ヨハネによる福音書13章31-35節「神は愛です」
2026年4月26日
牧師 武石晃正
復活節第4主日を迎えました。主イエス・キリストが死の暗闇を打ち破り、三日目によみがえられたイースターの圧倒的な喜びから引き続いて、私たちは復活の主が共におられるという確かさの中を歩んでおります。
大牧者であり羊の門として主イエスが私たちを守ってくださることを覚えては、弱い羊のような私たちはこの方の声を聞き分けます。ご自身の命を懸けて守り導いてくださるキリストの深い慰めを胸に抱きつつ、本日はヨハネによる福音書を中心に「神は愛です」と題して主から賜った掟に心を注ぎましょう。
1.あなたがたも互いに愛し合いなさい
ヨハネによる福音書13章は主イエスが十字架に架けられる前夜、弟子たちと共にした最後の晩餐の場面です。この食卓で主は手ぬぐいを腰にまとい、弟子たちの汚れた足を自ら洗うという最も低く仕える姿で愛を示されました(13:5)。
その恵みに満ちた空間から一人の弟子が背を向け、イスカリオテのユダは裏切りのため満月がギラギラと照らす夜の都へと出て行きました(30)。「さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた」(31)と、主イエスは残された弟子たちに向かって語り始められます。
「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった」(31)と語られた時、弟子たちは彼らの主が明日にでもイスラエルの王となることを期待したでしょう。ところが愛する弟子の裏切りという人間的な目で見れば完全な絶望と敗北のどん底において、主イエスは「今や、栄光を受けた」と宣言されたことです。
ここで主イエスが語る「栄光」とは、ご自身の命を十字架に捧げ尽くすことによって全うされる神の底知れぬ愛の現れのことでありました。その十字架の栄光すなわちご自身の死を見据えながら、主は弟子たちに「あなたがたに新しい掟を与える」(34)と大切な掟を授けられたのです。
「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(34)と、主は重ねて「互いに愛し合いなさい」と命じておられます。この主の言葉を私たちの現代の歩みの中でどのように受け止め生きるべきかを掘り下げてみましょう。
まず私たちはこの「互いに」という言葉について、無意識のうちにも人間社会の常識である「お互い様」の関係性を思い浮かべるのではないでしょうか。「相手がよくしてくれたから、私もよくする」「お世話になったその人へ直接にお返しをする」という関係です。
この世の社会ではこのような等価交換のルールが成り立っており、何かをもらえば同等のものを返さなければならないという義務感が生じます。人間関係においてさえ私たちは知らず知らずのうちに「貸し借り」の計算をしていることでしょう。
自分がこれだけ尽くしたのだから相手も同じように感謝してくれるはずだという見返りを期待し、それが裏切られたときには深い落胆や怒りあるいは徒労感を覚えるわけです。これらは私たちの弱さであり、逃れられない現実の一面だと言えます。
しかし主イエスがここで命じておられる「互いに愛し合う」こととは、決してそのような「お返し」を求め合う息苦しい関係のことではないのです。このことを踏み込んで理解するために、ルカによる福音書14章のお言葉に照らしましょう。
そこでは「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親戚も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかもしれないからである」(ルカ14:12)と語られています。むしろ貧しい人たちを招くことで「そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いである」(ルカ14:14)というのです。
お返しができる人を招く関係は一見すると美しい「お互い様」のようですが、結局は自分たちの小さな輪の中だけで利益や親切を回しているに過ぎないわけです。そこには常に関係性の重圧が伴うばかりか愛の行いが内部で還流するばかりなので、ともすれば独善的で閉鎖的な交わりが成り立ってしまうでしょう。
主の弟子たちが命じられた愛とは相手からの直接的なお返しを期待せず、お返しができない状況にある人に惜しみなく力を与え、手を差し伸べることです。これは私たちの日常で使われる「困ったときはお互い様」という言葉に通じる部分もあるでしょう。
世の中ではこの言葉に「今は私があなたを助けるから、私が困ったときはあなたが助けてね」という将来の相互扶助への期待を含んでいるとしても、キリストの十字架の愛を知った私たちにとっての「お互い様」はその意味を根底から覆すものです。キリストの掟を守る者が困っている誰かを見かけたときに惜しまずに力を与えるのは、将来その人から恩を返してもらうためではないからです。
「わたしがあなたがたを愛したように」(34)と主イエスが言われる愛とは、私たちが最も困り果て自分の罪の重荷と孤独の中で滅びるしかなかった時に主ご自身が十字架にかかって身代わりとなってくださった愛なのです。主は一方的に私たちを助け、ご自身の命すらも惜しまずに与えてくださいました。
同じように私たちが他者を助けるのは未来の見返りを期待しての投資ではなく、過去にキリストから受けた圧倒的な恵みに対する感謝の思いが溢れ出るものなのです。言い換えればキリスト者が誰かに向ける愛は相手から引き出されるものでなく、すでに主イエスから受け取った溢れるほどの恵みを他者へと注ぎ出していくものであります。
自分を世話してくれた相手へ直接にお返しをするのではなく、助けを必要としている全く別の人へとその愛の力を惜しみなく与え流していくのです。これこそが主イエスが「あなたがたも互いに愛し合いなさい」と命じられた「新しい掟」の真意です。
2.恐れを締め出し神の内にとどまる
現実の生活において見返りを求めずに他者を愛し惜しみなく力を与え続けることは、私たち人間の力だけでは到底不可能なことであります。私たちは羊のように弱い存在であり、職場や人間関係における悩みや将来への不安などの「狼」に取り囲まれると自分の身を守ることだけで精一杯になってしまいます。
自分の心が枯れ果てているときに、どうして他者に愛を流すことができるでしょうか。だからこそ私たちは自らの道徳的な努力で愛そうとするのではなく、すでに私たちに注がれている「神の愛」の源に立ち返る必要があるのです。
手がかりとしてヨハネの手紙一を開いてみましょう。4章には「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます」(ヨハネ一4:16)と記されています。
神は愛という感情を持っておられるだけでなく、その存在そのものが「愛」なのです。そして驚くべきことにその愛なる神が、弱くすぐに自己中心的になってしまう私たちの「内にとどまってくださる」と宣言されています。
キリスト者が誰かを愛することができるのは、私たちが立派だからでも心の余裕があるからでもないのです。「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」(ヨハネ一4:19)とヨハネは明らかにしています。
無条件の神の愛がまず私たちをすっぽりと包み込み満たしてくださっているからこそ、その溢れ出た恵みのしたたりを私たちは隣人へと注ぐことができるのです。そればかりかヨハネはこの愛の力強さについて「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します」(1ヨハネ4:18)と記しています。
お返しを期待する世俗的な愛には「相手が感謝してくれなかったらどうしよう」「自分の親切が利用されただけで終わってしまうのではないか」という恐れが常に伴います。ときには「自分ばかりが損をしている」という不満感が生じることもあるものです。
それに対して主イエスの掟である愛は十字架から溢れ注がれる愛です。神がまず私を徹底的に愛して受け入れてくださったので、絶対的な安心感に基づく愛があるのです。
ですからたとえ見返りがなくても人から評価されなくても、キリストから私たちに与えられた愛には恐れることが全く無用です。こうして主イエスの完全な愛が私たちの心からこの世的な恐れや計算高さをすべて締め出してくださいます。
その上で聖書は「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません」(ヨハネ一4:20)と一つの戒めを私たちに与えます。私たちの身近にいる助けを必要としている一人に手を差し伸べること、それが神の愛に対する具体的な応答だからです。
米子教会は本日この礼拝の後に定期教会総会が招集されますが、この総会もまた単なる事務的な会議や報告の場ではないのです。総会は私たちが教会として見返りを求めることのないキリストの愛に根ざし、どのように「互いに愛し合い」仕え合うかを確かにする愛の実践の場でもあります。
一人ひとりがキリストから受けた恵みを「困ったときはお互い様」と惜しみなく分け合うことで、その恵みは教会から溢れて地域へと注がれることでしょう。そのような損得勘定のない交わりが実現してこそ、主イエスの掟のとおり「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(35)のです。
<結び>
「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。」(ヨハネ一4:16)
主イエスが与えられた「互いに愛し合いなさい」という新しい掟は見返りを求める世俗的な愛とは全く異なります。それは罪のどん底にいた私たちをご自分の命を捨ててまで愛してくださったキリストの一方的な十字架の恵みに根ざす愛だからです。
主が私たちを愛してくださった完全な愛が私たちの心の内から計算高さや恐れを締め出すので、私たちは主から受けた愛を隣人へと豊かに注ぎます。こうして「あなたがたも互いに愛し合いなさい」との愛の掟が実践され、「神は愛です」と口で告白する私たちの信仰がキリストの弟子であることの確かな証しとなるのです。
「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13:35)
(引用「聖書新共同訳」©日本聖書協会)