マタイによる福音書6章22-34節「神の国と神の義を」

 2025年7月13日
牧師 武石晃正


 米子教会創立記念、おめでとうございます。数日が過ぎましたが創立記念日は7月11日、今から116年前の1909年より米子の地で福音宣教が始まりました。
 各個教会としての成り立ちや歴史を有していると同時に、日本基督教団に属することは主イエス・キリストをかしらとする教会として主のからだである公同教会の使命を果たすものであります。普段より心がけてはいるものの創立記念日を迎えるにあたっては念を入れ、正典である旧新約聖書を信仰と生活の誤りなき規範とし、神の言葉としての説教がなされるところです。

 携わった方々がおられるので教会が創立されたわけですが、教会は恵みにより召されたということが要であります。主キリストのからだとして召された者の集いが何を求めて歩むのでしょうか、本日はマタイによる福音書を開き「神の国と神の義を」と題して神の言葉に聞きましょう。

PDF版はこちら


1.あなたの中にある光

 マタイによる福音書では主イエスが自身の宣教活動を始められたガリラヤでの教えを「山上の説教」として取りまとめられています(5-7章)。ガリラヤ地方のとある山辺において弟子たちに語られた教えであると同時に、弟子たちを伴って歩む先々で主が彼らに常々求めておられた心得であると言えましょう。
 一つ一つの教えから各々に示されるところを学ぶことは大切でありますが、一連の教えとして全体像を捉えようとすることも欠かせないのです。つまり主イエスは教訓や美学としてこれらの教えを説かれたのではなく、たとえ迫害を受けるとしても「神の子と呼ばれ」「天の国はその人たちのものである」(10)と言われるような者がキリストの弟子としていかに生きるのかが問われているわけです。

 「地の塩」「世の光」と主の弟子とされた者たちが呼ばれるとして、塩が何であるか光が何であるかと一字一句を定義されているわけではないことです(5:13-16)。人々が天の父をあがめるようになるような「立派な行い」つまり信仰に基づく一貫した姿勢をたとえて、塩やともし火が用いられています。
 以上を踏まえつつ本日の朗読箇所に心をとめるならば、主イエスが視力や肉体のことを言いたいわけではないとすぐに分かるでしょう。「あなたの中にある光」(6:23)は「あなたがたは世の光である」(5:14)と呼ばれる弟子たちの信仰であり、「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」(5:20)と言われている「義」に通じるところです。

 たとえばキリストを信じていると告白して洗礼を受けた者だとしても他人を侮ったり約束事を破ったりするようであれば、信仰と行いが一致していないので律法学者たちの義にまさっていないどころかそれ以下だとされてしまうでしょう。教会の中でいくら熱心に奉仕をしたり役員や集会の指導者になったりしても姦淫する者や家族を顧みないような者であるならば、「決して天の国に入ることはできない」(5:20)と主はおっしゃるのです。
 二心がある者を主なる神は忌み嫌われます(詩12:3-4)。キリストの弟子である者たちにも「二人の主人に仕えることはできない」「神と富とに仕えることはできない」と戒められているところです(マタイ6:24)。

 続く25節から34節の箇所についても、ここだけでひとまとまりの話として取り扱われることが多いでしょう。人生訓のように用いられたり前後の文脈はともかくとして暗唱されたりすることもある箇所です。
 果たして主イエスは食物や衣類、鳥や草花のことを教えようとされているのでしょうか。神と富とに仕えようとすることを主が「あなたの中にある光が消えれば」(23) と指摘されたことを踏まえつつ、更に読み進めて参りましょう。


2.神の国と神の義を求めなさい

 「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」(25)「あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」(26)と主イエスは弟子たちに説かれました。「ごもっとも」としか返す言葉が見つからないまま「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい」(28)と頷きながら聞くものです。
 ところが「栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」(29)と話がそこで急に展開されます。荘厳な神殿をエルサレムに建てたソロモン王の繁栄ぶりについては列王記上に記されているとおりですので、聞いていた人たちは「草花ほどにも着飾っていないなんて、そんな話があるか」と心を騒がせたことでしょう。

 ただ聞き入っているだけの人々を驚かせ、大げさな話によってその心を動かそうというラビと呼ばれたユダヤの教師たちの手法です。つまり主イエスは弟子たちに「あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ」(30)との一言を発するために、鳥や草花からソロモン王まで話を前置きとされたことであります。
 したがって25節以下のひとまとまりの教えの中で問われているのは、キリストの弟子であるあなたが求めているのは「異邦人が切に求めているもの」(32)であるのか「神の国と神の義」(33)であるのかという一点であります。「神と富とに仕えることはできない」(24)との戒めの内訳であり、誤ればあなたの中にある光が消えてしまうということです。

 「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな」(31)とありますが、食料や衣類に限ったことではなく物質的な充足全般を言い含めておられます。これはガリラヤにおける主イエスと弟子たちのことだけでなく、福音書が記された年代においても教会の命に関わる問題でした。
 使徒パウロもローマの信徒への手紙において「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」(ローマ14:17)と述べています。したがって「神の国と神の義を求めなさい」(33)との主の命令を教会が受けるとき、求めるべきは「義と平和と喜び」であり、それは人の努力や知恵によって実現されるのではなく「聖霊によって与えられる」ものでなければならないのです。

 たとえ義と平和と喜びを求めたとしても聖霊によって与えられるのでなければ、教会がこの世的な人情で動かされてしまいます。信徒ひとり一人の信仰においても教会の営みにおいても、何によって成り立っており何によって生きているのかが問われるところです。
 「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」(申命8:3)と主イエスは律法から引用されました。食べ物や飲み物によって体が作られるように、キリストの体である教会は御言葉を食べ聖霊を飲むことで成長します。

 聖書の話に人情話を多分に含めて話をすることは世の人々の心は動かされ信奉者も増える一方で、ある種の危険も潜みます。神の言葉に人の言葉が混ざってしまうと福音を正しく宣べ伝えることができず、肉なる思いを満たすだけのことになりうるからです。
 耳と心が養われていなければ御国の言葉を受け入れることが難しいので、いくら洗礼を受ける者の数が増えたとも福音書の中の群衆と同じ歩みになるでしょう。真理に至らずに離れていく者や自分の気に入らないと教師を拒んだり批判したりする者が生じるならば、キリストご自身が御国の言葉を語られたときのユダヤの人々と同じ有様です。

 「それはみな、異邦人が切に求めているものだ」(32)と言われたとき、主イエスはどれほどの思いを含まれているでしょうか。ある箇所では教会の言うことを聞き入れない人について「異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」(18:17)と扱われていることですから、キリストのからだである教会にふさわしくないと主はおっしゃっているのです。
 天の国に属する事柄であるのかこの世の国に属する事柄であるのか、教会も信仰者ひとり一人も吟味されるところです。「神の国と神の義を求めなさい」(33)とは、異邦人でさえ求めるようなことは脇に置いて教会にしかできないことが求められています。

 多くの人々を集めようとすることや土地建物などを含めた財産を扱うことはこの世に属する者たちにもできることです。神に属する者にしかできないことは神の国と神の義を求めること、教会が福音を正しく宣べ伝え聖礼典を正しく執行し、私たちが御言葉の真理に聴き従うことです。
 主なる神はご自分の口から出る言葉について「それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす」(イザヤ55:11)と宣言されのですから、「そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」との約束は真実です。このキリストご自身が十字架で流された血によって私たちは買い戻されたのですから、私たちは神と富とに仕えるようなことはせず、まず神の国と神の義を求めます。


<結び>

「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らな い。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。」(イザヤ55:11)

 主イエスは山上の説教において、弟子たちに「地の塩」「世の光」として信仰に基づく一貫した生き方を求められました。「あなたの中にある光」とは、神の国と神の義を第一に求める姿勢であり、それが失われれば信仰という光は消え失せます。
 神に仕えるとは教会が人集めや物質的な充足を第一とするのではなく、聖霊による義と平和と喜びを求めることです。これは教会が正しく福音を語り正しく聖礼典を行うことと、私たちが御言葉の真理に聞くところに現わされます。

 キリストが十字架で流された血によって私たちは贖われました。教会は主が再び来られるときまで主の死を告げ知らせ、神の国と神の義を求めて私たちは歩みます。

 「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:33)


このブログの人気の投稿

マタイによる福音書27章32-56節「十字架への道」

ルカによる福音書24章44-53節「キリストの昇天」

マタイによる福音書20章20-28節「一人は右に、もう一人は左に」