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マルコによる福音書6章14–29節「約束に従って」

2026年6月28日 牧師 武石晃正  キリストを信じて何か良いことがあるのか、とあなたが信仰の証しをしたときに誰かから尋ねられたことはあるでしょうか。信仰者自身でさえこの世の価値観との間における葛藤や矛盾に悩んでは、苦しみばかり数えてしまうこともあるものです。  人間の体裁や立場を守ろうとすることから不条理な弾圧や迫害が引き起こされるという現実は聖書の時代から近現代に至るまで絶えることなく続いています。日本でも1942年6月26日に治安維持法違反の容疑から全国のホーリネス系教会の教師96名が一斉に検挙されるという「ホーリネス弾圧事件」が起こりました。  逮捕され拘置所に抑留された多くの教師たちは不当な取り調べによって心身に深い傷を負わされましたが、主イエスこそが世界の統治者として再び来られるという信仰が文字通り命をかけて受け継がれました。本日はマルコによる福音書から洗礼者ヨハネの殉教の箇所を開きつつ、「約束に従って」と題して神の確かな約束について御言葉に耳を傾けてまいりましょう。 ( PDF版はこちら ) 1.「洗礼者ヨハネの首を」  主イエスの御名が各地に知れ渡り弟子たちが宣教に遣わされていたその頃、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスは深い不安と恐れに怯えていました。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」(14)という人々の噂を耳にしたとき、ヘロデは「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」(16)と腹の底から身震いしたことです。  世の権威によって表向きは正当な手順を踏んでヨハネを処刑したつもりであっても、彼の心には決して消えない恐怖が付きまとっていたのです。そしてこのヨハネの身に起こった悲劇の背景には人間の醜い体裁と自己保身が絡み合っておりました。  自らの兄弟の妻であったヘロディアを妻に娶るという神の律法(レビ18:16)に反する不法な婚姻をヘロデは行っていました(17)。洗礼者ヨハネが「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」(18)と彼を厳しく糾弾したのは単に不道徳を責めたというよりも、律法における違反によってヘロデがユダヤ人を治める王としての資質に欠いていることを追及したのです。  面目をつぶされたヘロデは腹いせのようにヨハネを捕らえて牢につなぎました(17)。けれども「ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていた」(...

マルコによる福音書6章1–13節「神の言葉を聞こう」

2026年6月21日 牧師 武石晃正  私たちは日々そして主日ごとの礼拝において「神の言葉を聞く」という特権にあずかっています。共に祈り賛美をささげ、聖書を通して語られる主の御声に耳を傾けること、これこそが教会の命の源泉です。  しかし私たちが日々開くこの聖書は神の言葉を聞くことがいかに私たち自身の「人間の思い込み」によって阻まれやすいかという現実をも告げ知らせています。本日はマルコによる福音書を開き「神の言葉を聞こう」と題して主イエス・キリストの恵みを受け取る備えをいたしましょう。 ( PDF版はこちら ) 1.この人は大工ではないか  「イエスはそこを去って」(1)と話が切り出されておりまして、本日の聖書箇所はイエスが会堂長ヤイロの家で娘をよみがえらせた奇跡の後の出来事として記されています。マタイやルカによる福音書に照らすならば、ナザレのイエスの評判がガリラヤ地方である程度行きわたった時点のようです。  そこで主イエスは弟子たちを引き連れてご自身が育たれた故郷ナザレにお帰りになりました。ガリラヤの町々でそうであったようにナザレでもイエスのおられる家や会堂の戸口に人垣ができるかと思いきや、どうも様子が異なるようです。  ナザレの人々にとってイエスという男はつい最近まで自分たちと同じ土埃の中で汗を流していた身近な労働者の一人でありました。彼らにしてみればマリアの息子であるイエスは父ヨセフの仕事を継いだ大工に過ぎず、「ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモン」(3)と名があげられている弟たちそして妹たちを養うために汗水を垂らしていた男に過ぎなかったのです。  この人々が特別に不信仰であったと言い切ることできるでしょうか。安息日に会堂へ集まっていたのですから、彼らは実にまじめなユダヤ人でありました。  伝統的な信仰を正しく守っているという強い自負を持っていたからこそ、安息日の会堂でマリアの息子イエスが語り始められたとき「多くの人々はそれを聞いて、驚いて」つぶやいたのです(2)。そして彼らの驚きは救い主への賛美や奇跡の人への称賛ではなく、「なぜあの大工のせがれが、あのような知恵や奇跡を行えるのだ」という疑いと侮蔑に満ちたものでありました。  人々はイエスについて「マリアの息子」と呼びました。それは父親の家系を重視するユダヤ社会にあって珍しいことでありますから、単にマリアの夫ヨセフがすで...

マルコによる福音書5章1–20節「自分の家族のもとに」

2026年6月14日 牧師 武石晃正  早いもので教会暦においては聖霊降臨節第4主日を迎えました。聖霊の注ぎに与った教会がそれぞれの場所に遣わされて福音を宣べ伝えることを覚える季節です。  キリストが十字架で流された尊い血によってすべての罪に対する代価が支払われ、この知らせを聞いて信じる者は誰でも罪の贖いを受けるのです。私たちはイエス・キリストの福音を誰から聞いて誰に伝えることでしょうか、本日はマルコによる福音書を開き「自分の家族のもとに」と題して主から受けた恵みと使命を確かめましょう。 ( PDF版はこちら ) 1.「向こう岸」へ渡った先  マルコによる福音書5章の冒頭には、「一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた」(1)とあります。この「一行」とは主イエスから「向こう岸に渡ろう」(4:35)と招かれ、ガリラヤ湖の激しい嵐の中を共に舟に乗った弟子たちのことです。  ユダヤ人である弟子たちにとってガリラヤ湖の「向こう岸」とはただの外国であるという意味だけではありませんでした。その地には異教の神々を拝んでいる人たちすなわち付き合いをしてはならない「異邦人」が住んでおり、実に「汚れた土地」であったのです。  弟子たちにとってその旅路は希望に満ちた新天地への船出というよりも、できれば足を運びたくないものであり、行先は避けて通りたい場所でありました。しかし主は自ら助けを求めることも湖を渡ってイエスのもとへ来ることも叶わない人々、深い暗闇の底にある魂をもお救いになろうとされました。  あえて弟子たちを伴って主イエスは墓場と豚の群れが広がる土地へと乗り込まれたのです。そして舟から上がられた主イエスの前に真っ先に現れたのは「汚れた霊に取りつかれた人」(2)でありました。  聖書は彼について「墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった」(3)と記しています。人々は彼の驚異的な力を恐れて足枷や鎖で縛り上げようとしましたが、その度に鎖は引きちぎられてしまいました。  人間の力や権威ではこの人の魂を支配する深い闇を根本的に解決することはできなかったのです。彼は昼も夜も墓場や山で叫んでは石で自分の体を傷つけ続けていたというのですから(5)、心も体も痛み苦しんでいたことです。  生きていながらにして「墓場」という死の支配する領域に隔離され...

マルコによる福音書 1章29–39節「無学な普通の人」

2026年6月7日 牧師 武石晃正  毎年6月にホーリネスの群では「四重の福音強調月間」として特色教理である「四重の福音」(新生・聖化・神癒・再臨)を覚えます。もとはアメリカのA.B.シンプソン牧師がキリストについて「救い主」「きよめ主」「癒し主」「再臨の王」の4つの側面から説いた「四重の福音」(Fourfold Gospel)でありました。  アメリカで学びウェスレアン・ホーリネス運動の影響を受けた中田重治監督がホーリネス主義化された「四重の福音」を日本へもたらしました。そしてホーリネスの群の前身である東洋宣教会が「救い、聖潔、主の再臨、神癒」を説いたことで、一般大衆に理解できるキリストの福音が宣べ伝えられました。  昨年度は四重の福音のうち聖化についてさらに強調いたしましたが、今年は神癒について意識を向けてまいります。そして本日は聖霊降臨節第3主日にあたりマルコによる福音書を開きつつ、「無学な普通の人」と題して「聖霊によりて宿り、おとめマリアより生まれ」たナザレのイエスとその弟子たちの歩みに思いを深めましょう。 ( PDF版はこちら ) 1. 主に招かれた無学な普通の人  朗読箇所はカファルナウムのシモンとアンデレの家へ主イエスが弟子たちを率いて向われるところから始まります。「ヤコブとヨハネも一緒であった」(29)とあるように弟子たちは4人の漁師たちであり、ユダヤの教えを受けて育ちイエスに招かれたとはいえ無学な普通の人たちでありました。  「シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていた」(30)ことをイエスに伝えに来た人々とはその家の者たちでしょうか。客人を出迎えたり食事の支度をしたりするはずの「おかみさん」が病気で倒れてしまったのですから、本来であれば「本日のところはおいでいただいてももてなしの一つもできません」と詫びの挨拶をするような場面です。  何と言って彼らに答えたのかは記されておりませんが、とにかく主は弟子たちを連れて熱病で伏せっているシモン・ペトロの姑を見舞われました。愛する弟子の家を訪れた主イエスが彼女の手を取って起こされると、たちまちその熱が下がったのです。  するとペトロの姑はすぐに起き上がり、一同をもてなし始めました(31)。病み上がりにこき使われたということではなく、内側から与えられた神の恵みの力によって喜びと感謝に満たされて踊るようにもてなす姿...