マルコによる福音書8章27-34節「信仰と愛をもって」
2026年3月8日
牧師 武石晃正
教会暦において本日は受難節第3主日を迎え、私たちの救い主であるイエス・キリストが罪に満ちたこの世界においてどのような道を歩まれたのかを深く思い巡らします。十字架の苦難へと向かわれる主を覚えつつ、受難節(レント)において私たちは自らの信仰と生活を静かに省みるのです。
キリストの体である教会とその肢(えだ)である私たち一人ひとりもまた、この世において苦難に直面しながらも福音の真理を保ちつつ主の証し人として歩み続けます。本日は受難節第3主日にあたりマルコによる福音書を開き、「信仰と愛をもって」真心から私たちが主イエス・キリストに従う道を尋ね求めてまいりましょう。
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1.「あなたは、メシアです」
本日の福音書の箇所は、主イエスが弟子たちを伴って「フィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった」(27)場面から始まります。このフィリポ・カイサリアという地名は、当時の社会的、宗教的背景を理解する上で非常に重要な意味を持っています。
この町は、ガリラヤ湖からさらに北へ向かったヘルモン山の麓に位置し、異邦人の文化が色濃く交錯する場所でした。その名は、時のローマ皇帝カエサル(カイザル)と、この地を統治していた領主ヘロデ・フィリポの名に由来しています。
ここにはローマ皇帝を現人神として礼拝するための壮大な神殿が築き上げられ、まことの命を持たない木や石で作られた偶像が立ち並ぶ偶像礼拝の中心地ともいえる場所でありました。ローマ帝国という圧倒的な軍事力と政治権力が支配するこの場所において、主イエスはあえて弟子たちを立ち止まらせて声を抑えるように問いを投げかけられました。
「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」(27)という主の問いに対し、弟子たちはこれまでの宣教の旅の中で耳にしてきた群衆の声を報告します。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」(28)。
群衆の認識はナザレのイエスを単なる一介の教師ではなく神から遣わされた特別な存在と見ていましたが、あくまで「預言者の一人」という枠内に留まります。人々は奇跡や大勢の腹を満たしたパンを熱望しただけで、この方ご自身が独り子である神すなわち地上の王たちの支配者(黙示1:4)であるという真理には至っていなかったのです。
そこで主イエスは問いの矛先を弟子たち自身へと向け「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(29)と問われます。群衆がどう考えるかではなく、これまで寝食を共にしては直接にイエスの教えを聞き、その奇跡を目の当たりにしてきた者たちの信仰そのものが問われています。
緊迫した問いに対してペトロが弟子たちを代表して口を開き、「あなたは、メシアです」 (29)と力強く告白しました。「メシア」とはユダヤの言葉で「油を注がれた者」すなわちキリストを指し、神によって立てられたまことの「王」であり「救い主」であることを意味する語です。
短い一言ではありますが、このペトロの告白はただ宗教的な正解を答えたという生易しいものではないのです。と申しますのも、ここフィリポ・カイサリアには皇帝カエサルを「主」と呼び「神の子」として崇めるための神殿がそびえ立っていたからです。
目の前にいる大工の息子イエスに向かって「あなたこそがまことの王であり、支配者です」と宣言することは、ローマ皇帝への反逆とみなされかねない命がけの告白でした。「我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず」(日本基督教団信仰告白)との私たちの信仰告白もまた、このペトロによる告白と同じ重みがあるのです。
信仰の土台とはこの世のいかなる権威や力に一切かかわりなく、ただ主イエス・キリストを唯一の主として仰ぎ見ることにおかれます。ナザレのイエスの御顔を仰ぎ「あなたは、メシアです」と告白する信仰において、私たちはキリストという岩の上に立つのです。
2.信仰と愛をもって
ペトロによるメシア告白がなされた直後、主イエスはご自身の使命の真の姿を、初めて弟子たちに包み隠さず明らかにされました。主は弟子たちに「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」(31)と教え始めておられます。
「ひとたび己を全き犠牲として神にささげ、我らの贖ひとなりたまへり」(日本基督教団信仰告白)と私たちは告白します。メシアが苦しめられ殺されるのは、全き神であり全き人である方が私たちの身代わりとなって裁きを受けてくださるためでした。
ところが受難の予告を受けたペトロは黙って聞いておられずに、「イエスをわきへお連れして、いさめ始めた」(32)というのです。なぜでしょう、それはペトロ自身の立場が危うくなったからです。
弟子たちにとってのメシアとはローマ帝国を打ち倒してダビデの王国を再興する栄光の勝利者でありましたから、ペトロとしてはたとえ皇帝の目の前であろうと「イエスは主である」と宣言できるつもりでいたでしょう。そこまではっきりと信仰を明らかにするのですから、必ずやイエスご自身がメシアとしての権能をもって助けてくれるはずだからです。
そのメシアである方がなんと自身が無力なままに捕らえられ、苦しみを受けて殺されるなどと言い出したものですからペトロとしてはたまったものではないわけです。「あなたがメシアであって世界を治める王になると信じていたから俺たちはここまでついてきたんじゃないか」と動揺する弟子たちの気持ちが痛いほど伝わってくるようです。
「たった今カエサルの像の前で大きなことを言ってしまったけれど、あなたが捕まってしまったらこの俺まで殺されてしまう」と、ペトロは頭から冷水をかけられたような思いをしたことです。そこで彼は主イエスを脇のほうへ呼び寄せて「そんなことがあってはなりません」(マタイ16:22)あるいはむしろ「そんなことがあるはずがないでしょう」といさめ始めました。
現代の信仰者にとってのフィリポ・カイサリアとは私たちが日々生きているこの社会そのものであり、経済的な豊かさ、社会的地位、人からの賞賛など目に見える「力」を求めることが「現代の皇帝崇拝」なのではないでしょうか。そして私たち自身もこの世の価値観に毒されていると神を自分の思い通りに動かしたいという支配欲に駆られ、キリストを自分の成功を後押ししてくれる都合の良い「神様」のように担いでしまうのです。
抗議ともとれる言葉を受けて、主イエスは振り返るなり「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と彼を厳しく叱責されました。キリストを信じて洗礼を受けた私たちも神のことではなく人間のことばかり考えているならば、キリストを担いだだけで虎の威を借る狐のような空威張りに過ぎないものとなるでしょう。
そこで主は弟子たちばかりでなく群衆をも呼び寄せて、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(34)と戒めました。十字架を背負うという過酷な招きは、特定の弟子たちだけに向けられたものではなかったのです。
自分を捨てて十字架を背負うとは何も特別な苦行をすることではなく、家庭や職場での人間関係において相手を赦し愛することを選ぶ日常の歩みにあるのです。自分の正しさを主張して相手を打ち負かしたいと思う『古い自我』を十字架につけることです。
あるいは不安や恐れに支配されそうになる時、神の御心がどのように成ろうともその結果を絶対的に信頼して従うことです。私たち自身の努力や気力では決してできることではありませんので、だからこそ十字架を仰ぎ見ながら私たちの内に働いてくださる聖霊によるきよめと満たしを日々祈り求めます。
十字架の死と3日目の復活というキリストの救いを信じる信仰によって私たちは父なる神に罪を赦していただきました。ところが神の子とされる「新生」の恵みにあずかった後も、私たちの内には「人の思い」すなわち自己中心的な性質が根深く残っています。
心の奥底に潜む古い自我を十字架につけ自分自身の全存在を「生きた供え物」として神にお捧げし尽くすことによって、私たちは聖霊によるきよめと満たしを受けるのです。この「聖化」の歩みにおいて私たちが真に自分を捨てることこそ、もはや自分が生きるのではなくキリストが私の内に生きてくださるという大いなる恵みの歩みであります。
「イエスは主である」と心で信じて口で告白することによって救いの恵みを受けたならば、自分の十字架を負ってキリストに従う必要があります。救いを受けて喜ぶだけでそこで留まってしまったならば、私たちはフィリポ・カイサリアでのペトロのようにこの世的な価値観によって受けた恵みさえ容易に手放しかけてしまうでしょう。
そして私たちは善かれと思ってその時は判断するものですから、自分が恵みを拒んでいることに気づかないものです。「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者」(フィリピ3:18)となって滅びに行き着いてからでは手遅れになってしまいます。
だからこそ使徒パウロは愛する弟子テモテに、そして聖書を通してキリストが私たち一人ひとりに向けて「わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい」(テモテ二1:13)と命じています。教会にゆだねられた「健全な言葉」とは福音を正しく宣べ伝えることであり、「キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって」私たちはこれに従います。
<結び>
「そこでイエスがお尋ねになった。『それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。』ペトロが答えた。『あなたは、メシアです。』」(マルコ8:29)
異教とこの世の権力がはびこる時代にあってペトロたちは主イエスを「メシア」であるとはっきりと告白しました。受難の道を理解できなかった弟子たちのような私たちをも主は見放さず、自分の十字架を背負い自己中心的な自我に死んで従うよう招いておられます。
十字架にかかられた主イエスが「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と今日あなたに向けて問いかけます。人の子と呼ばれるキリストが多くの苦しみの末に十字架の死をもお受けになられたのですから、信仰と愛をもって私たちは自分の十字架を負ってゴルゴタの十字架へ向かって歩き出すキリストの背中に従います。
「キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。」(テモテ二1:13-14)
(引用「聖書新共同訳」©日本聖書協会)