マタイによる福音書20章20-28節「一人は右に、もう一人は左に」
2025年4月6日
牧師 武石晃正
2025年度を迎えて最初の主日を捧げるにあたり、御言葉が与えられておりますことを主なる神に感謝いたします。御堂に会し心を一つにして、三つにいまして一つなる神をあがめることができるとはまことに幸いなことであります。
教会暦では今週は受難週第5主日を数えております。いよいよ御子キリストが「我ら罪人の救いのために人と成り」そして「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」られたことを覚える次第です。
本日の朗読は主イエス・キリストがガリラヤより北の果て、フィリポ・カイサリアからエルサレムへと十字架に臨む途上での出来事であります。この個所を中心に「一人は右に、一人は左に」と題し、キリストに従い歩む道を探り求めてまいりましょう。
(引用は「聖書 新共同訳」を使用)
1.御心がわからなかった弟子たち(20-24)
聖書にはイエス・キリストの教えと行いとが数多く記されており、マタイによる福音書ではその教えのおおよそを山上の説教として取りまとめられております。山上の説教と呼ばれる一連の教えでは、キリストの弟子となる者の覚悟や心得が求められるところです。
翻って17章において主が一部の弟子たちにご自身が受ける栄光をお見せになられてからは、受難の予告と相まって告別説教や遺言的な教えが説かれています。復活はするとは言え必ず死ななければならないことですし、復活後は天にお帰りになるので弟子たちに働きを譲り渡すためでありました。
それは教会を建て上げるための礎であり、丁寧に読むならば各々の信仰心や従順に加えて「羊の群れ」あるいは「一つの体」としての信仰が説かれていることが分るでしょう。教会のかしらであるキリストは、ご自分の体である教会を贖うために自ら十字架に向かって歩みを定められました。
「そのとき」(20)と切り出されているのは実に主イエスが群衆ではなく弟子たちだけにご自分の死と復活とを明かされた矢先のことであります。愛してやまないはずの主が異邦人に引き渡されて侮辱と暴力を受けて殺されようというのに、全く意に介していないのか「ゼベダイの息子たちの母」と呼ばれる女性が主イエスの前にひれ伏したというのです。
ゼベダイの息子たちとはガリラヤの漁師たちでありまして、遠回しな言い方をしておりますがヤコブとヨハネの兄弟を指しています(4:21)。ほかの10人が腹を立てて後味が悪いことになったせいもありましょうけれど、この2人だけの問題ではないこととして福音書は教会の中で一人一人に問うているのです。
急に母が現れることですが、ナザレのイエスにはいくつかの弟子集団がありました。使徒と呼ばれる12人のほか72人という単位があり(ルカ10:1)、そのほかにガリラヤからずっと従って来た婦人たちが大勢いたのです(27:55)。
母からの申し出ではあるものの、主イエスが「あなたがたは(中略)分かっていない」(22)とお答えになったようにヤコブとヨハネ自身も「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」(マルコ10:37)と申し出ています。そして「このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」との主イエスの問いに「できます」と答えただけあって、ヤコブは使徒たちの中で最初の殉教を遂げました(使徒12:2)。
兄弟であるヨハネは一方で長生きするのですが、その年月だけ迫害と困難を長く味わうことになります。しかし苦難という杯を飲むこととは別に「わたしの右と左にだれが座るかは(中略) わたしの父によって定められた人々に許される」(23)と主イエスは明らかにされたのです。
復活すると分かっていてもこれからお受けになろうという苦しみと十字架は主イエスにとって非常に恐ろしいものでありました。私たちが病気やけがで手術を受けるとして、術後には良くなると納得しても目の前の手術に不安を覚えることと同様、むしろそれ以上の不安と恐れでしょう。
主のお気持ちを分かっていないままに権力や偉くなりたいということを願い出た者たちがおりました。栄光のお姿にも会堂長の娘の復活にも立ち会った3人の弟子たち(17:1、マルコ5:37)は主が逮捕される直前にもゲツセマネにも招かれましたが(26:37)、これら特別に選ばれた者たちであっても御心がいかほどであるかは分からなかったのです。
その挙句の果てには内輪揉めをしたという始末(24)、他の10人もあわよくば自分が一番になりたかったことが伺い知れます。私たちは教会の中で誰かと自分を比べて優劣を勝手につけたりしてはいないでしょうか。
2.いちばん上になりたい者は(25-28)
「異邦人の間では」(26)とイエスは弟子たちが争う様子を異邦人の権力争いになぞらえています。彼らが願っていたものは実に「異邦人が切に求めているもの」(6:32)に過ぎなかったのです。
ユダヤ人である弟子たちにとって異邦人という言葉は単に外国人であるという意味ではなく、罪人たちとほぼ同義でありました(18:17)。ヤコブとヨハネの2人だけでなく「あなたがた」とほかの10人も含めて「そうであってはならない」(26)と戒められました。
使徒たちのうち特定の誰かが戒められているのであれば、あるいは私たちにおいても各々の信仰が問われるところでありましょう。主が12人全員を「あなたがた」と呼ばれていることを念頭におきますと、これは私ひとりが教えを聞いて守れば済むという話ではないことが分ります。
「仕える者」また「僕になりなさい」と命じられているのは私たち一同であり、主は私たちが互いに仕え合う関係性の中に信仰を求めておられます。仕えるとはどのようなことか、「わたしがあなたがたにしたことが分かるか」と主がおっしゃったのは弟子たちの足を手拭いで洗っておられた時でした(ヨハネ13:12)。
「あなたがたの中で偉くなりたい者は」(26)と言われていますから、偉いことそのものが悪いわけではないのです。偉いとは何であるのかを考える以前に、「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」(18:3)との主イエスの言葉を思い返してみましょう。
子どもたちに「偉いね」「立派だね」と大人が声をかけるのはどのようなときでしょうか。キリストを信じる者は神の子どもでありますから、子どものように考えてみましょう。
幼い子であればおともだちと仲良くし、誰かが困っていたら力を合わせて助けられたり助けたりができると「偉いね、立派だね」とほめられるものです。幼子にできることは限られておりますので、業績によらず純粋に仲良く思いやりがあることが立派なのです。
少し成長しますと子どもたちの中で学級委員長や生徒会長などの「長」という肩書や役割も生じます。これらを担う子がほめられるに値するのは本人に何か権力があるからではなく、学級や生徒全体の益となることに仕えているからです。
神の子とされた者として私たちは神様から子どもとして見ていただいています。よく我慢できたね、おともだちを許してあげることができたね、と父がほめてくれるのです。
思いやりや奉仕の心を一言で表せば「愛」ということになるでしょう。使徒パウロはこの愛について「霊の結ぶ実」と呼び、そこから喜びや平和、寛容、親切が生じることを教えています(ガラテヤ5:22-23)。
「一人は右に、もう一人は左に」と地位や名誉を求めるだけであれば、それは異邦人あるいはこの世の人々のように権力をふるうだけのことにつながります。仕える者、仕えるためにと考えればこそ、私たちは主の御用をいち早く聞きつけることができるよう十字架の傍らにいつも自分を置くことになるでしょう。
「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために」(28)世に来られました。キリストは仕えるどころか「多くの人の身代金として自分の命を献げる」ことで私たち罪人を滅びから救い出してくださいました。
御子キリストが代価を払って私たち罪人を滅びの中から買い戻されたのですから、私たちは何をもってこの方にお仕えできるでしょうか。いつでも主の御声が聞けるところ、一人は右にそして左にと十字架のそばで仕えましょう。
<結び>
「折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。」(マタイ27:38)
主イエスが十字架にかかられたとき一人は右に左にと父なる神が定めたものたちがおりました。はじめは二人とも主をののしっておりましたが(27:44)、のちに一人は悔い改めて救いの恵みにあずかることになりました(ルカ23:43)。
いつどんな時であるかは知らされていませんが、私たちには栄光の座の前でより分けられる日が必ず来ます。主の裁きが神の家から始まるとき、羊と山羊のように右へ左へとより分けられるのです。
仕えるために来られたばかりでなく、その上で私たち罪人を救うためにキリストが十字架でご自分の命を献げてくださいました。一人は右に、もう一人は左にと主の栄光の座の前で信仰が明らかにされることを覚えつつ、私たちはキリストの恵みにより神の霊に生かされて十字架を背負って歩ませていただきましょう。
「いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」(マタイ20:27-28)