マルコによる福音書10章32-45節「御子の死によって」

2026年3月22日
牧師 武石晃正


 3月も下旬に入り、受難節第5主日を迎えました。この山陰地方にも本格的な春の訪れを感じる季節となり、柔らかな日差しが大地を優しく温め始めています。
 季節は春を迎えつつも、私たちが自分自身の人生や内なる心に目を向けるとき、必ずしもそこには暖かな春の風景ばかりが広がっているわけではないものです。病の苦しみや先の見えない不安を抱えては、あるいは日々の生活における人間関係での葛藤や孤独などが私たちを「荒れ野」のただ中に立たせることもあるでしょう。

 受難節は神の子キリストが人間として私たちと全く同じ肉体をとられ、痛みや苦しみという現実を味わわれたことを黙想する期間です。本日はマルコによる福音書10章を開きつつ、「御子の死によって」という題で私たちの身代わりに十字架の苦難を引き受けてくださったキリストの恵みに思いを深めましょう。


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1.自分が何を願っているか

 「一行がエルサレムへ上って行く途中」(32)という場面でありまして、先頭に立って行かれるイエスを見て「弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた」というのです。主はご自身が十字架に架けられる場所であるエルサレムへと断固たる決意をもって歩まれるのですから、その背中に覚悟とただならぬ気迫を感じて弟子たちは言葉を失ったことでしょう。
 改めて主イエスは十二人の弟子たちを再び呼び寄せ、ご自分が祭司長たちばかりでなく異邦人にまで引き渡されて殺されることを告げられました(32-34)。これは弟子たちに対する3度目の受難予告であり、「三日の後に復活する」(34)ことも含めて主はご自分が向かっているのが死への道であることをはっきりと弟子たちに伝えたのです。

 ところが主イエスがご自身の死に至る激しい苦難について語られたばかりというのに、ゼベダイの子ヤコブとヨハネが耳を疑うようなことを願い出ました。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」(37)
 彼らはナザレのイエスがエルサレムに上り、そこでローマ帝国の支配を打ち破って力強い地上の王となられることを期待していました。そして新しい政治体制が樹立された暁には、自分たち兄弟に右大臣と左大臣のような最高の地位を与えてほしいと懇願したのです。

 主イエスは死に至るまで神に従い、人々のためにご自分の命まで与えようとエルサレムに向かっておられました。その同じ道を歩みながらも、彼らの心の中は自分の出世や地位すなわちこの世での栄誉を手に入れることでいっぱいだったのです。
 「ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた」(41)とありますが、ゼベダイの子らに出し抜かれたと思った彼らの気持ちは分からなくもないでしょう。とはいえ「誰がいちばん偉いか」と権力闘争に明け暮れる弟子たちですので、十字架への道を歩む主イエスとの間に埋めがたいほどのすれ違いがあったのも確かです。

 ここで私たちが、自らの信仰の姿勢を静かに省みたいことがあります。それは私たち自身もまたこのヤコブやヨハネと同じように、主イエスに「自分の願いを叶えてもらうこと」ばかりを求めていないか、ということです。
 現代の社会において私たちは常に「自己実現」という言葉に取り囲まれて生きています。自分の夢を叶えることや自分自身の価値を高めて社会的に成功し、豊かな生活を手に入れることが最も素晴らしいことであるかのように今の時代は教えます。

 時として私たちは信仰者でありながら、「信仰」や「聖書」をも自己実現のための便利な道具として使おうとしてしまう誘惑に駆られます。たとえば「主なる神を信じれば、病気が必ず治るはずだ」「熱心に祈れば仕事が成功し、人間関係もうまくいくはずだ」と、自分の描いた理想を実現するために主の御名を利用しようとしてしまうのです。
 しかし、聖書によって明かされる「キリストを信ずる信仰」とは自己実現といった私たちの妄想を達成するための手段ではないのです。聖書の語る信仰の本来の姿とは、私たちが主なる神を自分のために利用するためにあるのではなく、私たちが自分の思い上がりや野心を手放して主なる神の圧倒的な恵みと御心に自らを明け渡していくことなのです。

 弟子たちに対して主イエスは静かに「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」(38)とお答えになりました。そしてご自身が飲もうとされている苦難の杯を飲み、十字架という洗礼を受けることができるかと問われます。


2.多くの人の身代金として

 信仰とは自分の願い通りに神を動かすことではなく、主イエスが歩まれた十字架への道に私たち自身も自分の十字架を背負って従っていくという覚悟であると言い換えることができるでしょう。洗礼を受けた途端に困難がなくなるどころか、むしろ神の霊が私たちを試練の荒れ野へと導き入れることさえあるのです。
 権力闘争と自己実現の欲望に明け暮れる弟子たちを呼び寄せて、主イエスは「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている」(42)と話を切り直します。そして神の国における全く新しい価値観、大いなる逆転の真理を説かれました。

 この世の社会では上に立って他者を支配し自分のために他者を働かせること、権力を振るうことが「偉い」とされます。しかし主イエスがもたらした神の国では、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者に」「いちばん上になりたい者は、すべての人の僕に」なることが求められます(43-44)。
 一番下に下り他者のために自らを低くして仕えることこそが真の偉大さであると示すため、主ご自身が仕える者となってくださいました。主は私たちが互いに支配し合うのではなく、互いに仕え合う共同体となることを求めておられます。

 そしてご自身がこの地上に来られた究極の目的として「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(45)と主は弟子たちに明かされました。「身代金」とは当時の世界で捕虜や奴隷を自由の身にするために支払われる莫大な代価のことでありますから、主は単なる道徳的な教師として「人に優しくしなさい」と教えようとされたわけではなかったのです。
 罪と死という呪いに繋がれ、私たちは自分自身の力では決して這い上がることのできない深みに置かれていました。この無力な私たちを解放するために、キリストがご自身の「命」という最も尊い代価を十字架の上で支払うためにこの地上に来られたのです。

 給仕を意味する「仕える者」よりさらに低く、主は「僕になりなさい」と奴隷のように自分の利益を持たない姿で仕えることを命じられました(43-44)。命じられたばかりでなく、私たちを罪の支配から買い戻すために主みずから「自分を無にして、僕の身分になり」(フィリピ2:7)命を投げ出してくださったのです。
 キリストが払ってくださった身代金としての犠牲が私たちにとってどれほど大きく確かな恵みであるかを使徒パウロの言葉に照らしてみましょう。ローマの信徒への手紙には「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです」(ローマ5:10)と記されています。

 パウロはここで私たちが救われたのは私たちが主なる神に対して立派な信仰を持っていたからでも正しい行いを積み重ねたからでもないのだと明確に語っています。救いとは私たちの努力や業績の故にあるのではなく、主なる神からの全き賜物なのです。
 「敵であったときでさえ」というのが実に私たちの本当の姿でありました。主なる神の愛を無視し、ヤコブやヨハネのように自分の欲望ばかりを追い求め、主なる神に背を向けていた存在だったのです。

 聖書に照らせば自分の栄光を求める欲望すなわち自己実現への強い固執というものは、いわゆる道徳的な失敗という程度のものではないのです。それは創造主である神から王座を奪い取って自分が神になろうとする罪の根源であり、それゆえに私たち人間は「神の敵」となってしまったのです。
 実に私たちが「神の敵」である罪人であったその時に、主なる神は「わたしの愛する子」と呼ばれたイエス・キリストを十字架につけてくださいました。「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」と問われたキリストが罪人であった私たちの目の前で、その杯が誰のために流されるものであるかとご自分の血によって明らかにしてくださいました。

 キリストの流された血すなわち徹底的な従順と犠牲によって私たちは一方的に主なる神から「義」と認められ、罪の赦しを受けました。私たちが何か善いことをしたからとか熱心に祈ったから神と和解できたのではなく、ただ御子の死によって身代わりを得たことにより本来は神の前に死ななければならない私たちが命を得たのです。
 十字架で流された血によって義とされ御子の死によって神と和解させていただいたことにより、私たちにはこの世の命ではなく神の子とされた永遠の命が与えられています。キリストが支払われた身代金は死によって終わるのではなく、復活の命の勝利へと繋がっているのです。


<結び>

 「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。」(ローマ5:10)

 主イエスは自らの死と復活を予告しつつエルサレムへ向かわれますが、弟子たちは地位や名誉を求め主の覚悟とすれ違います。主は「仕えられるためではなく仕えるために来た」と説き、罪の奴隷だった私たちを救うため、命を「身代金」として献げられました。
 間もなく迎える受難週そして暗闇を打ち破る復活の主日(イースター)に向かって、このキリストの底知れぬ愛と和解の恵みを深く味わいつつ共に祈りの歩みを進めましょう。仕える者となられた神の子が多くの人の身代金として自分の命を献げられたのですから、御子の死によって贖われた私たちは主の再び来られるときまで互いに仕え合うのです。

 「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マルコ10:45)

(引用「聖書新共同訳」©日本聖書協会)


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