使徒言行録2章1-13節「聖霊に満たされ」

2026年5月24日
牧師 武石晃正

 ペンテコステおめでとうございます。ペンテコステは十字架と復活の主イエスが天に昇られた後、地上に残された弟子たちへ約束どおり聖霊をお与えになったことの記念日です。

 日本では田植えが終わる頃に冬小麦の収穫を迎えるように、聖書の時代にも五旬祭ともよばれるペンテコステの時期はパン種を入れて焼いた小麦のパンで収穫を喜ぶものでした。キリストの体としての「教会」という共同体が地上に産声を上げた記念日を祝いつつ、本日は使徒言行録を中心に「聖霊に満たされ」と題して救いの恵みと喜びを味わいましょう。

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1.教会に吹き込まれた神の霊

 使徒言行録1章を振り返りますと、十字架にかかり復活された主イエスは40日にわたって弟子たちへ神の国について語られました。しかし天に昇られようとしている主を前にして、弟子たちは「イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」(1:6)と、依然として目に見える現世的な王国の復興を期待して気がはやっておりました。
 これに対し主イエスは時や時期は父なる神の権威にあるとした上で、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」(1:8)と約束されました。主は地上における政治的な支配の回復ではなく、聖霊の降臨による内面からの真の「神の国」の到来を約束されたのです。

 昇天からペンテコステまでの約10日間、弟子たちはいつ約束が成就するのか具体的な時期を知らないままエルサレムにある家の上の部屋で心を合わせてひたすらに祈りつつ待ち望みました(1:13)。この人間の計画を捨ててただ神の介入を信じて待つという姿勢は、現代の私たちが主の再臨を待ち望みつつ生きる歩みの原型となっています。
 いよいよ「五旬祭の日が来て」(2;1)と記されるこの日は、ユダヤの三大祭りの一つである「七週祭」にあたります(申16:16)。過越祭から7週間が過ぎて50日目にあたるため、ギリシア語ではこの祭を五旬祭すなわちペンテコステと呼んでいます。

 「過越祭と言われている除酵祭」(ルカ22:1)は大麦の収穫の時期である一方、五旬祭すなわち「七週祭」には小麦の収穫を迎えます(出34:22)。種なしパンを食べる期間から50日が経過し、日常生活に戻って新しいパン種が十分に発酵した頃合いでふっくらと焼いた新しい小麦のパンを捧げる五旬祭に至るのです。
 パン種で膨らませて焼いた香ばしい小麦のパンをもって収穫を喜ぶとともに、五旬祭は出エジプトの出来事を記念する祭でもありました。それはシナイ山で主なる神から律法を授かったこと(出19:1-13)を覚えて胸に刻むという極めて重要な意味を持っていました。

 旧約の時代においてはシナイ山の上で石の板に律法が刻まれましたが、新約のペンテコステの日にはシオンの山と呼ばれるエルサレムにおいて弟子たちの心に直接聖霊が与えられたのです。一同が一つになって祈っていると「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ」(2)、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」(3)という不思議な出来事が起こりました。
 ここで「霊」を意味する言葉は、同時に「風」や「息」をも意味します。風というものは人間の力では完全に支配することができないように、聖霊の働きも人間の意志や知恵を超えた圧倒的な力を発揮するのです。

 驚くべきことに、皆が聖霊に満たされると弟子たちは各々に「ほかの国々の言葉で話しだした」(4)というのです。実にこの「舌」と訳されている語は英語のtongueもそうであるように「言語」という意味しており、「分かれ分かれに」つまり話すことができる言語が一人ひとりそれぞれに与えられたことを表しています。
 普段は訛りの強い言葉を話すガリラヤの弟子たちです。そのような彼らが人間の熱意や恍惚状態によってではなく炎のような舌として現れた神の霊によって、ローマ世界各地から集まっていた人々の故郷の言葉(4,8)で主なる神の偉大な業を語り始めました。

 創世記に記されている大昔の出来事として、バベルの塔において高慢になった人間に神が報われたことで人類の言語がばらばらに散らされたということがありました(創11:1-9)。言葉とともに世界中に散らされた人類でありましたが、なんとペンテコステの日にはキリストの贖いと聖霊の力によって世界中の言葉が一つの場所で語りはじめられたのです。
 ばらばらにされた人類が再び一つに結び合わされるという全く正反対のことが、キリストの名によって集められた者たちへ降った聖霊によって起ころうとしたのです。これは教会の福音が地の果てに至るまで伝えられようとする宣教の働きの産声でした(9-11)。


2.聖霊に満たされ地の果てにまで

 主イエスが処刑された直後の弟子たちは家の戸に鍵をかけ、迫害を恐れて身を潜めていました(ヨハネ20:19)。本来であれば故郷のガリラヤに退いて隠れているべき状況ですが、聖霊によって力を受けた弟子たちはまさに生まれ変わったようでありました。
 彼らの主を捕らえて死刑に定めた最高議会の膝元であるエルサレムの街中で人々の前に立つことなど、本来であれば彼らにとって考えられることではないはずです。これは人間の意志力によってなせるものではありませんから、実に真理の霊が彼らを弱さの中から立ち上がらせたことであります。

 騒ぎを聞きつけて集まった人々に向け、ペトロが立ち上がって語り始めます(14)。その説教を聞いて心を打たれた人々が悔い改め、洗礼を受けたことからそこに教会が産声をあげることになります(41)。
 聖霊によって形作られた教会は皆が一つになって生活を共に支え合いました。洗礼によって弟子に加えられた者たちは喜びと真心をもってパンを裂くことで主イエスが今も共におられることを世に示すことになります(43-47)。

 パンと杯による聖餐はただ単に主イエスを偲ぶという人間的な記念会ではなく、聖霊が教会に満ちていることによって主ご自身がこの場におられることを証しします。教会の交わりの内に主がおられるのですから、キリストの救いを受けた者たちが信仰による交わりに加えられることで継続的なきよめの恵みにあずかることを信じます。
 このように聖霊によって誕生し押し広げられていく教会によって、かつて主イエスが説かれた「神の国はあなたたちのところに来ているのだ」とのお言葉が実現していきます。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる」(マタイ13:33)と言われたとおり、神の国は全世界へと広がり膨らむのです。

 天から与えられた聖霊によって力強く神の国が前進することについて、主イエスはあらかじめ弟子たちへ他にも2つのたとえをもって明かされておりました(マルコ4:26以下)。一つは成長する種のたとえであり、種が土の中でひとりでに芽を出し成長するように神の国もまた人間の努力が及ばない神の主権によって大きく膨らむのです。
 私たちは自らの信仰について脆くて不格好な土くれに過ぎないように感じては落胆したくなることもあるでしょう。ところが内側に神の国の力である「種」が隠されていること自体が決定的な違いをもたらすのですから、たとえ小さかろうと弱かろうと信仰を持っていることが何よりも大切なのです。

 もう一つのたとえにあるからし種が示すように、「家の上の部屋」にいた小さな祈りの群れは「成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る」(マルコ4:32)ことになりました。この成長した教会の枝は自分たちに都合の良い似た者だけを集めただけでなく、それまで神の国を妨げていた者や迫害者をもその陰に宿すことができるほどに大きな恵みで満たされました。
 神の敵であった者をも包み込む豊かな慈しみをもってすべての人を招き、聖霊はキリストの体という「ぶどうの木」の枝に結び付けてくださいます。そして一つの神の家族とされた教会の歩みは人間の意欲やこの世的な力や実績によるのではなく、ただ聖霊の力に自らを完全に委ねることで広がり進んでゆくのです。

 信仰者であっても人生において深い孤独や理不尽な困難に直面することがあります。使徒でさえ「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」(コリント二4:8-9)というほどの局面に遭うことを度重ねたからです。
 今日ペンテコステに臨み、地上における主イエスの最後の約束を振り返りましょう。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒1:8)との約束は、実に地の果てである極東のこの日本においても真実です。

 主が力と呼ばれた聖霊が与えられているからこそ、私たちが希望を失うことはないのです。たとえ外なる人は衰えていくとしても、内に住まわれる聖霊によって日々新たにされていく内なる人を主キリストが復活の力と永遠の命によって生かしてくださいます。
 後に弟子たちはエルサレムの神殿やユダヤの最高議会の真ん中へと大胆に姿を現しました。そして人々が十字架につけたイエスを神が主となさったこと、そしてこの名のほかに救いはないことをはっきりと宣言する証人へと作り変えられたのです(3-4章)。

 現代にも聖書の言葉を信じることや主の日ごとに礼拝を守るキリスト者たちを見て、道楽や酔狂であるかのようにあざける者もいるでしょう(13)。しかし聖霊の豊かな恵みと導きを受けた教会は与えられた各々の言葉によって、今日も偉大な神のみわざを告げ知らせます。


<結び>

 「また、イエスは言われた。『神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。』」(マルコ4:26-27)

 世界で最初のペンテコステの日、弟子たちに聖霊が降ると彼らは各国の言葉で神の偉大な御業を語り始めました。キリストの贖いと聖霊の力によって一つに結ばれ、世界宣教の歩みが始まったのです。
 弟子たちは聖霊に満たされて大胆な主の証人へと生まれ変わりました。キリストの復活の恵みをいただいた私たちもまた、聖霊に満たされ内に働く力によって神の救いを告げ知らせる者としてそれぞれの場所へと遣わされます。

 「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒2:4)


(引用「聖書新共同訳」©日本聖書協会)


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