マタイによる福音書5章21-37節「キリストの恵みを知る者」
2025年7月6日
牧師 武石晃正
早いもので2025年も後半を迎えました。これからの季節は夏真っ盛りでありますが、うかうかしていると今年ももうすぐクリスマスであります。
地の続く限りは寒さと暑さ、夏と冬が繰り返されるとしても、主の再臨とともに世の終わりが必ずやってくることを覚えます。主の再臨が先であるか自分の天に召される日が先であるかは定かでないとしても、この世にも人生にも終わりの日があることをキリスト者は知っています。
終わりの日と主の裁きへの備えはできているでしょうか。本日はマタイによる福音書を中心に「キリストの恵みを知る者」と題して信仰者にふさわしい生き方を求めて参りましょう。
1.早く和解しなさい
神の前に裏表なく生涯を一貫した信仰者の生き方について、塩は塩、ともし火はともし火としてあり続けることを主イエスは「立派な行い」と呼ばれました(5:13-16)。本日の朗読箇所では主イエスがその実践面について具体的な例を挙げて教えておられます。
いささか持って回った話し方をされていますが、これは当時ラビと呼ばれたユダヤの教師たちの教え方の一つでありました。ナザレのイエスもユダヤの教師でありましたからたとえを用いて大げさな話し方をしては、人々がまさかそんな馬鹿な話があるかと耳と心を向けたところで核心を突こうというものです。
聖書新共同訳には話のまとまりごとに小見出しが付されており、朗読の箇所においては「腹を立ててはならない」「姦淫してはならない」「離婚してはならない」「誓ってはならない」と書かれています。もちろん聖書本文ではないのでこれらに縛られる必要はないとしても、手がかりや目安としつつ順に読み解いて参りましょう。
人はなぜ腹を立てたり、腹を立ててしまったりするのでしょうか。人類で最初の兄弟げんかを聖書でたどるならば、喧嘩どころか人類初の殺人が起こったのも兄弟に対して腹を立ててしまったところにありました(創世記4:5)。
アダムの息子カインがなぜアベルに怒りを覚えたのか明らかにされておりませんが、人は反感や先入観という感情によって腹を立ててしまうこともあるわけです。主イエスの教えの中では「ばか」「愚か者」と兄弟に言うような者が裁きを受けて地獄に投げ込まれるとされておりますが、発した言葉そのものも悪いことは悪いとしても、言葉として発せられたその人の腹の中にある罪が問題となっているのです。
人を侮る思いや蔑ろにする思いが腹の内にあるならば、言葉にしなくても相手はそれを感じて反感を抱くこともあるでしょう。ここで「兄弟」と呼ばれているのは肉親という以上に信仰のともがらのことであり、どちらが正しくてどちらが悪いかということを議論しても結局のところ水掛け論になってしまうことが多いものです。
主イエスの時代に祭壇に供え物を献げるということは、今の教会において礼拝を捧げることに読み替えることができます。礼拝は捧げ物を伴って神の前に立つことでありますから、神の前では誰もが罪人であり団栗の背比べに過ぎないことを思い出すでしょう。
神はキリストを通してわたしたちを御自分と和解させてくださいました(コリント二5:18)。ですから主が命じておられるのでたとえ自分が悪くないと思ったとしても、私たちは神の前へ出る前に兄弟と仲直りをして和解するのです(マタイ5:24-25)。
2.キリストの恵みにふさわしく生きる
一見すると別々の課題を扱っておられるようですが、主は一連の教えの中で根本的には腹の中にあるものが言葉に出たり行為に現れたりするということを説いておられます。2つ目に扱われているのは「姦淫してはならない」(出20:14)と十戒の一つであります。
ところが主イエスは人々に対して「あながたも聞いているとおり」「命じられている」と前置きされていることですので、実は十戒そのものについての解釈だけではなく当時のユダヤの掟や伝承について取り上げておられるのです。
すなわち言外にユダヤの指導者たちである律法学者たちやファリサイ派の人々の教えがあるわけです。別の箇所で主は「彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである」(23:3)と言われています。
「心の中でその女を犯した」(28)「右の目があなたをつまずかせる」(29)と主イエスが追及されていることですので、人々は実際に姦淫するわけではないので見るだけなら罪にならないだろうと考えていたようです。しかしながら、目で他の女性を追うことによって自分自身の欲を煽っては自らの意思で罪を駆り立てることになります。
「右の手」(30)とは他の箇所で「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」(6:3)と用いられているとおり、施しや人前での祈りに通じます(テモテ一2:8)。人々の気を引いて心を奪おうとする者たちを「偽善者たち」と呼ばれる主イエスは、ご自分の弟子である者たちに「体の一部がなくなっても」腹の底に潜んでいる罪をえぐり出し切り捨てよと命じられました。
このように罪の性質というものは非常に巧妙であり根深いものです。先の姦淫の例に限らずも「どこまでならば許されるか」と罪について問うことがありますが、実は問いが生じた時点でその人は「してはならないこと」であると知っているのです。
悪であり罪であると知っているのですから、初めから見ようとも触れようともしなければよいことです。しかし私たち人間は生まれながらに罪人でありますから、幼いうちから罪に支配されて生きていることであります。
子どものおやつを例に挙げるなら、親が「まだよ」と制しても子どもは食卓に手を出したがるものです。おやつの時間になるまでほかの場所で遊んでいればよいのに、わざわざ近寄ってきては「見てるだけ」「触っただけ」と口答えをしたことはないでしょうか。
「見ているだけならよいでしょう」と親に許しを得たとしても、見ているうちに包装の意匠などが気になってつい手を伸ばしてしまうのです。するとどうでしょう、見ているだけが「触っただけ」「持っただけ」「袋を開けただけ」と歯止めが利かなくなり、とうとうつまみ食いにいたるわけです。
約束を守らないという点においては続く離婚に関する教えにも通じます。主イエスは離縁状について「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない」(19:8)と別の箇所で説いています。
思えば主なる神の前で人類が最初に罪を犯したのも夫婦の間で起こったことでありました。その時点では姦淫や離縁という問題ではありませんでしたが、「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない」(創2:17)と神が命じたことを勝手に「触れてもいけない」(同3:3)と付け加えたところから話が逸れはじめました。
余計に厳しくしたものは事実と相違しますので、触れただけでは「必ず死んでしまう」ということは起こらないのです。すると「死んではいけないから」と罰の程度を軽く置き換えてしまい、人類は最初から創造主なる神を侮ることになりました。
創造主なる神との約束が守られなかったことから全人類と被造物全体に罪が入ってしまいました。決まり事を守ることができないことや自分を律することができないこと、約束を果たすことができないことは罪から生じるものであり罪の性質の一面です。
人間関係にひびが入ることは主なる神との関係が壊れていることの現れと言えましょう。実に主イエスは祭壇(21-26)や婚姻(27-32)のことを扱われましたが、それらはそもそも主なる神の前に誓いとして捧げられたものでありました。
4つ目に主は神へ誓いについて扱われております(33-37)。これもユダヤの律法によるところであり、人が神に誓願を立てるときには祭壇でいけにえを捧げることになっておりした(民数15:3ほか)。
ところが律法によると神への奉納物について「その相当額の銀に五分の一を加えて支払えば」(レビ27:13)ささげたものを取り戻すことができるのです。いくら大げさに「それ以上のこと」(37)を誓ったところでささげものを取り下げてしまえば誓いも約束も最初からなかったことになるという、何とも屁理屈のようなことがまかり通ってしまいます。
律法とは本来は人間が幸いを得るようにと主なる神が与えられたものなのに人々が捻じ曲げしまったので、主は「然り、然り」「否、否」すなわち「是は是、非は非とせよ」と命じられました。後に使徒パウロもコリントの教会に対して「やり遂げるように」と繰り返し勧めておりますから (コリント二8章)、キリストの恵みを知る私たちはそれにふさわしい誠実な生き方をするのです。
<結び>
「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(コリント二8:9)
独り子である神キリストの恵みを私たちはどれほど豊かに知っているでしょうか。誰かを蔑ろにしたりねたんだりする思いを抱えたままではキリストが血を流された十字架の前に立つことも、罪のない方がお受けになった苦しみを味わい知ることもできないでしょう。
罪の深さは子どものうちから現れて、大人においてはますます根深くなるものです。見なければよいのに欲望を刺激する方向へ自ら近づいていく性質ですから、きよめられるために目や手を切り落とすほどの意思で罪を徹底的に断ち切れと主は命じておられます。
信仰を告白して洗礼を授かった者は主なる神の前に誓いを立てたのですから、キリストの恵みと愛に依り頼み、聖餐を重んじて誠実にあずかります。キリストが私たち罪人のために十字架の死に至るまで従順であられたので、キリストの恵みを知る者は終わりの日まで救いときよめの道を歩みます。
「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」(マタイ5:37)