マタイによる福音書7章15-29節「御言葉を聞いて行う者」
2025年7月27日
牧師 武石晃正
先週主日(7/20)の午後は米子教会の牧師就任式があり、東中国教区総会議長の服部修牧師が司式をしてくださいました。15教会より出席者があり、米子教会が教師と信徒の一致をもって歩んでいくことができるよう祈りをもって祝福されました。
就任式の説教において御言葉と聖礼典はイエス・キリストの命そのものであり、すなわち教会はキリストの命を扱う働きを担っていると説き明かされました。教師はもちろんのこと信徒ひとり一人もみな、キリストが十字架において命をかけて救ってくださったことに命をかけて応えているかと問われます。
教会がこの地に立てられ、私たちが主の前に立とうとするとき、その土台はどこに据えられているでしょうか。本日はマタイによる福音書を開き「御言葉を聞いて行う者」と題して主の御心を求めましょう。
1.良い木は良い実を結ぶ
前回より引き続きマタイによる福音書より「山上の説教」を読み進めております。山上の説教は主イエスがガリラヤ地方で宣教活動を始められた当初から弟子たちに心得として説いておられた教えであります。
「悔い改めよ。天の国は近づいた」(3:2)と力強く語った洗礼者ヨハネと同じく主イエスもまた「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って宣教を始められました(4:17)。ですからヨハネばかりでなくイエスもまた差し迫った神の怒りについて、すなわち「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(3:10)という危機感をもって「悔い改めにふさわしい実を結べ」(3:8)と宣教の当初から説かれたことであります。
御国の言葉が語られても都合の良い話にしか耳を貸さない群衆がおり、その一方で群衆から身を遠ざけて山に登られた主イエスに従った弟子たちがおりました。ご自分の近くにまで寄ってきた者たちを弟子と呼び、主はいわゆる「山上の説教」を授けられました。
弟子たちの中から12人が使徒として召しだされ、主イエスの復活と昇天の後にキリストの体である教会を興す務めが与えられます。山上の説教はガリラヤで主に従った弟子たちのためだけの教えではなく、使徒たちから信仰を継承する教会の中でもキリストに従う者たちの心得として語り継がれているものです。
「偽預言者を警戒しなさい」(15)と主の言葉として語られるとき、預言者とは文字通り神の言葉を預かって語る立場にある者を指しております。預言者とはいわば神からの召命を受けた説教者であり、偽預言者はそれを騙る者ということです。
22節では主が偽預言者と呼びヨハネが偽善者と呼ぶような者たちを含む大勢の人々の申し分として「主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか」(22)と挙げられています。傍目には信仰深そうで熱心そうな教師や信徒に見える様を主イエスは「彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来る」(15)とたとえています。
見た目にも悪意があるなら誰もが警戒しますので、そのような者を教会は受け入れないでしょう。人間的な尺度では善良な人物に見え、かつ親切にも人のために世話をしてはよく祈るような教師や信徒であるので、教会の中で地位や信頼を得てしまいます。
そこで主は「あなたがたは、その実で彼らを見分ける」(16)と弟子たちに見極める目と心を求めておられます。またご自身においても裁きの日には「あなたたちのことは全然知らない」(23)ときっぱりと断られるというのです。
良い木と悪い木のたとえがなされておりまして、ここで言われている良し悪しとは果実の出来不出来のことではなく木の種類の違いのことです。茨やあざみの実を食べたことがある方がおられるのかは存じませんが、少なくともこの箇所ではぶどうやいちじくが食用にふさわしい「良い実」であり「良い木」であると扱われています。
いかに枝葉が青々と茂って豊かであろうとも、「良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない」(18)のです。教師や信徒であれば多くの行事や事業などによって教会の規模をいかに大きくしたとしても、「良い実」ではないものを実らせるならば「天の国に入るわけではない」(21)と言われてしまうのです。
「わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」(21)と主がおっしゃったとき、その御心とは既に律法をはじめとする旧約において示されていたことであります。「このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける」(20)と弟子たちに命じられていることですから、私たちは自分をよく確かめつつもその見分け方をも心得る必要があるのです。
2.御言葉を聞いて行った人たち
「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」(24)と主イエスは続けて説かれます。どんな困難に遭っても倒れなかったその家は「岩を土台としていたからである」(25)とゆるがない秘訣が明かされています。
岩は福音書においてイエス・キリストへの全き信頼、明白な信仰告白になぞらえられます(16:18)。使徒パウロはある箇所で「霊的な岩」「この岩こそキリストだったのです」(コリント一10:4)と述べています。
人生という家をキリストへの全き信仰という岩の上に立てようというのですから、古い建物すなわち生き方や考え方はすべて取り払われることです。主イエスが「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ3:3)と言われたように、あなた自身の人生が根本から造り変えられなければならないのです。
他方で「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」(26)と言われています。ここで言われる愚かさとは単に心得が足りていなかったとか失敗をしてしまったという程度のことではなく、「倒れて、その倒れ方がひどかった」(27)と立て直しもきかないほどの滅びを己が身に招くものであります。
先に「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(19)と言われたことに通じており、そのような者たちに対して主は「わたしから離れ去れ」(23)と否まれます。主の前に立たされるときにこのような目に遭うことのないように、「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者」「岩の上に自分の家を建てた賢い人」であれと主イエスはご自分を信じる者たちを招いておられます。
生き方そのものが根本から造り変えられてキリストの言葉の上に建て上げられるのですから、「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命6:5)との命令もおのずと伴っていくのです。心も魂も力もすべてを尽くして主を愛することはまさに「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」(出20:3)との十戒の第一戒を全うします。
ところで、使徒言行録にはキリストの弟子たちが福音を携えて各地へと遣わされていく様子が記されています。その中で使徒パウロが遣わされたエフェソというローマ植民地において一つの出来事がありました。
ユダヤ人の祈祷師たちが使徒パウロを形だけ真似をして、主イエスの名を用いて病を負っている人々から悪霊を追い出そうとしたのです(使徒19:11以下)。すると追い出されそうになった悪霊が祈祷師たちに言い返してはひどい目に遭わせたものですから、主イエスの名の偉大さがエフェソに住む多くの人々に知れ渡りました。
恐れをいだきつつも主イエスの名をあがめるようになった人々が自分たちの悪行を告白し、すなわち悔い改めに至りました。特に主なる神が忌み嫌う魔術を行っていた者たちは「その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた」(19:19)ということで、非常に高額な財物さえも投げ打ってイエス・キリストの救いを受けたのです。
主なる神は律法において「その国々のいとうべき習慣を見習ってはならない」(申命18:11)と占いや呪術、死者崇拝など禁じておられます。私たちもまた日々の歩みの中で、ことさらに聖餐にあずかるにあたってふさわしくないままで主のパンを食べ杯を飲むことのないように自分をよく確かめます。
たとえ洗礼を受けた者であったとしても、熱心に礼拝に出席したり奉仕に励んだりしたとしても、この世的な因習を腹の内に抱えたままでは「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者」に過ぎないのです。私たちは「砂の上に家を建てた愚かな人」(26)として主の裁きの前に倒されて滅びを招き入れることなく、天の父の御心を行う者として良い実を結び天の国に入るのです。
<結び>
「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。」(マタイ12:33)
聖書の教えを言葉として知っているだけなのか、心で信じてそのとおりに生きるのかでは大きな違いがあります。良い木は良い実を結びますが、異邦人が求めているものばかり求めるなら、悪い実を結んでは自ら滅びを刈り取ることでしょう。
キリストを信じると言いながら、占いや呪術、死者崇拝などを心の内に抱えたままでは御心に背くことになります。いくら洗礼を受けていても、「主よ、主よ」と祈りや賛美をささげても、キリストの御言葉を人生の土台そのものとして据えてこそ天の国に入ることができるのです。
ある人たちは財産であった物さえも焼き捨てて主イエスの名のもとに罪を告白し、信仰の道へと進みました。御言葉を聞いて行う者はこの世のいとうべき習慣を捨て去り、困難にあってもなお主の霊にきよめられる道を歩むことができるのです。
「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。」(マタイ7:24)