マルコによる福音書9章2-10節「死者の中から復活するまで」
2026年3月15日
牧師 武石晃正
受難節(レント)の第4主日を迎え、主イエス・キリストの十字架への歩みを深く覚えます。私たち自身の信仰の姿勢を静かに省みつつ、この主日の礼拝において私たちは先月主の御許へ帰られた山崎光子姉の告別をいたします。
天の故郷へと凱旋された姉妹の地上における信仰の歩みに思いを寄せ、今日ともに主の御前に集われるご遺族ご近親のお一人ひとりを主なる神が豊かな慰めと平安で顧みてくださることを祈ります。私たちの救い主である主イエス・キリストの栄光を仰ぎつつ、本日はマルコによる福音書を開き「死者の中から復活するまで」と題して主の憐み深さを慕い求めましょう。
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1.人の子は苦しみを重ね
地上に生きるすべての人間はいずれ等しく「死」という圧倒的な現実に直面します。愛する家族との別れや肉体の衰えを伴い、自らの力ではどうすることもできない現実です。
あるいは長く続く病による苦しみは絶えず私たちを悩ませ、時に心までをも深く打ち砕きます。しかし、キリストの福音に生きる者にとって「死」とは決してすべての終わりを意味するものではないのです。
なぜなら私たちは「死者の中から復活する」という確かな約束を、死を打ち破られた救い主であるキリストご自身からいただいているからです。私たちがどのような暗闇の谷間を歩む時であっても、遣わされているその場所において神は必ず恵みの光を受け継がせてくださると私たちは信じます。
マルコによる福音書9章には、主イエスが十字架の苦しみをお受けになる前に3人の弟子たちにご自身の栄光をはっきりと示された出来事が記されています。ガリラヤ地方での宣教活動からいよいよ十字架が待ち受けるエルサレムへと進路を定められた時のことです。
主イエスはご自身がこれから長老や祭司長たちから排斥され、殺されるという受難の予告を弟子たちに明かされました(8:31)。そして、ご自身に従う者たちにも、自分の十字架を背負って従うようにと、厳しい覚悟を求められたのです(8:34)。
それから6日後のこと、主イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけを連れて高い山に登られました(2)。日常の喧騒や人々の群れから離れたこの高い山は、かつて旧約聖書の時代にモーセがシナイ山に登って神の栄光に触れた出来事を思い起こさせます(出34章)。
そこで突如として弟子たちの目の前で主イエスのお姿が変わり、その服は真っ白に輝き出しました(3)。「この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」(3)とは、罪の汚れを一切持たない神の御子としてのこの世の次元を遥かに越えた聖なる輝きです。
弟子たちがただ息を飲むばかりで呆気にとられて見ていると、主イエスの前に二人の人物が現れます。それは律法を与えられたモーセと、預言者を代表するエリヤです。
同じ出来事を記したルカによる福音書を開きますと、そこには「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」(ルカ9:31)と記されています。すなわち、これから主イエスがお受けになる十字架の苦しみと死、そして復活のことです。
天地を創造された神ご自身である主イエスのことですから、律法をモーセに与え御言葉をエリヤに預けられた方が今さらこの二人に教えを乞う必要はないはずです。しかし、神であられる方が私たちの救いのために肉体をとって全き人となられたがゆえに、人間と同じ弱さと恐れをその身に負われていたという事実がここにあります。
かつてシナイ山で神と顔を合わせて語り合ったモーセ、そして世の権力者からの迫害によって「人々は好きなようにあしらった」(13)と言われるほどのエリヤです。この両名から主イエスは全き人として十字架の死へと向かうための励ましをお受けになられました。
生命の源である神にとって死というものは本質的に相反するものであり、本来は経験するはずなど決してない事柄です。それをご自身の身に引き受けることは、全き神の子であるイエスにとっていかに凄絶な出来事であったかが知らされます。
山を降りるにあたり、主イエスは弟子たちに厳しく命じられました。「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」(9)。
3人の弟子たちは山の上で見た輝かしい栄光の姿だけを心に留め、山を下りながら「死者の中から復活するとはどういうことか」(10)と論じ合いました。ところが彼らは十字架の死の現実からは目を背けようとしていたのです。
栄光に満ちたメシアが人々に捕らえられ殺されるなどということは、弟子たちにとって到底受け入れがたいことだったからです。しかし主イエスは「人の子は苦しみを重ね、辱めを受ける」(12)と明確に告げられ、十字架の苦しみと死を経ることなしに真の復活の栄光は存在しないことを示されました。
「ひとたび己を全き犠牲として神にささげ」(日本基督教団信仰告白)、主イエス・キリストが私たち人類のすべての罪と滅びの呪いを身代わりとなって引き受けてくだいました。キリストが十字架にかかってくださったからこそ、私たちに与えられる復活の命の約束は揺るぎない確かなものとなりました。
2.闇から光が輝き出よ
現実の生活において病の床にあったり肉体の衰えを日々自覚したりする中で、私たちがこの信仰の希望を保ち続けることは決して容易なことではないものです。直面した困難が一日や二日であれば自分の意志の力で心を奮い立たせることもできるとして、それが一ヶ月となり一年となって次第に先が見えない状況が続けば、絶望感や失意に襲われることの方がはるかに多くなるからです。
孤立無援のままでは、私たちの魂はこの世の支配に包囲されてしまいます。あの使徒ペトロでさえ主が捕らえられた夜には恐れに呑み込まれ、「そんな人は知らない」(14:71)と三度も主を拒んでしまったほどです。
信仰者として洗礼の恵みを受けた者であっても心に覆いがかかってしまうことがあります。そして福音の光が見えなくなってしまうような暗闇を経験することがあるのです。
使徒パウロはそのような人間の弱さと限界を誰よりも深く知っていました。だからこそ手紙の中で「こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません」(コリント二4:1)と使徒は力強く語りかけます。
人間的な力に頼るならば私たちは必ず落胆し、絶望に陥ることでしょう。けれどもパウロはさらに続け、「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」(同4:6)と希望の光を語ります。
外なる肉体が衰え、言葉を失っては意識が遠のいていくような死の床にあっても、心の内には神ご自身が確かな光を差し込ませてくださいます。キリストの御顔に輝く神の栄光の光が魂の深みを照らし出し、私たちを永遠の命へと引き上げてくださるのです。
地上での歩みを終えられたこちらの姉妹の最期の日々には、まさに「闇から輝き出る光」が見事に証しされていました。施設に入所されてからの日々、姉妹は身体の自由が利かなくなる不自由さや病の苦しみにおかれては暗闇のように感じたことも長かったでしょう。
そのような極限の状況において、施設におられたクリスチャンである職員の方がスマートフォンを用いて讃美歌の配信を彼女に聞かせておられました。この礼拝堂の席に就いて兄弟姉妹と共に声を合わせることができなくなっても、教会のとりなしの祈りと職員の方の愛の配慮が姉妹の魂を主の御許へとしっかりとつなぎとめていたのです。
そして、いよいよ天へと召されるその日のことです。看取りの場におられたご長男が傍らに寄り添い、職員の方の勧めでYouTubeにて讃美歌のチャンネルを流しておられました。
姉妹の様子はかなり頑張って呼吸を続けておられ、命の限りを尽くしていたところでありました。しかし、その場に讃美歌320番「主よみもとに」の調べが流れた時、姉妹の目から涙がぽろぽろとこぼれ落ちていきました。
彼女の頬を伝った涙は決して死への恐怖やこの世への未練からくる悲しみの涙ではなかったでしょう。この讃美歌の響きと共に「自分の時が来た」と心に受け止め、魂が天の故郷へと招き入れられていることをはっきりと悟られたのです。
キリストの御顔に輝く栄光の光が姉妹の魂の隅々までを照らし出しました。ご自身に定められた時が「今」であることを知ったかのように、それまで必死に生を保とうと頑張っていた呼吸が静かに乱れ始めました。
自らの力で生きようとする戦いを終え、魂のすべてを創造主なる神の御手へと完全に明け渡した瞬間であったと信じます。ご長男の温かい眼差しに見守られながら讃美歌の調べを胸に抱くように天へと帰られ、お名前のとおり光の子とされたのです。
積み重ねられてきた信仰の歩み、礼拝での祈り、口ずさんできた讃美歌の記憶が姉妹の心の奥底までしっかりと刻まれておりました。死の床にあっても決して失われることなく、復活の主に出会ったその瞬間にまばゆいばかりの光を放って魂を生き返らせたのです。
聖書の言葉による約束のとおり、彼女の魂はすでに病の苦痛からも老いの衰えからも完全に解放され、真っ白に輝く主イエスの御前で豊かな安息の内にあります。後に残されたご遺族そして歩みを共にする私たち教会の群れもまた、やがて来るべき復活の朝に主の御許で再会する希望が与えられています。
<結び>
「一同が山を下りるとき、イエスは、『人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない』と弟子たちに命じられた。」(マルコ9:9)
キリストの十字架と復活を経た新しい時代を生きる私たちにはこの復活の希望という救いの知らせを声高らかに語り伝えることが許されています。キリストの十字架と復活によって死がもはや冷たい絶望の終着点ではなく、復活の希望への入り口となったからです。
死を打ち破って復活された主イエス・キリストに結ばれるとき、死ぬべきこの体は全く新しい罪のない栄光の姿へと変えられます。イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を仰ぎ見る私たちはたとえ死の影の谷を行くことがあっても、死者の中から復活するまでキリストと共に希望の道を歩むのです。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)
(引用「聖書新共同訳」©日本聖書協会)