マタイによる福音書9章9-13節「キリストと結ばれる人」

 2025年8月10日
 

 先週(8/3)は主日礼拝の後にCSお楽しみ会として教会学校が子どもたちのために楽しい催しをしてくださいました。大勢が集まって食事をすることができるのも大きな恵みです。
 食は生活の基本であり、どのようなものを誰と食べているかがその人を形作るとも言われます。キリストの弟子たちは信仰の上でパンを割くために集まっておりましたし、教会が主の晩餐を個人的には行わず公の礼拝として執行することにも意味があります。

 聖餐において「キリストの体の肢(えだ)として」仕えることを祈りの内に誓います。本日はマタイによる福音書より「キリストと結ばれる人」と題して救いの恵みを味わい知りましょう。


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1.マタイを招かれたイエス (マタイ9:9)

 神の国の福音と癒しの御業によって主イエスはガリラヤ地方でご自分の権威をお示しになりました。その拠点として「自分の町」(9:1)とされたのはカファルナウムであり、最初の弟子になった4人の漁師たちの出身地でありました。
 カファルナウムに戻ってきた主イエスは体が麻痺した人を癒し、ご自分が罪を赦す権威を持っていることをユダヤの指導者である律法学者たちの前で示されました(6)。驚き恐れつつも神を崇める群衆を後にして、主は弟子たちを連れて立ちされました(9)。

 その歩きなれた街並みで「通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて」(1)主イエスは声をかけられたということです。たまたま主が収税所の前を通られたようにも読めるのですが、この福音書の記者の特徴的な書き方であるようです。
 4人の漁師たちが弟子とされた場面でも、主イエスがペトロとアンデレの2人を「ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき」「御覧になった」という言い回しが用いられています。読み方によっては主が早朝に散歩でもしておられた折にたまたま見かけたようでもあるわけです。

 ところが実際には洗礼者ヨハネから洗礼を受けた直後より主はこの2人のことを知っておられ(ヨハネ1:40)、あるいはユダヤ地方でヨハネの門下で働いたことでありました(同3:22)。その後ヨハネ逮捕の知らせを受けてイエス自身がガリラヤへ退かれることになりますが(マタイ4:12)、ヨハネ一門が解散したことでペトロたちも家業である漁師の暮らしに戻っていたのです。
 漁師たちにとしては約束をしていたわけでもなく思いがけないときにイエスのほうから来てくださいました。マタイにしても自分がお招きしたことではないのに、図らずも主のほうから「通りがかりに」声をかけてくださったのでした。

 当時のユダヤにおける収税所や徴税人は、一般の人々から疎まれていました。福音書の中では「徴税人や罪人」(10)あるいは「異邦人か徴税人」(18:17)と対にして用いられており、徴税人は主の契約や祝福にあずかることができないような者とみなされておりました。
 マタイとしてみれば、罪人や異邦人と同様にみなされているような自分のために主がわざわざ来てくださるなんてとんでもないことでありました。ペトロたちが網を捨てて主に従ったように(4:20)、マタイは「わたしに従いなさい」(9)すなわち「あなたは私の弟子になりなさい」とのお言葉を受けてただちに「立ち上がってイエスに従った」のです。

 使徒パウロは手紙の中で「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(コリント二5:17)と記しています。マタイも主イエスの招きに従ったことにより、直ちに新しい生き方へと変えられました。
 新約全体を通してもマタイについて述べられているのはこの場面だけであります。しかしたった数行ではありますが、マタイは自分のためにキリストが世に来られ捜しだしてくださったのだと世の終わりまで残る救いの証しを書き記したのです。


2.罪人を招くためである (マタイ9:10-13)

 福音書における主イエスがおられた時代のユダヤは異邦人であるローマ帝国の支配下にありました。したがって税として収税所で集められたものはみな、皇帝あるいは皇帝が任命した領主へと上納されてしまいました。
 徴税人たちは神の民に生まれながら異邦人の支配者の手先として働いておりましたので、同国民からは国を売る裏切り者とみなされていました。そこでユダヤの掟にあっては異邦人や罪人と同様に扱われたという次第です。

 そればかりか徴税人たちは彼ら自身の報酬となる分を税に上乗せして住民から取り立ててよいことになっておりました。ローマの制度において許されていることであったとしても、ユダヤの人たちの目には外国の手先となって私腹を肥やす行為であると映るのです。
 あるいは徴税人の子として生まれたならばユダヤ人でありながら生まれながらに異邦人や罪人と同様に扱われてしまうので、大人になってもユダヤの社会では受け入れてもらうことができず働き場所や取引先を得られないでしょう。ほかにも何らかの事情でユダヤの掟や律法の要求を果たすことができない者たちも罪人として数えられ、異邦人のように扱われては同国民の中に居場所を失ってしまうのです。

 そうなると食べていくためには異邦人の権威の下で働くこともやむを得ず、ローマの手先だと後ろ指をさされても徴税人やその下役のような仕事を生業とすることになりましょう。このような人々は徴税人や罪人と呼ばれてユダヤ社会から締め出されてしまうのですが、彼らが自由に出入りできる憩いの場こそ「その家」(10)でありました。
 ルカによる福音書にはマタイが「自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した」(ルカ5:29)と書かれておりますので、そこはマタイの家であると分かります。家族や社会に居場所を失っていような「徴税人や罪人も大勢やって来て」(10)、そこで主イエスとともに食卓の交わりに加えていただくことができました。

 「救い主メシアと呼ばれるイエスが私のところにやってきて、弟子にしてくださった。一緒に喜んでくれ」とマタイは仲間たちを宴会に招いたのでしょう。そして徴税人や罪人たちが大勢いる只中で生ける神の子キリストが一緒に食事をされました。
 「天の国は近づいた」(4:17)との福音を受けて悔い改めたマタイが主イエスと弟子たちだけを食事に招いたならば、彼の仲間たちは主イエスに出会うことはなかったでしょう。言い換えるならば弟子であるマタイがいるところに主イエスもおられるので、その食卓につくことにおいて主は「罪人のひとりに数えられ」(イザヤ53:12)てくださいました。

 ところでマタイがどれほど喜びに満たされていたのか、嬉しさのあまり分け隔てなく宴会に人々を招いたようです。席に着いたとまでは書かれていませんが、彼のことをこれまで散々に罪人や異邦人扱いしてきたであろう「ファリサイ派の人々」(11)や「その派の律法学者たち」(ルカ5:30)までもがその場にいたのは驚きです。
 わざわざやって来ておいて「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」(11)と彼らは言うのです。直接イエスあるいは主催であるマタイを責めればよいものを弟子たちに話しかけたるのは、彼らが臆病なので本当に正しい人には正面から向き合うことができないからでしょう。

 「なぜ」と尋ねるとき、人は大抵その理由を求めてはいないものです。その人が肯定するつもりであれば「なぜ」と問わずに交わりに加わって話を聞くことでしょうけれど、否定の思いを含むのでどんな答えをしたとしてもはじめから聞く耳を持っていないのです。
 「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」(12)との主イエスの答えは、もっともなことです。しかし、病人であってもそれを認めようとしない者がおり、医者を必要としたがらない者も存在します。

 自分が癒されなければならない病人であると認めなければ医者にかかろうとはしないでしょう。マタイは心の底から生まれ変わり、神の前で清められ癒されたいと求めていたのでキリストの救いの招きを受けて従うことができました。
 それに引き換えファリサイ派の人たちは心の内にある欲や罪深さをひた隠し、他人を罪に定めることで自分の正しさを示していたのでしょう。彼らの偽善とも呼ばれる取り繕った生き方に対して、主は「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」(13、12:7)と預言者ホセアの言葉(ホセア6:6)によってお裁きになりました。

 続けて主イエスはご自身が世に来られた使命を明かされました。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(13)。
 自らの罪を認めて悔い改める者は神の憐れみにより、キリストの救いの招きを受けるのです。マタイもまた主の招きに従うことで、キリストと結ばれる人とされました。


<結び>  

 「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(13)

 カファルナウムの徴税人マタイは罪人や異邦人と同様に人々から疎まれていましたが、主の招きに応じて従うことで人生を一変させられました。主イエスは自らを罪人のもとへ遣わされた救い主としてマタイを招いてくださったのです。
 誰でも自らを正しいとする者は、主の招きを必要だと思わないでしょう。たとえキリストが私の罪の身代わりとなって十字架にかかってくださっても、私自身が神の前に死ななければならない罪人として悔い改めなければ新しく生まれることはできないのです。

 「罪人を招くために来た」と語られた主イエスは、神の前に罪を認め主に憐れみを請い求める者を救いの道へと招いていてくださいます。主の十字架と復活とを信じ死にまで従う者は、キリストと結ばれる人として新しい命へと造り変えていただけるのです。

 「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(コリント二5:17)


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