ルカによる福音書24章44-53節「キリストの昇天」

 2025年6月1日
牧師 武石晃正

 先週は東中国教区の定期総会が行われ、教会の頭であるキリストの名もとで数々の審議が行われました。総会議長と副議長、常任委員を選出する選挙も行われ、すべての議事が聖霊の導きによって進められたことを覚えます。
 教区でありましても各個教会でありましても、キリストによって互いに補い合うことによって組み合わされ結び合わされています。天におられる唯一である方を仰ぐなら、私たちは互いに違いがあっても一つの方向へと歩むことができるのでしょう。

 日々の歩みにおいては困難や煩いに取り囲まれると「わたしの助けはどこから来るのか」(詩121:1)と叫びたくなることもあります。救い主がどこにおられるのか、本日はルカによる福音書を開き「キリストの昇天」と題して思いめぐらせて参りましょう。


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1.天に昇られたキリスト

 十字架にかかり、死んで葬られ、三日目に死人のうちよりよみがえられた主イエスは40日にわたって弟子たちとともに過ごされました(使徒1;3)。そしては託すべき務めをすべて彼らの手に委ねられました。
 主イエスにとっても弟子たちにとってもあっという間の40日だったことでしょう。ベタニアの辺り(50)と地名が示されていますが、ベタニアとはエルサレム郊外にあるオリーブ山の東のふもとにある町です。

 この町には主イエスが特別に親しくされていた家族がおりました(ヨハネ11:1、6)。エルサレムとは歩いて行き来ができるところにありますので、主が都に上られる折にはシモンあるいはラザロと知られる彼の家を定宿としていたと思われます(マタイ21:17)。
 母マリアとその夫ヨセフと暮らしていた頃から主イエスは過越祭に毎年エルサレムに上られておりました(ルカ2:31)。ラザロたちとは家族ぐるみの付き合いのように深い間柄でしたでしょうから、福音書がオリーブ山ではなくベタニアというゆかりの地名を用いたことにも主イエスが愛する者たちとの別れを惜しまれた様子を伺えるところです。

 このように福音書は主イエスの降誕から昇天までの足跡を最後までたどって、ルカは第二巻へと繋ぎます。使徒言行録では都から見た地名「オリーブ畑」を用いることで、エルサレムから始まりあらゆる国々に向かう弟子たちの働きへと読者の視線を導いています。
 天に昇られるにあたって主は弟子たちを「手を上げて祝福され」ました(50)。そのお言葉は使徒言行録に記されており、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒1:7)との壮大なものであります。

 いよいよ天に昇られようとする主イエスを前に弟子たちは伏し拝んだことですが(52)、信じていたとはいえ3年あまりも寝食を共にした方が本当に御父から遣わされた独り子である神だと思い知ったからでしょう。そこへ現れた主の使いの言葉 (使徒1:11)からも、どれほど弟子たちが驚きと感動に言葉を失うほどであったかがわかるでしょう。
 御父のもとへ昇られるとはいえ、主イエスは弟子たちを置き去りにしたわけではないのです。弟子たちはかねてより聞かされていた「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」(ヨハネ14:1)とのお言葉を思い起こしては、主イエスから託された使命とその目的に胸躍らせたことでしょう。

 その喜び具合といったら「大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」(52,53)と書かれているほどです。復活された主イエスに会うまでは「ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」(ヨハネ10:29)というあのおくびょうな者たちの姿はもう過ぎ去ったのです。
 何を彼らは思い出してそれほどまでに喜びに満たされたのでしょうか。弟子たちは「これらのことの証人」(48)とされたのですから、彼らの喜びを知ることで私たちも同じ「大喜び」に満たされることでしょう。


2.高い所からの力に覆われる

 キリストつまり私たちの救い主が昇天されて何をしてくださっているのでしょうか。主イエスがなさったことを記すには枚挙にいとまがありませんので(ヨハネ21:25)、ここでは3つだけ挙げてみましょう。
 まず一つ目は使徒信条において「天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまへり」と告白しているとおりです。右の座とは支配者の権威そのものを現しますので、主はすべての支配、権威、勢力、主権すべてのものの上にある頭として教会に与えられました(エフェソ1:20-22)。

 すなわちキリストは天に昇り、すべてを支配する王、またすべてを執り成す大祭司となられました。「すべて」でありますから「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒4:12)。
 次に主イエスは「わたしの父の家には住む所がたくさんある」と告げた上で、「あなたがたのために場所を用意しに行く」と言われたことであります(ヨハネ14:2-3)。ご自身を信じて救われた者が御父のもとへ行く道と住む場所を備えてくださるので、私たちにはこの世を去るときにもイエスご自身が迎えてくださるという希望があるのです。

 そして3つ目に、主イエスは御父に願い、弁護者である聖霊を遣わして永遠に私たちと一緒にいるようにしてくださいました(ヨハネ14:16)。弁護者とは助け主とも訳される語で、ただ言葉で守るのではなく力をもって支えてくださるのは聖霊なる神です。
  のために主はこれらを備えてくださるのでしょうか。それは旧約において「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する」(46)と約束されたことについて、弟子たちが「これらのことの証人となる」(48)ためでありました。

 こうして主イエスと一緒に喜びに満たされた弟子たちに、しばらく準備の期間が与えられます。感情的な高まりや興奮の勢いだけに任せて出て行ったなら、気持ちが冷めたり困難に遭ったりした時にはたと立ち止まってしまうでしょう。
 人の思いから出た働きは5年10年とは続けられても、20年30年と経てば情熱や体力の衰えとともに勢いを失うこともあるのです。ですから主イエスは弟子たちに対して、彼ら自身の感情や経験に訴えずに「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する」(44)と聖書の言葉を確かな裏付けとされています。

 「そしてイエスは、聖書を悟らせるために」(45)弟子たちの心の目を開いてくださいました。主が弟子たちとともにおられた時点では福音書さえ記されておりませんので、ここで言われている「聖書」とは創世記から始まる旧約のことです。
 弟子たちは主イエスの十字架の死と復活を知ってから聖書すなわち旧約を学んだのでしょうか。主は「まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである」(44)とおっしゃいましたから、彼らはモーセや預言者たちの言葉を十分に説き聞かされてきたのです。

 後に使徒たちは「これらのことの証人となる」ことにおいて「モーセの律法と預言者の書と詩編」(44)の言葉を用いて福音を説きました。私たちも福音書をはじめとする新約ばかりでなく旧約についても丁寧に学ぶなら、イエス・キリストをより正しく理解してより深く信じることができるでしょう。
 使徒パウロはこのことについて「神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです」(エフェソ4:13)と記しています。そして主なる神は聖霊による賜物と恵みを教会に与え、「ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです」(同11)。

 罪の赦しを得させる悔い改めがキリストの名によって宣べ伝えられるのは人の意欲によるものではなく、高い所に昇られた方が送ってくださる聖霊の力によるのです。御父が御子に約束された聖霊の力によらなければ、誰もキリストの十字架の死と復活とを信じることさえできない者なのです。
 心の目が開かれた弟子たちははやる気持ちを抑えつつ「都にとどまっていなさい」(49)と主に命じられるままエルサレムでその日その時を待ち望みます。キリストの十字架の死と復活にあずかる私たちは主の弟子たちが神殿の境内でそうしたように、天に昇られたキリストを仰いで絶えず神をほめたたえます。


 <結び>  

 「この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。」(エフェソ4:10)

 十字架と復活の後40日間主イエスは弟子たち現れ、彼らに使命を託した上で天に昇られました。それは別れではなく、王として支配し、天に住まいを備え、聖霊を送って共にいてくださることの始まりでした。
 使徒たちが希望に満たされ喜びのうちに神を賛美したように、教会は今もなお天に昇られた御子を仰ぎつつキリストの復活の証人として歩みます。キリストの弟子とされた者たちが主の死と復活を証しする者となるために、聖霊が私たちの心の目を開いて聖書の真理を理解させてくださいます。

 天から降りて来られた方が私たち罪人の身代わりとなって十字架上で死んでくださったので、この方の死と復活を信じる者は救われます。地上の歩みのうちにすでに永遠の希望が与えられていることを、キリストの昇天をもって私たちは確信するのです。

 「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。」(ルカ24:50-51)


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