ヨハネによる福音書15章1-11節「豊かに実を結ぶ」

2026年5月3日
牧師 武石晃正

 復活節第5主日と教会暦で数えておりますが、この復活節とはキリストの復活を祝うイースターを起点としてペンテコステに至る50日の期間です。旧約の律法の書に照らすと民の贖いである過越祭から御言葉が与えられたことを覚える七週祭までの期間に重なります。
 新年度を迎えて5週目でもあり、私たち米子教会は先週の主日礼拝の後に定期教会総会を主の前に捧げたところです。主に結ばれて一つとされた教会として私たち一人ひとりの歩みが確かなものとなるように、本日はヨハネによる福音書を開きつつ「豊かに実を結ぶ」と題して御言葉の恵みに浴しましょう。

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1.豊かな実りと聖化

 聖書の巻末に収められている略地図を開きますと、主イエス・キリストが歩まれた地が示されています。いわゆるパレスチナと呼ばれるその地域は旧約の時代から現代に至るまで国や民族の間での争いが絶えず、憎しみと悲しみが渦巻く場所です。
 連日のように報じられる国際情勢のニュースを見るにつけ、人間の抱える罪の深さと真の平和への道のりの険しさを痛感するばかりです。しかし神の御子はそのような争いの真っただ中に生身の人間として来られました。

 人となられた神はこの世において最も暗く、最も痛みの多い場所に身を置かれたのです。そこで神の国の福音を語り、罪のない方が十字架への道を進まれたのです。
 朗読の箇所は主イエスが十字架に架けられる直前、弟子たちと共にされた過越の食事の場面です。迫り来る裏切りと死の影の中で、主イエスはご自身と後に残される信仰者たちとの決定的な結びつきについて「ぶどうの木と枝」のたとえをもって教えられました。

 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」(1)との短い宣言の中に信仰生活における極めて重要な真理が隠されています。ここで私たちはついぶどうの木の「枝」の状態やどれほど立派な実をつけるのかという成果のほうに気を取られがちですが、主がここで中心に置かれているのは「農夫」すなわちぶどう園の全体を管理する者である父なる神の絶対的な権威です。

 ぶどうの木という台木もそこに接ぎ木されている枝も、すべては農夫の所有物です。農夫はどの枝を取り除きどの枝を残すか、栽培におけるすべての権能を握っています。
 2節には「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」と記されています。「手入れをする」と訳されている言葉にはただ不要なものを切り落とすために「剪定する」という意味だけでなく、「清める」という意味が含まれています。

 果樹を育てた経験のある方ならお分かりのように、冬の間に枝を切り詰める剪定作業は一見すると木を傷つけ、丸裸にしてしまう厳しい行為に見えます。枝の側から見れば、それは身を切られるような痛みを伴う喪失体験です。
 しかし、農夫は春に芽吹く花芽を見極めています。最も豊かに実を結ばせるために、愛と確かな知識をもってその刃を入れているのです。

 主は弟子たちに「わたしの語った言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」(3)と告げられました。キリストの教えと導きの下にある者は、すでに農夫の手によって「手入れされ」「清められた」状態にあります。
 キリストを信じて救われた者であっても日々の歩みの中には必ずしも嬉しいことや楽しいことばかりではなく、時に痛みを伴うような切り詰められる思いを経験することがあります。深い孤独あるいは思いがけない理不尽な困難といった試練に直面することは一度や二度ではないはずです。

 しかしそれらは決して神に見放された結果でもなければ単なる不条理でもなく、神の恵みを深く味わうために私の生き方から「実を結ばない枝」が取り除かれる過程でもあります。さらに豊かに実を結ぶためにまことの農夫である父なる神が愛をもって手入れをしてくださっているのです。
 ホーリネスの信仰ではこれらの厳しい経験の中に「清め」すなわち「聖化」の恵みを見出します。農夫の圧倒的な権威と愛の下にあるとき、すべての試練は豊かな実りのための準備へと変えられることを私たちは信じます。


2.喜びが満たされるため

 清められた枝が実を結ぶために、主イエスはただ一つのことを命じておられます。それが「わたしにつながっていなさい」(4)ということです。
 このつながりについて5節では「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と主ご自身が御父の手の内にあるぶどうの木になぞらえて語られます。そして「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」と表現されているつながりとは、一時的な接触や表面的な関係性のことではないのです。

 「つながって」と訳されている言葉は元をたどると「留まり続ける」という意味をもっています。植物の接ぎ木というたとえに沿って考えるならば、台木と枝が結び合わされるとやがてどこからが幹でどこからが枝であるか見分けがつかないほど完全に一体化する様子を指しています。
 境目の区別がつかないほどにしっかりと癒合している状態こそ主イエスが弟子たちに求めておられた「つながっている」という状態です。なぜなら枝は自らの力で水分や養分を作り出すことはできないからです。

 枝はただ台木である幹にしっかりと留まり続けることによってのみ、幹の奥底から汲み上げられた命の源である水を吸い上げることができます。この「つながっている」という状態をより具体的に実践における意味に解き明かしているのが、使徒ペトロの手紙です。
 ペトロの手紙一の2章を開きますと「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです」(ペトロ一2:2)と記されています。ぶどうの木であるキリストにつながっている状態とは、まさにこの「純粋な霊の乳」を絶えず飲み続けている状態を指しています。

 人間は自らの道徳的な行いや修行によって立派な実を結んだり救いを獲得したりすることはできませんので、実に救いとは神から与えられる無料の贈り物なのです。キリストという命の幹に結び合わされ、そこから代価なしに流れ込んでくる恵みを養分として私たちの魂は生かされます。
 すなわち聖霊と神の御言葉を乳飲み子のようにただひたすらに飲み続けることによってのみ、信仰者は成長し「自分の救いを達成する」(フィリピ2:12)のです。更に理解を深めるならば、この命の繋がりは個人の内面にとどまるものではないことに気づくでしょう。

 幹であるキリストはその体である教会を通して豊かな養分を隅々にまで行き渡らせています。宗派という大枝があり、教派や教団へと分かれては各個教会という小枝の一つひとつへと至ります。
 稀にひこばえや胴吹きと呼ばれるように根元や幹から直接に若い枝葉が伸びるものがあるとしても、本来であれば枝というものは幹から次第に分かれて発達するものです。太い枝から隅々まで伸びる中で一人ひとりへと枝分かれし、全体として一本のまことのぶどうの木として深く結び合わされているのです。

 このようにしてキリストに繋がり霊の乳を飲んで成長するならば、元は罪人であり死に定められていた私たちの存在そのものが劇的に変化します。大いなるこの不思議な恵みについてペトロは「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。(中略)あなたがたは、『かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている』のです」(ペトロ一2:9-10)と宣言しています。
 かつては神の民でもありませんでしたから、私たちは「ぶどうの木」から切り離された枯れ枝に過ぎない者でした。しかしキリストの十字架と復活の恵みによって台木に接ぎ木され、霊の乳で養育されている今、「選ばれた民」「神のものとなった民」という決して揺らぐことのない新しい身分が与えられているのです。

 福音書に戻りますと主イエスは「わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」(15:9-10)と語られています。キリストの愛に留まり続けること、それが枝として生きるための唯一の掟です。
 どのような境遇に置かれようともキリストという命の幹にしっかりと繋がり霊の乳を飲んで成長していくならば、農夫である神は必ずその枝を通して豊かに実を結ばせてご自身の栄光を現されるのです。そして主は「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」(11)と説かれ、使徒たちから始まってご自分を信じるすべての者たちをこの喜びへと招いておられます。

 もはや私たちは暗闇をさまよう者ではなく神のものとなった民であり、御子イエス・キリストというぶどうの木に接ぎ木されて豊かに実を結ぶ枝とされました。復活の主から流れ出る混じりけのない霊の乳を日々飲みながら歩みを進め、与えられたそれぞれの場所へと枝が延ばされて私たちもまた使徒たちのように豊かに実を結びます。


<結び>

 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネ15:5)

 主イエスはご自身を「ぶどうの木」、父なる神を「農夫」にたとえられました。枝が豊かに実を結ぶために農夫が枝に対して行う手入れ(剪定)は私たちにとって苦難を伴う試練ですが、御父は聖化の恵みとして実を結ばない枝を取り除いてくださいます。
 枝である私たちが豊かに実を結ぶためにはぶどうの木であるキリストに繋がり、混じりけのない霊の乳すなわち御言葉を飲み続けることが不可欠です。神のものとされた民として主の愛に留まり、豊かに実を結ぶ私たちはキリストの喜びで満たされて歩みましょう。

 「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。」(ペトロ一2:9)


(引用「聖書新共同訳」©日本聖書協会)


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