ヨハネによる福音書17章1-13節「わたしはみもとに参ります」

 2026年5月17日
牧師 武石晃正

 日野川の豊かな流れが大地を潤し、平地ばかりでなく山間に至るまで田植えの様子が広がっています。植え付けるまでにも心得のない者から見れば気が遠くなるほどの働きが積まれていることを覚えます。
 当然ながら植え付けて終わりなのではなく、そこからさらに多くの苦労が重ねられた先に豊かな実りと収穫が待ち望まれるのです。救いの恵みは田植えに似たところがありまして、主なる神が信仰という苗を私たちの内に植え付けてくださるところから始まります。

 ただキリストを信じる信仰によって救いの恵みをいただいただけでなく、信仰者はそこから豊かに実を結び、来るべき日の収穫を待つのです。本日はヨハネによる福音書を中心に「わたしはみもとに参ります」と題し、初穂であるキリストの復活と再臨の希望を確かめましょう。

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1.御父のみもとへ帰るキリスト

 復活されてからの40日間、イエス・キリストは弟子たちに姿を現して神の国について語られました(使徒1:3)。そして弟子たちが見つめる中で、オリーブ山から天へと昇っていかれました(同9)。
 本日は復活節第7主日として間近に迫るペンテコステを覚えつつ、聖霊降臨を待ち望む思いを携えて礼拝を捧げています。この礼拝において私たちはヨハネによる福音書17章より主が十字架にかかられる前夜、弟子たちと共にされた最後の晩餐の席で捧げられた「大祭司の祈り」に思いを寄せるところです。

 この祈りの中で主はこれから起こるご自身の受難と死、復活、そして天へ帰るために挙げられることを御父の前に数え上げながら告白しています。そして天を仰いで「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります」(ヨハネ17:11)と弟子たちの耳にも届くように祈られました。
 短くも力強い言葉には、私たちの信仰の根本的な真理が込められています。キリストが天のみもとに帰られるということは決して地上での使命から逃げ出すことでもなければ、弟子たちを置き去りにすることでもないのです。

 そこにあるのは「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を」(5)という願いです。キリストがもともと天から遣わされたまことの神の御子であることが全世界に向けて明らかにされるためでした。
 主は暗闇に覆われたこの世に命の光として来られ、父なる神から委ねられた救いの業を十字架と復活によって成し遂げられました。そして天に昇られることによってこの方が天から遣わされたことが明らかになり、いよいよキリストの救いが全うされたのです。

 とはいえ師であり主である方が天に昇られるということは、地上に残される弟子たちにとって大きな不安と恐れを伴うものには違いないのです。主はその弟子たちの弱さや恐れを深くご存じでしたので、だからこそ御父のもとへ帰られるにあたってこれほどまで力強く執り成しの祈りをしてくださいました。
 弟子たちのために執り成す祈りの中で「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(3)と主イエスは「永遠の命」について明かされました。キリストが天に昇られることによって、神の霊すなわち聖霊がすべての信徒に永遠の命の確かな約束として豊かに注がれることになります。

 目に見える形でのキリストは地上を去られましたが、代わりに時間や空間の制約を一切受けない聖霊が送られてキリスト者の内に永遠に留まってくださるのです。のちに使徒パウロもまた「御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるように」(エフェソ1:17)と祈り、教会のために執り成しています。
 確かに十字架の死と3日目のよみがえりによってキリストの贖いの業は成し遂げられましたが、それは今から2000年も昔に起こった単なる出来事ではなかったのです。御子イエスが天に昇られたことによって、たとえ今はキリストが目の前におられなくとも聖霊なる神が私たちとおられるようになり、主は教会へ永遠の命に生きる希望と確信をお与えになりました。


2.御名により一つとされる教会

 聖霊は単なる概念や気分ではなく、生きた神の力そのものです。聖霊が与えられるとき人間の閉ざされた心の目は開かれ、神がどれほど豊かな栄光を私たちに用意してくださっているかを知ることができるようになります。
 御子であるキリストが御父のもとへと帰られる一方で、弟子たちはこの地上の世界に残されます。11節にある「彼らは世に残りますが」という言葉は、12人の弟子たちばかりでなくすべてのキリスト者が置かれている現在の状態をも言い得ています。

 世界中に争いが絶えずあり、人々は痛み苦しみを味わい、キリストに結ばれた者たちは信仰を揺るがそうとする様々な力がに囲まれています。主イエスが「わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました」(14)とおっしゃるように、私たちが御言葉に従って歩もうとするならば必ずこの世においては摩擦や困難が待ち受けているのです。
 厳しい現実を弟子たちが通らなければならないことを十二分にご存じなので、主は残される者たちのため懇ろに祈られました。「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください」(11)との一言の内に主イエスの私たちに対する深い御愛が示されます。

 「御名によって」私たちを守ってくださるのですから、幼子が親にすがりつくように私たちは主なる神の御名に寄り頼む必要があります。口先だけの決まり文句や験(げん)担ぎのように主の名前を唱えるようなことではなく、天地を造られた全能の神の権威と力に自分の生き方そのものを完全に委ねるということです。
 「主の祈り」において「御名をあがめさせ給え」と祈るようにと主イエスが教えてくださったのも、私たちが御名によって守っていただくためでした。そして私たちが祈りのたびに「主イエス・キリストの御名によって祈ります」と捧げることもまた、私たちの日々の生活全体が主の御名に寄り頼むものとされていることの告白であり証しであります。

 御父から与えられたキリストの御名がどれほど絶対的な力を持っているか、使徒パウロはエフェソの信徒への手紙の中で次のように書き表しています。神は、復活したキリストを天の右の座に着かせ、「すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました」(エフェソ1:21)。
 いかに強い力や大きな権威と呼ばれるものがこの世にあったとしても、それらは時代が経てば必ず弱くなり過ぎ去っていく一時的なものです。今の世でどれほど力を誇っていても時代が過ぎてしまえば、ましてや来るべき世においては何の意味も持たないのです。

 死をも打ち破られたキリストの御名だけは今の時代においてのみならず、来るべき世においてもすべての名にまさるものです。これほどまで絶対的な御名によって守られているのだからこそ、キリストと結ばれた者たちはどのような状況にあっても恐れることなく大胆に歩むことができるのです。
 また主は弟子たちが御名によって守られることだけを願われただけでなく、さらに「わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」(ヨハネ17:11)と祈られました。キリストの弟子とされた私たちが世の力から守られるのは、それぞれが散り散りになって安全な場所に逃げ込んだり自分だけで救いを喜んだりするためではないからです。

 父と子が愛によって完全に一つであるように、信徒たちもまたキリストの愛によって一つの群れとされるのです。これがキリストの体である「教会」の真の姿であり、そのために主なる神が聖霊を天から遣わされました。
 キリストの御名による支配とその体である教会における不思議な関係についてパウロは「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました」(エフェソ1:22)と述べています。「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」(エフェソ1:23)との壮大で途方もない宣言を耳にして、私たちは教会が単なる人間の集まりではないことをわきまえ知るところです。

 旧約においてイスラエルの民へ幕屋を造れと命じられた全能の神がかつてその荒れ野の聖所に満ちてくださったように、今はキリストの体である「教会」に神の恵みと力が隅々まで満たされています。教会は人間が作り出したこの世の組織や同好会のような集まりなどではなく、宇宙のすべてを支配しすべてを満たすキリストがその満ちあふれる命を注ぎ込んでいる霊的な共同体なのです。
 執り成しの祈りの内に主イエスは「わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです」(ヨハネ17:13)と語られました。この祈りの言葉のとおり主は御父のみもとへ昇られた後に永遠の命の約束としての聖霊をお与えになり、父と子と聖霊の御名によって今もご自分の民を守っておられます。

 このようにしてキリストに結ばれた私たちは互いに一つに結び合わされ、この世の喜びではなく天にある喜びをこの地上で分かち合うのです。そして主が再び来られる日まで、教会はキリストの体として主の復活と再臨を告げ知らせます。


<結び>

 「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(エフェソ1:23)

 主イエス・キリストが御父のもとへと帰られたのは、救いの御業を全うし全地を支配する神の御子としての栄光を現すためでした。地上に残されている私たちはあらゆる名にまさるキリストの御名によって守られ、聖霊によって主の愛のうちに一つとされています。
 天の喜びで満たされるようキリストご自身が執り成してくださるのですから、キリストの体である教会は主の復活と再臨の希望を告げ知らせます。主ご自身が葬りの後によみがえり御父のみもとへ帰ることを喜びとされたように、「わたしはみもとへ参ります」と祈られたキリストにすがる私たちは再臨の日に栄光の体に変えられることを待ち望みます。

 「しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。」(ヨハネ17:13)


(引用「聖書新共同訳」©日本聖書協会)


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