2-4)。彼らは使徒であり、神の子キリストの代理者として遣わされていることを教会に明らかにされています。
聖書が名を記すことは、その人の人格と歴史を神が覚えておられる証です。そしてキリストを信じて従う者の名は天で命の書に書き記されています(ルカ10:20)。
主イエスは弟子たちに、異邦人の道やサマリア人の町へ行かず、まずイスラエルの家の失われた羊のところへ行くよう命じられました(5-6)。まず契約の民イスラエルに約束を成就しその後すべての民族に福音が広がる道を備えられたのは、主が旧約から新約に至って一貫したご計画のうちにありました。
弟子たちに委ねられた使信は「天の国は近づいた」と告げることであり、人々に悔い改めを迫ることでした(7)。これは洗礼者ヨハネが主の道をまっすぐに整えたことに始まり、主イエス自身がガリラヤで宣教を始められて以来ずっと引き継がれている福音の言葉です。
「天の国が近づいた」とは人々の努力で神に近づくのではなく、神の側から私たちに近づいてこられるということです。人間は神に向かって自力で登っていくことはできませんから、救いは神の子キリストの降誕から始まりました。
病人を癒し、死人を生き返らせ、重い皮膚病を清め、悪霊を追い出す務めを弟子たちは託されました(8)。繰り返しになりますが、御言葉の宣教と癒しのわざはナザレのイエスが神の子キリストであることのしるしであり、同じ言葉を語り同じわざを行うことで使徒たちは彼らを遣わした方と同じ権威を授かっていることを示すのです。
「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(8)という戒めもまた、癒しのわざである神癒の恵みが人間の努力や熱意によるものではないことを示します。代価を支払おうにも支払いきれないほど高価で尊いことであるので、その支払いを神が免除されるのです。
主イエスは弟子たちに金貨も銀貨も銅貨も、旅行袋も二枚目の下着も、履物も杖も持たせませんでした(9-10)。これは使徒パウロが御言葉の御用に専心する教師について「二倍の報酬を受けるにふさわしい」としたことに通じ (テモテ一5:17)、迎え入れた教会に教師を十分に養う責任が与えられているところです。
また使徒も教師も処遇のよさを求めて家々を渡り歩くことなく、主が備えられたふさわしい人とその家あるいは教会にとどまるよう命じられています(11)。教会に招聘の条件を満たす責任があるように、当然ながら教師は身勝手に職務から離れてはならないのです。
家に入るときには平和を祈って挨拶するよう命じられました(12)。主なる神は遣わされる人とともにおられ、御顔を向けて平和を賜わります(民6:26)。
その家が平和を受け入れるなら祝福はそこに留まり、拒めば差し出した者に返ります(13)。語るべき御言葉が正しく語られるなら聞くべき者たちを主が備えてくださいます。
人々が御言葉を受け入れない場合、弟子たちはその町での責任から解かれることになります。彼らの意思によるのではなく主ご自身がその任を解かれたことを示すため、使徒たちは町や家を去るときに足の埃を払い落とすよう命じられました(14)。
その町あるいは教会はソドムやゴモラよりも厳しい裁きを受けることになります(15)。語られた御言葉を拒んで従わないならば神の民といえども裁きが待ち構えており、聞き従う者には福音こそ慰めと永遠の命への約束となります。
2.教会が遣わされる使命
十二使徒が遣わされる先は必ずしも安全な場所ばかりではなく、さまざまな危険のほか律法学者たちやファリサイ派の人々に代表されるあらゆる敵意に満ちていました。彼らは羊が狼の中にいるような存在として送り出されました(16)。
羊は自らを守る術を持たず羊飼いの守りなしには生きられませんから、絶えず主イエス・キリストのもとに身を寄せます。地上における教会に対して、使徒パウロは「時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです」(エフェソ5:16)と注意を促します。
「賢い者として、細かく気を配って歩みなさい」(エフェソ5:15)と教会は使徒たちと同じようにこの世へと遣わされています。信徒ひとり一人が主の弟子として遣わされ、羊のように主の守りと導きに完全に依り頼んで歩むのです。
そのためには蛇のように賢く、鳩のように素直であることが求められています(16)。賢さは不必要な危険を避ける知恵であり、素直さは真理と誠実を失わない心であります。
賢さと素直さとは正反対のように思われるかもしれませんが、この世にあって神の民が神のものとして生きるための両輪であると言えましょう。教会が賢さを失えば勢いや目に見えるものにまかせて神の前で無謀に陥り、素直さを失うなら人々からの信頼を失うばかりか神の前での謙遜をも損なうことになるでしょう。
遣わされた使徒たちは恐れたり思案したりすることよりも御父への信頼をもって進むよう励まされています。主なる神は愛する者たちに語るべき言葉を与え、状況に応じて必要を満たしてくださるからです。
パウロは使徒として自らの召しを「異邦人への宣教」として受け取りました(使徒26:16-18)。彼は迫害のために犯罪人のように拘束されたとしても、「神の言葉はつながれていません」(テモテ二2:9)とその使命を手放すことはなかったのです。
使徒パウロにとって主の召しとは単なる職務ではなく、彼の存在の目的そのものでした。主のために生きることが人生の方向を決める唯一の理由となったからです。
どの使徒たちも自分の計画より神の御心を第一に求めました。使徒的教会もまた規模や経済力というこの世的な成功や安定を第一とするのではなく、まず神の国と神の義とを求めます(6:33)。
またキリスト者となることは人生に何らかの付加価値を与えるものではなく、万物の創造者である神の前にすべてを投げ出して悔い改めることです。ですから礼拝をささげることや讃美歌を歌うことも自己表現や自己実現のためではなく、キリストの証人として福音の真理を正しく聞き正しく証しをするためなのです。
遣わされる者は無力に見えても、神の力を宿す器であります。その力はあくまでも賜物ですから望んだり努力したりして得られるものではなく、御父から遣わされた御子と聖霊によって結び合わされることで初めて発揮されるものです。
主は今も私たちをそれぞれの生活の場に遣わされます。職場や家庭や地域など、日常の場こそが宣教の第一線なのです。
直接には信仰や福音のためではなくとも、遠巻きに人々から否まれたり煩わられたりすることもあるでしょう。しかし私たちがいくら困難であろうとも「天の国は近づいた」という真実は揺るぐことないのですから、主に遣わされた者として終わりの日までキリストの十字架と復活の知らせを携えて歩みます。
<結び>
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」(ヨハネ15:16)
使徒たちは主イエスの選びによって召し出され、神の国の福音と癒しの業を委ねられました。主は弟子たちをその名前を呼んで召し、それぞれの使命に生かされました。
イエス・キリストの福音は無償の恵みとして与えられ、生活の場で平和とともに告げられます。人々から拒まれることも大いにありますが、キリストの弟子とされた私たちは必要をすべて与えてくださるとの主なる神への信頼によって遣わされるのです。
苦難の中でも主の支えと導きは確かであり、「天の国は近づいた」という真実の上にキリスト者は生きています。もし不安や恐れに立ち止まることがあっても、「わたしはあなたがたを遣わす」と召してくださるキリストに私たちは信頼して歩みます。
「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」(マタイ10:16)