ヨハネによる福音書11章17-27節「死んでも生きる」

 2025年5月11日
牧師 武石晃正

 

 復活節第4主日、主イエス・キリストの復活を祝うイースターから4週目を迎えました。主は復活の後40日間弟子たちに現れて御国について教えられたことですので(使徒1:3)、私たちもこの時期はことさらに福音書から主イエスの足取りを振り返りましょう。
 また本日は5月第2日曜日、「母の日」として教会ばかりでなく世の中の多くの人々も母に感謝をいたします。日本の法律の上では5月5日に「母に感謝する日」と定めがありますますので、5月は母への感謝を重ねて覚えることであります。

 母マリア、ゼベダイの子らの母、ヨハネ・マルコの母など福音書にも多くの母たちが記されており、主イエスと弟子たちはこれら母たちの支えを受けながら歩んだことです。母から生まれ神と共に歩んだ人々を覚えつつ、本日はヨハネによる福音書を中心に「死んでも生きる」と題して御言葉の恵みにあずかりましょう。


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1.復活であり命であるキリスト

福音書には主イエスが常に伴われた12人の弟子たちのほか、ナザレのイエスと個人的に親しい関係にあった者たちが幾名か記されております。その中でも特別に主が愛されたのはベタニアの一家であり、朗読の個所の少し前には「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」(5)と書かれております。
 ベタニアはエルサレムからほど近く、15スタディオン(18)の隔たりは聖書新共同訳の巻末資料に照らしますと3㎞ほどであります。徒歩で行き交うことができますので巡礼者たちの宿場町としてにぎわったことでしょうし、主イエスとその一行も定宿とされたのでしょう。

 幼少期のイエスについて「両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした」(ルカ2:42)と記されておりますので、ご自分もユダヤの律法に従って都に毎年上ったものと思われます。主イエスとラザロたちが親の代からの付き合いだったとしても不思議のないことです。
 ラザロの危篤の知らせを受けてもベタニアに向かうことができなかったのは、「ユダヤ人たちはまたイエスを捕らえようとした」(10:30)ためにヨルダンの向こう側へ身を潜めていたからでした。都の近くまで足を延ばせばすぐに捕らえられてしまうことは、弟子たちにとって火を見るよりも明らかでした(11:8、16)。

 それでも主イエスは弟子たちに覚悟を決めさせてベタニアへと向かわれたのです。「ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた」(17)ということで、1週間ほど続くユダヤの葬儀ではちょうど中日にあたります。
 大勢の弔問客が集まっていたことから、ラザロも姉妹たちも主イエスのように「神と人とに愛された」者たちであったことが示されます。それでも「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(21)との一言は、主を出迎えたマルタの切実な胸の内を表しています。

 愛する家族や友人が病の床にあるときに私たちも「主よ、もしここにいてくださいましたら」と願ったことは幾たびもあるでしょう。「あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださる」とマルタの告白には、兄弟の死という現実とナザレのイエスに対する信仰との間における深い葛藤がにじみ出ています。
 なぜ祈りが聞かれなかったのか、なぜ主イエスはすぐに来てくれなかったのか、そのような思いが心の内を占めるのです。「わたしは今でも承知しています」(22)と自分に言い聞かせなければ信仰に立つことさえ揺らいでしまいそうです。

 もしも葬儀の場で「あなたの兄弟は復活する」などと遺族に向かって言う人がいようものならば、「気休めを言うな」「場をわきまえよ」と叱られてしまうことでしょう。しかしマルタは神の子メシアに対する希望を手放すことがなかったので、むしろ主イエスが彼女に確信と信仰の告白を与えてくださったのです。
 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(25)と主イエスははっきりと宣言されました。マルタは死んだ兄弟のことで心がいっぱいでしたが、主イエスは「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」(26)と生きている彼女の心に語られたのです。

 それまでマルタは「承知しています」(22)「存じております」(24)と頭では分かっていたことを何とか言葉に出していたのです。「このことを信じるか」(26)と主が招いてくださったので、頭ではなく心で信じて「はい、主よ、(中略)わたしは信じております」(27)とマルタはその口で神の子メシアへの信仰を告白することに至りました。



2.生きていてキリストを信じる

 ある個所で主は「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」(マタイ22:31)と明らかされました。その一方で聖書には苦難の中にある人が「わたしの生まれた日は消えうせよ」(ヨブ3:3)と生きていることを呪う言葉も記されており、主なる神はこのように失意の内にある人の心もすべて知ってくださいます。
 母に感謝することができない、自分が生まれた日を後悔するという方もおられることです。主が憐れんでくださるようにとこれらの方々のために祈ることができるのは、主イエスご自身が友なき者の友となり、また愛する友人の死に際して涙を流し大声で叫ばれた方だからです。

 ところが天地創造において主なる神は人間に善悪の知識の木について「食べると必ず死んでしまう」(創2:17)と宣告されました。そして最初の人アダムがこの戒めを破ったために、「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブライ9:27)のです。
 生まれなければ死ぬこともないのだとすれば、人は死ぬために生まれるのでしょうか。否、人間はキリストに出会い神の愛に生きるため、そして「食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すため」(コリントⅠ10:31)に創られたのです。

 神の息によって生かされていたのに人間は唯一なる神のもとから背いてしまったので、「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない」(創6:3)と肉体の死と霊的な死に定められてしまいました。ですから肉体にどれほど息を吹き込んだとしてもいくらかは日を延ばすことはできても、神の霊をその人にとどめることは不可能なのです。
 生まれなければキリストに出会うことも、神の愛を知ることもできないのです。そして生きていてキリストの愛を知らなければ、人生でどれほど苦労を重ねても死んだらすべてが終わりです。

 主なる神の恵みによって慰められることもなく生きては、私のために死んでくださった方がおられることも知らずに死んでいくのです。だから主は「生きていてわたしを信じる者はだれも」 (ヨハネ11:26)と生きている者を招かれます。
 「決して死ぬことはない」との御言葉も母マリアからお生まれになったイエス・キリストによるのです。私たちは多くの母から生まれた者でありますが、一つの霊によって、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです(コリント一12:13)。

 苦しみや嘆きの中で私たちが「主よ、なぜここにおられないのですか」と問いかけることがあるとしても、主は私たちと共に涙を流され命をかけて愛してくださるお方です。終わりの日の復活の時に復活することを同じように信じているとしても、主イエスがどれほどこの私を愛してくださっているかを知っていることが生き方に現われます。
 イエス・キリストも神の子でありながら私たち罪人の救いとなるために母マリアよりお生まれになりました。母から生まれた者が生きていてこの方を信じるなら、キリストの復活の恵みにあずかって、死んでも生きるのです。



<結び>  

「神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」(コリント一12:3)

 母から生まれた者はすべて肉においても霊においても死に定められておりますが、生きている間にキリストに出会いその十字架の死と復活を信じる者は救われます。洗礼によってキリストと共に葬られキリストと共に復活させられた者は聖霊によって新しく生まれ、新たに造りかえていただいたからです。
 身に降りかかる困難な状況にあって、御言葉を聞いて頭で分かっても心に入ってこないということを信仰者であっても経験することがあります。一度ならず二度三度とラザロの姉妹マルタに語りかけられた主イエス・キリストは、死んでも生きるとの約束を生きていて信じた私たちに今も変わらず与えてくださいます。

 「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。』」(ヨハネ11:25-26)


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