マルコによる福音書 1章29–39節「無学な普通の人」
2026年6月7日
牧師 武石晃正
毎年6月にホーリネスの群では「四重の福音強調月間」として特色教理である「四重の福音」(新生・聖化・神癒・再臨)を覚えます。もとはアメリカのA.B.シンプソン牧師がキリストについて「救い主」「きよめ主」「癒し主」「再臨の王」の4つの側面から説いた「四重の福音」(Fourfold Gospel)でありました。
アメリカで学びウェスレアン・ホーリネス運動の影響を受けた中田重治監督がホーリネス主義化された「四重の福音」を日本へもたらしました。そしてホーリネスの群の前身である東洋宣教会が「救い、聖潔、主の再臨、神癒」を説いたことで、一般大衆に理解できるキリストの福音が宣べ伝えられました。
昨年度は四重の福音のうち聖化についてさらに強調いたしましたが、今年は神癒について意識を向けてまいります。そして本日は聖霊降臨節第3主日にあたりマルコによる福音書を開きつつ、「無学な普通の人」と題して「聖霊によりて宿り、おとめマリアより生まれ」たナザレのイエスとその弟子たちの歩みに思いを深めましょう。
(PDF版はこちら)
1. 主に招かれた無学な普通の人
朗読箇所はカファルナウムのシモンとアンデレの家へ主イエスが弟子たちを率いて向われるところから始まります。「ヤコブとヨハネも一緒であった」(29)とあるように弟子たちは4人の漁師たちであり、ユダヤの教えを受けて育ちイエスに招かれたとはいえ無学な普通の人たちでありました。
「シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていた」(30)ことをイエスに伝えに来た人々とはその家の者たちでしょうか。客人を出迎えたり食事の支度をしたりするはずの「おかみさん」が病気で倒れてしまったのですから、本来であれば「本日のところはおいでいただいてももてなしの一つもできません」と詫びの挨拶をするような場面です。
何と言って彼らに答えたのかは記されておりませんが、とにかく主は弟子たちを連れて熱病で伏せっているシモン・ペトロの姑を見舞われました。愛する弟子の家を訪れた主イエスが彼女の手を取って起こされると、たちまちその熱が下がったのです。
するとペトロの姑はすぐに起き上がり、一同をもてなし始めました(31)。病み上がりにこき使われたということではなく、内側から与えられた神の恵みの力によって喜びと感謝に満たされて踊るようにもてなす姿が思い浮かぶようです。
驚くべき神の力あるいは命の回復の知らせはすでに一帯へ広がっておりました(28)。「夕方になって日が沈むと」(32)すなわち安息日が終わるのを待って、イエスの噂を聞いた者たちが「病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た」(32)のです。
「町中の人が、戸口に集まった」(33)という中には病気や悪霊に苦しんでいた人もいれば珍しもの見たさの野次馬のような者たちも含まれていたことでしょう。いつの世においても癒しの恵みの話を聞いて信じた者もあれば疑った者もあるとして、神の国の恵みを受け取ることができるのは証しを聞いて信じキリスト・イエスにすがった者だけです。
人間的な視点から見るならば実に順風満帆ともいえる宣教活動の幕開けです。このカファルナウムという町でこのまま癒しのわざをなして名声を高めるならば、多くの人々を惹きつけることができるでしょう。
それは効率的に人々を幸せにする伝道の方法の一つであり、おそらく弟子たちもそのような大きな期待の中に身を置いていたと思われます。ところが効率や成功という私たちの期待に背を向けるように「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」(35)というのです。
まだ誰も起きていない暗闇の静寂の中に退かれることで、主イエスは周囲に渦巻く群衆の求めや自分を称賛する人間的な評価から身を遠ざけられました。何のために自分がこの地上に遣わされたのか、その本質的な使命を天の父なる神との静かな対話の中で見つめ直しておられました。
「みんなが捜しています」(37)と後を追ってきた弟子たちに対し、主は「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」(38)とだけ答えられました。人々は病気の癒しというこの世における事柄を求めておりましたが、主イエスは愛する弟子たちを「わたしは宣教する」「そのためにわたしは出て来た」と天からの使命のうちに招いておられます。
2.イエスと一緒にいた者
「わたしは宣教する」との言葉を聞いて、弟子たちは主がただ「シモンの家を出て、他の村々へと伝道旅行に行くのだ」という地理的な意味として理解したことでしょう。そして周囲の人々にしてみればナザレのイエスは田舎町の大工にすぎませんから、「わたしは出て来た」とは文字どおりに田舎から出て来たというだけの響きであります。
ところが主イエスがここで述べている「出て来た」という言葉の本当の意味は人々の理解とは全く次元が異なるのです。それは世に来てすべての人を照らすまことの光としての使命であり(ヨハネ1:9)、聖霊によって父なる神のふところから遣わされた独り子である神としてのお姿です。
「ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された」(39)という力強い御業もまた、人間が与えた資格やこの世的な学識といった権威によるものではないのです。天におられる御父から遣わされたというただ一点において主イエスは立っておられ、人々の都合の良い期待に縛られることなく最も本質的な使命である「宣教」のために常に一歩を踏み出しておられました。
「わたしは出て来た」と御父から出て来た権威によって福音が宣べ伝えられると、その先々の町でもまた主イエスは弟子たちを連れて癒しのわざを行われました。そして御父の権威の前に従順を尽くされた主は十字架の死にまで従い、私たち罪人の贖いとなられた後に復活し、弟子たちの見ている前で天に昇られることになります。
カファルナウムをはじめとするガリラヤ地方の多くの町々で主イエスとともに福音を語り癒しのわざを行ったあの無学な普通の人たちはその後いったいどうなったでしょうか。主の十字架と復活そして聖霊降臨の日を経て、イエス・キリストが御父から与えられた権威は後に残された弟子たちへと驚くべき形で受け継がれることとなったのです。
使徒言行録を開きますと、4章にはエルサレムで律法学者たちに捕らえられたペトロとヨハネの姿が記されています(使徒4:7)。議員ばかりか大祭司一族まで集まった中、使徒は目の前にいる宗教的指導者たちが主イエスを十字架につけて殺したと言葉を濁さずに述べ、ナザレの人イエスを神が死者の中から復活させたこと大胆にその名を語りました(4:10)。
ガリラヤ訛りの男たちの言葉を聞いた議会の者たちは、あらためて「ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった」(4:13)と驚きを露わにしました。この「無学な普通の人」という言い回しは律法学者たちや大祭司たちからみた非常に辛辣な評価です。
「無学な」とはユダヤ律法の教師であるラビになるための正規の専門教育を受けていないことを指していますが、もともとは「読み書きができない」という意味です。また、「普通の人」とは議員のように公的な職務も社会的な権威も持たない「一般大衆」を指していますから、彼らはガリラヤの漁師あがりの使徒たちを宗教的な権威など微塵も持ち合わせていない実に取るに足らない存在であるとあしらっていたのです。
けれども「ペトロは聖霊に満たされて」(4:8)この最高法院(サンヘドリン)とも呼ばれる最も恐ろしい権力のただ中で、一切の気後れも恐怖もなく堂々と語りました。更には今後いっさいイエスの名によって語るなと脅しをかける権力者に対し「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」(4:19-20)と言い放ったのです。
たとえ無学で普通の人であったとしてもキリストを死者の中から復活させた聖霊の力を受けたなら、「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(4:12)とイエス・キリストの名による救いを証しすることができます。そして単に言葉ばかりでなく「足をいやしていただいた人がそばに立っているのを見ては、ひと言も言い返せなかった」(4:14)と議会の人々が思わず言葉を飲みこんだほどにキリストの福音には力があるのです。
かつて主イエスが病人たちを癒されたのと同じ業を弟子たちが行ったのは(3:1-10)、彼ら自身の才能や修行の成果によるものだったでしょうか。いつも「イエスと一緒にいた者」(4:13)であるシモン・ペトロが「聖霊に満たされて」(4:8)語ったように、無学な普通の人であったとしてもキリストの救いを受けて神の言葉と聖霊によるきよめに与るならば、私たちもまた神癒の恵みとともに神の国を現すことになるのです。
<結び>
「議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。」(使徒4:13)
主イエスは弟子たちを伴い病の癒やしや宣教に奔走されますが、常に祈りの中で御父からの使命を見つめ直しておられました。後に弟子たちは聖霊に満たされて、「イエスと一緒にいた者」として最高法院の前で主の復活と救いを大胆に証しするほどの者へ造り変えられたのです。
天下にキリストの名のほか救われるべき名は与えられていないことを、私たちも主の弟子として証しします。聖霊は私たちをきよめて義の実を結ばせるのですから、無学な普通の人である私たちをも神の国を現す者へと造り変えてくださいます。
「イエスは言われた。『近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。』」(マルコ1:38)
(引用「聖書新共同訳」©日本聖書協会)