マタイによる福音書17章1-13節「キリストの力と来臨」
2025年3月30日
宇都宮上町教会主日礼拝
「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか」(イザヤ43:19)と年間聖句を掲げて私たち宇都宮上町教会が歩み始めたのは2020年度、史上初の緊急事態宣言が発令された5年前のことでした。「芽生えている」と言われた「新しいこと」を植え替えた樹木になぞらえますと、土壌が良ければ5年も経つと根を張り枝も張るものです。
2024年度は年間聖句に「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない」(マタイ5:14)を掲げて、本日が今年度最後の主日を迎えております。ある方が「隠れることができないとはどういう意味でしょうか」とおっしゃいましたが、「神の家から裁きが始まる時」(ペトロ一4:17)に教会が逃げも隠れもできないことを覚えます。
礼拝の中で「御子は我ら罪人の救ひのために人と成り、十字架にかかり、ひとたび己を全き犠牲として神にささげ、我らの贖ひとなりたまへり」(日本基督教団信仰告白)と信仰告白をしたところです。本日は受難節第4主日にあたりマタイによる福音書を開き、「キリストの力と来臨」と題してキリストの栄光と受難について思いを向けましょう。
(引用は「聖書 新共同訳」を使用)
1.人の子がその国と共に来るのを見る
初めに先週の朗読箇所の中でのお尋ねがありましたので、その部分から取り扱って参りましょう。16章の最後、26節にあります主イエスのお言葉「ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる」についてです。
元の言語の文章を確認しますと否定の副詞と否定の助詞が重なっているので「決して~しない」という強い否定であることが分かります。「死なない者」と訳されている部分を丁寧に訳すと「死を味わうことがない者たち」と複数形で記されています。
したがって主イエスは弟子たちのうち誰かを指して「死なない」と言われたのではないようです。「人の子がその国と共に来る」という特定の出来事に際して生きながらに目の当たりにする者たちが備えられていることを指していると言えましょう。
「その国」とは統治や支配という意味の語が用いられており、マルコによる福音書では「神の国が力にあふれて現れるのを見るまで」(マルコ9:1)との言い回しがなされております。そして神の国について主イエスは12章で「あなたたちのところに来ているのだ」(12:28)とも言われておりますので、少なくとも12人の弟子たちは既に「人の子がその国と共に来る」のを見たことになります。
つまり終末的な出来事というよりも主なる神による救いの力が明らかされる場面が幾たびか(幾たびも)あるということになるでしょう。単に弟子たちの誰かが死なないという話ではなく、神の国が力にあふれて現れるのを弟子たちが必ず目撃して生きた証し人となることを主イエスは述べておられます。
使徒パウロが2通の書簡を執筆したのは当然のことながら殉教する前ですので、「決して死なない」と言われているうちに人の子あるいは神の国が力にあふれて現れたのを見てきたことです。その書簡の中で「荘厳な栄光の中から、『これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者』というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです」(ペトロ二1:17-18)と述べ、ペトロは「キリストの威光を目撃した」と証言しています。
聖なる山とはどこのことでしょうか、それはフィリポ・カイサリア地方から登った高い山での出来事です(マタイ17:1)。山の上で荘厳な栄光の中から聞こえた声は父なる神のものであり、ペトロたちは実に「メシア、生ける神の子」とその国の現れを目撃したのです。
「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」(9)と命じられたので、後日になって彼らから聞いたマタイたちが福音書にまとめています。そして教会はキリストの十字架と復活を第一として「人の子がその国と共に来る」ことを証しするのです。
2.キリストの栄光と受難
さて本日の朗読箇所は「六日の後」(1)と始まっており、これは主イエスがご自分の受難について弟子たちに打ち明けられた日から数えております(16:21)。ルカによる福音書では「八日ほど」(ルカ9;28)とありまして、安息日を含めて数えるか否かの違いでしょう。
「ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて」主は山に登られました。この3人はいわゆる内弟子と申しましょうか、特別な時にも主イエスに随行することが許された者たちでした (マルコ5:37-40、マタイ26:37など)。
聖書において証言の確かさについて、特に律法の中で「二人ないし三人の証人の証言によって」(申命19:16)立証されると書かれています。そして主イエスも律法を踏まえて「二人または三人の証人の口によって確定される」(マタイ18:16)とおっしゃいました。
高い山で主イエスが輝くお姿になったことや旧約のモーセとエリヤが現れたのは福音書でもこの場面だけです。不思議な光景そのものは興味を大きく引くものですが、マタイだけでなくマルコもルカも聖なる山での出来事を「人の子がその国と共に来るのを見るまでは(後略)」(16:28)と言われたことに結び付けているのです。
ペトロは16章でも弟子たちの筆頭として扱われており、他方のヤコブとヨハネはどのような者たちだったでしょうか。「決して死なない者がいる」と言われた弟子たちのうち、最も早く殉教した記録があるのはこのヤコブであります(使徒21:1)。
彼の兄弟であるヨハネは最後の使徒として地上に生かされ、福音書のほかに書簡や黙示録を記しています。その福音書で触れられているように、彼は死なないのだと教会の中でうわさされたほどに長生きをしまして(ヨハネ21:23)。
各々に役割があり、使徒言行録においてはペトロとヨハネは後に彼らの主と同じように神殿でいやしのわざを行うことになります(使徒3章)。これは「神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(12:28)と言われた主イエスのわざであり、2人は人の子の栄光と神の国が力をもって臨んでいることを身をもって現したのです。
その高い山と呼ばれるその場所での出来事は、主イエスが弟子たちの目の前で光り輝く姿に変わったことでありました(2)。「顔は太陽のように輝き」とまばゆいばかりでありまして、これは出エジプト記でモーセがシナイ山で主なる神と顔と顔を合わせて語り合ったときのことに重なります(出34:29-39)。
あまりのすばらしさにペトロは「お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう」(4)と口をはさみました。「自分でも何を言っているのか、分からなかった」(ルカ9:33)のはペトロだけでなくヤコブもヨハネも同様でありましょう。
書簡においてペトロが記したように「光り輝く雲」すなわち神の栄光の中から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」との声が響きました(5)。これは弟子たちが人々の噂にまどわされることなく主イエスに対して「あなたはメシア、生ける神の子です」(16:16)と告白した信仰の裏付けとなっています。
山を下りるにあたって主イエスは同行した弟子たちに「今見たことをだれにも話してはならない」(マタイ17:9)と口止めをされました。出エジプト記でモーセが山を下りて神の言葉を人々に語り終えたとき「自分の顔に覆いを掛けた」(出34:33)ことですので、主はお受けになった栄光を自ら覆われたのだと言えるでしょう。
3人の弟子たちは言葉を選びつつ「なぜ、律法学者は」と切り出しながらエリヤについて尋ねました(10)。話を聞き終えて弟子たちは洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟るのですが(13)、「エリヤは既に来たのだ」(12)とのお答えは彼らにとって意外なものでした。
と申しますのも、洗礼者ヨハネを意のままに殺害したのはヘロデ・アグリッパという領主でありました(マルコ6:14-29)。それを主イエスはヨハネを預言者と認めず好きなようにあしらったのは「人々」だったと言っているのです。
都合の良い時には人々は「先生、先生」と言って教師を持ち上げたり担いだりするものです。気に入らなくなると梯子を外すようにヨハネに背を向け、あるいはナザレのイエスについても十字架刑を求めたのでした(12、27:22)。
先駆者であるヨハネの身に起こったことはイエスにも起こるように、キリストが苦しまれたようにその体である教会も苦しむのです。そのことを思いますと、神の言葉を語る者が教会の中である人たちから苦しめられることも不思議ではないでしょう。
「人の子も、そのように人々から苦しめられる」(マタイ17:12)との一言に数日前に告知されたばかりの受難と十字架の色が濃く表されています。私たちの救い主キリストは罪のない神であるのに栄光を捨てて人としてお生まれになり、私たち罪人の身代わりとなって命の代価を支払ってくださいました。
<結び>
「すると、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け』という声が雲の中から聞こえた。」(マタイ17:5)
フィリポ・カイサリア地方の山の上で弟子たち3人は栄光に輝く主イエスのお姿を見ることになりました。しかし主は輝かしい歩みをされるどころか、私たち罪人の命を救うためにご自分の命を十字架上でお捨てになったのです。
キリストは十字架にかけられただけでなく、私たちが受けるべき罵りとあざけりをも苦しみとしてお受けになりました。このキリストの十字架と復活を信じた者たちは主に結ばれて光とされ(エフェソ5:8)、キリストの力と来臨をこの地に告げ知らせるため聖霊に導かれて聖書から神の言葉を語るのです。
「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。」(マタイ5:14)