マタイによる福音書5章13-16節「自分の信仰を達成する」
2025年6月29日
牧師 武石晃正
新聞その他の報道にてお聞き及びの方もおられることと存じますが、気象台より中国地方が梅雨明けしたとの発表がありました。随分と早いものだと驚いておりましたところ、6月中の梅雨明けは中国地方でも観測史上初とのことです。
じめじめと長く続く雨は洗濯物が乾きにくいなど不都合を感じるものですが、生活用水や農作物のためにも梅雨は大切な季節です。梅雨が明けたら明けたで日照り続きでは困るとしても、夏は夏らしい十分な日差しがあるので豊かな実りが期待できることでしょう。
梅雨の晴れ間があるように信仰生活においても降る日もあれば照る日もあるわけですが、信仰者はきのうも今日も永遠に変わることのないイエス・キリストに似た者となることを知っています。本日はマタイによる福音書を中心に「自分の信仰を達成する」と題してキリストの救いに迫りましょう。
1.塩は塩、ともし火はともし火として
この箇所における主イエスの教えは「あなたがたは地の塩である」(13)と「あなたがたは世の光である」(14)の2つたとえにかかっています。2つのたとえをもって一つの真理を示す教え方は旧約の箴言などでも見られるもので、ユダヤの伝統的な教え方であります。
塩と申しますと、現代の日本における日常生活では調味料として精製された食塩を指すことが多いでしょう。翻って主イエスの時代のパレスチナで塩と呼ばれるものは、言うなれば掘り出してこられたばかりの岩塩のようなものだったそうです。
調理や食事に際してその塊から「塩気」と呼ばれるもの、つまり私たちが普段「塩」と呼んでいる食塩を削り取って用いるのです。削っていくと終いには「塩気」がなくなって砂や礫の塊となりますから、土や埃のように外に捨てられてしまいます。
この「塩」は「塩味をつける」ために用いられるものであり、使徒パウロはコロサイの信徒への手紙の中で「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい」(コロサイ4:6)と説いています。聖書において「塩味」とは口に心地よい程度の味付けを指しています。
注解書などを開きますと塩には防腐性があるので、キリスト者の存在は世の腐敗を防ぐのだと述べられているものもあります。しかし実際に食塩による防腐性は濃度にして5%以上で一般的な腐敗菌の活動が抑えられ、20%前後以上で繁殖を防ぐとされています。
5%の食塩水は海水よりも塩辛く、20%ともなれば濃口醤油の15%に対して更に食塩を加えるほどの塩分ですから、塩味どころか塩漬けになってしまいます。これでは主イエスが「何によって塩味が付けられよう」(13)と言われた塩味の域を過ぎてしまわないでしょうか。
一方、人間のからだは体重比で約0.9%の食塩を含み、体液では0.3%程度の食塩水に相当するそうです。どちらの数字をとっても1%に満たないわずかな量ですが、食事の味付けにおいてもこの程度が口に快いとされる「塩味」でもあります。
次いで主イエスは「あなたがたは世の光である」と言われており、この光という語もまた私たちが知っている光という電磁波というよりも光を発する照明器具を指しています。油を浸した芯に火をともして明かりとして用いる「ともし火」にたとえられています。
ともし火が周りを適切に照らすには近すぎても遠すぎても具合がよろしくないでしょう。升の下や箱の中に置くことは論外だとしても(15)、いくら高いところだとは言え梁の上においては役に立たないのです。
また「ともし火」の役割は燭台の上に置かれて「家の中のものすべてを照らす」(15)ことです。周りの人に火を点けて自分と同じく光らせよと命じられてはおらず、主の命令はあくまでも「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」(16)ということであります。
主イエスは腐敗を防ぐために世の中を塩漬けにせよとか火をつけて回れとか命じられたのではないのですから、私たちは他人を無理に信仰者へと造り変えようとする必要はないのです。あなた自身が塩であれば塩として塩気を保ち、ともし火であればともし火として輝き続けることにおいて「あなたがたの立派な行い」として主の御心にかなうのです。
2.失格者にならずに信仰を達成する
もし塩が途中から味が変わってしまったり、ともし火の炎が急に大きくなったりくすぶってしまったりすることがあれば、暮らしに役立つものではなくなってしまいます。商品であれば品質が求められるところでありますが、物のたとえを人に当てはめるなら品格とか品性とか呼ばれるものに表れることでありましょう。
店頭に並ぶ商品に不備や不具合があれば消費者から返品されることもありますし、製造元や発売元が回収することもあります。工業製品などの場合は回収されると不具合部分の交換などの是正が施され(新生、聖化)、あるいは修理ができない類のものは廃棄処分とされることでしょう(さばき、永遠の滅び)。
人間をモノになぞらえるのは快いものではありませんが、天地創造において神にかたどって創造された被造物に過ぎないことは事実です(創1:27)。神にかたどられたのに罪によって主なる神との関係が壊れてしまったので、人間にはキリストと結ばれることによって新しく創造される必要があるのです(コリント二5:17)。
キリストを信じた者は神の霊によって新しく生まれ、聖霊と御言葉によってきよめられ造り変えられていくのです。ところがせっかく新たに創り直していただこうというのに、神の御前に出るときまでその良い状態を保つことがなければ台無しになってしまわないでしょうか。
使徒パウロはフィリピの信徒たちへ次のように書き送りました。「わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。」(フィリピ2:12)
この箇所においても「とがめられるところのない清い者」「非のうちどころのない神の子」となる信徒たちが「世にあって星のように輝き」続けることが示されています(同15)。そのためには「いつも」「今はなおさら」従順であるようにと、常に変わらぬ信仰が求められるのです。
そして自分の救いを達成するように努めるということですから、到達点あるいは決勝点が定められている必要があるでしょう。別の箇所でパウロは言葉を変えて「わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません」(コリント一9:26)と述べているところです。
ただしフィリピの信徒への手紙を書いている時点でのパウロには「たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます」(フィリピ2:17)という決勝点が見えていました。それはキリストの福音のために鎖に繋がれていたパウロにとって処刑されることを意味しており、すなわち殉教による死を指しています。
救い主として世にお生まれになったキリストを思えば、この方もまた「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(同8)。キリストを主と仰いで道であり命である方に従う者もまた処刑や殉教ということまでには至らないとしても、生涯を終えるその時まで信仰において従順であるはずです。
礼拝者の中には信仰の道に入って年月の浅い者もおりますが、何十年と歩んでこられた方々もおられます。この先あと何年と地上での生涯を送るのか定かではありませんが、決して短い道のりでもなければ平坦で安易な歩みではないことは知れるところであります。
長い道のりということに関しては、この4月に宇都宮から米子へと赴任してきたときのことを思い返すところです。片道800㎞以上の運転は日常生活で車に乗りなれている者であるとは言え、私とって決して短い道のりとは言えないものでした。
当然のことながら私たちは途中で休憩をしたり高速道路を降りて宿をとったりすることはありました。けれども頻繁に道を逸れたのではいつまでたっても進むことはできませんし、ましてや何泊も滞在するということは私たちには考えられないことであります。
あるいは「もう長いこと運転をしてきたのだから、このあたり十分だ」と道半ばで勝手に行き先を変えてしまうということはあってよいものでしょうか。米子教会の皆さんが待っていて受け入れてくださると確信があればこそ、約束どおり最後まで私たちは走り続けることができたことを覚えます。
天の国に至る信仰の道もまた同様に、たとえ何十年と信仰生活を続けたとしても最後の最後で転んだのでは「あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」と言われることができるでしょうか。地上での生涯を葬りにいたるまで貫き通し信仰において従順であり続けるなら、私たちは自分の救いを達成すると胸を張って言うことができましょう。
<結び>
「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。」(フィリピ2:12)
主が「あなたがたは地の塩である」と言われたとき、誰かを塩に変えよとか世界を塩漬けにせよと命じられたのではなく、塩が塩気を保つことが求められています。世の光についてもともし火は燭台の上に置かれて家の中を照らすのであり、周りの物まで火を点けて燃やせと言われていないのは明らかです。
塩は塩であるので役に立ち、ともし火がともし火であるので人々の前に輝かせることができます。信仰も生涯を通して葬りに至るまで信仰であり続けるなら、人々がそれを見て天の父をあがめるようになるでしょう。
信仰の道において、やみくもに走ったり途中で降りたりしてしまっては失格者になってしまいます。キリストが私たちの罪を贖うために十字架の死に至るまで従順であられたのですから、自分の救いを達成するまで私たちは生涯を通してキリストの道を歩みます。
「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(マタイ5:16)