マタイによる福音書10章16-23節「蛇のように賢く、鳩のように素直に」

 2025年8月24日
牧師 武石晃正

 先週火曜日(8/19)には日野町黒坂の地において、残暑厳しいなか日野教会礼拝がささげられました。米子教会と日野教会との結びつきは古く、特に兼務牧会については一時期を除いて1970年代より50年来の歩みであります。
 日野教会は今年度より毎月第3火曜日と定めて聖餐式を行っています。米子教会の祈りと協力のもとに、教会の命そのものである説教と聖礼典が守られるようなりました。

 引き渡される夜すなわち主は迫害と苦しみと死が目の前まで迫っている中で、使徒たちを食卓に招きパンと杯とを分け与えられました。私たちは主の日が近いと知れば知るほど熱心に福音を宣べ伝え、キリストの十字架の死と復活を告げ知らせる聖餐を行うのです。
 困難や苦しみの中に置かれてもなお主イエス・キリストについていくために、本日はマタイによる福音書を開き「蛇のように賢く、鳩のように素直に」と題して主の命令と約束を受けましょう。


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1.主に遣わされる者の覚悟と備え

 十二使徒を遣わすにあたり主イエスは彼らにご自分の権威を委ねられました。その使徒たちは「蛇のように賢く、鳩のように素直に」あるよう命じられましたので、私たちはその本質と内訳を掘り下げながら主に遣わされた者としての使命を受けましょう。
  わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ」(16)と主は愛する弟子たちに語られましたが、それを聞いた弟子たちの胸の内はいかほどだったことでしょうか。死者をも生き返らせる権威を授かったのですから喜ばしくも誇らしい思いを膨らませたこところ、遣わされる先々には非常に多くの困難と危険という現実が待ち受けているのです。

 「羊を送り込む」というのですから、使徒たちは羊のように自らを守る術を持っていないということを意味します。あくまでも物の譬えではありますが、狼は鋭い牙と素早い動きで弱い者を襲いますので命の危険を伴う迫害が弟子たちに迫るのです。
 弟子たちは病を癒し悪霊を追い出す権能を与えられたことで、勇んでその使命へと出かけていきたいところです。そこで主は彼らが勢いよく出て行った先で躓くことのないようにと、あらかじめ危険を伝えた上でなお使命を果たすよう促されたのです。

 「だから蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい」という命令は、外からの攻撃に対する備えと、心の清さを同時に保つよう求めています。蛇は創世記で人間を罪へ誘ったことで良い印象を持たれない方もおられるかと思われますが、天地創造においては「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった」(創世記3:1)とされています。
 鳩と会話をしたことがありませんので実際にどれほど素直であるのか確かめることはできないとしても、ノアの箱舟の物語では鳩が平和と神の憐れみのしるしを運んだものでありました(創世記8:8-12)。知恵は危険を見抜いて適切に立ち回る力であり、素直さは悪意や策略に染まらずに信仰を真っ直ぐに保つ力であると言えましょう。

 賢さと素直さのどちらかが欠ければ働きは偏りますので、この二つが揃って初めてキリスト者の証しが確かなものになります。知恵ばかりなら冷たくなり、純粋さだけでは無防備であり、どちらかだけでは福音の務めを妨げる要因にもなりかねないでしょう。
 パウロという使徒はローマの信徒への手紙で「なおその上、善にさとく、悪には疎くあることを望みます」と勧めています(ローマ16:13)。現代における私たちの信仰生活でも同様であり、職場や学校で信仰を守るためには知恵をもって相手を理解しつつ、純粋さを失わない歩みが求められます。

 続く警告として主は「人々を警戒しなさい」(17)と言われました。とはいえ、この時点で遣わされた先で直ちに弟子たちが地方法院に引き渡されたり会堂で鞭打たれたりすることはなかったようです。
 後に使徒たちでさえ逃げ出してしまったあの晩のこと、主イエス自身が捕らえられ不当な裁きを受けて鞭や平手で打たれたのです(26:57以下)。キリストの権威をもって遣わされる者たちはキリストと共に生き、従順をもってキリストと同じ苦しみを担うことで自分の救いを達成するのです(フィリピ2:12)


2.主の臨在による支え

 会堂での鞭打ちは肉体的な苦痛に加え、共同体の中での名誉を失う屈辱的な刑罰でした。当時のユダヤの律法に基づく刑罰制度では罪を認められた者はその場で鞭打たれ、人々の前で恥をさらされました。
 さらに「わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる」(18)言われており、これはイエスご自身がローマ総督ピラトやヘロデ王の前に立たれた出来事に重なります。すなわち主は弟子たちだけを危険なところへ遣わされたのではなく、ご自身の名において迫害が起こるとしても「わたしのいる所に、あなたがたもいる」(ヨハネ14:3)ことを望まれたのです。

 ただの人として生きているなら、キリストの弟子たちはそのような危険な目に遭うことはないでしょう。しかし迫害によってこそ、私が願っても会うことができないような人々の前で証言の場が開かれることもありうることです。
 ペトロは後に「他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」(ヨハネ21:18)と主から予告を受けることになります。信仰のゆえに私たちもそのような場面へ遣わされることもあるでしょうけれど、いったい何を証しとして語ることができるでしょう。

 「何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる」(19)と主は使徒たちに約束されました。何を語るかは聖霊がその時に与えると主は約束してくださり(20)、この約束はキリストの弟子とされた者にとって最大の備えであります。
 人間の計画や準備がどれほど緻密であっても、聖霊の導きに勝るものはないのです。そして普段より主イエスの教えに聞き従い、聖霊と御言葉によって生かされているならば、どこを切ってもキリストの言葉が出てくることでしょう。

 「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる」(22)とは、本当に神の国と神の義に生きている者であるならばこの世と調子を合わせることができないからです。いささか大げさにも聞こえるようでも、実際に迫害や弾圧が起これば我が身を惜しんで親兄弟を売ってしまうということも起こりうるのです(21)。
 愛する者から拒まれることほど心を刺すものはないでしょう。一番弟子ともいえるシモン・ペトロに目の前で3度も「そんな人は知らない」(27:72)と否まれた主イエスだからこそ、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(22)との約束が真実であるのです。

 ただし迫害を受けていつまでもその場で苦しみを受けよとは言われておらず、「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい」(23)と主は弟子たちに命じておられます。先にも、弟子たちを迎え入れもせず証しの言葉に耳を傾けないような者がいる町からは足の埃を払い落として出ていけと言わているからです(14)。
 逆に居心地がよければ弟子たちはその町に腰を据えてしまい、次の町へ御国の到来を告げることが遅れてしまうことになるでしょう。「あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る」(23)という手遅れにならないよう、主は迫害を用いてでも悔い改めと救いの言葉を届けさせようと弟子たちを遣わします。

 迫害は本来、この世の支配者がキリストの証人を沈黙させるために起こすものです。しかし主はそれを福音を広める手段に変えられ、確かにエルサレムで大迫害が起こった時もキリストの福音を携えた者たちがユダヤとサマリアの全土へと散らされました(使徒8:1)。
 「弟子は師のように、僕は主人のようになればそれで十分である」(24)とのお言葉は、弟子が師と同じ高みに到達することではなく、師と同じ苦難を担う覚悟を意味します。師が受けた辱めや迫害を弟子も受けることが当然とされるのです。

 主イエスはベルゼブルと呼ばれ、悪霊の頭の力で働いていると中傷されました(25、12:24)。弟子たちもまた、そのような誹謗中傷にさらされるところです。
 侮辱は鞭で打たれるような体の傷よりも深く心を傷つけます。「人の霊は病にも耐える力があるが/沈みこんだ霊を誰が支えることができよう」(箴言18:4)と聖書にあるとおり、心の傷を自分の力で耐え忍ぶことは極めて困難なものです。

 「それで十分である」と言ってくださる主が私たちと共におられ、聖霊によって私たちを日ごとに支えてくださるのです。そして神の子キリストが愛する者たちを「その家族の者」と呼んでくださるので、私たちは最後まで耐え忍ぶ者として歩みます。


<結び>  

  「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」(マタイ10:16)

 主は弟子たちを狼の群れに送る羊に譬え、迫害と拒絶の現実を告げつつ、蛇のような知恵と鳩のような素直さを求められました。ユダヤの地方法院やローマの権力者の前で証しする機会は使徒たちにとって聖霊の導きによる備えとなり、教会と私たちにおいては苦難さえ福音の広がりに用いられます。
 師であるキリストと同じ辱めを受ける覚悟は恐れを超える信仰の勇気を生み、主イエスに従い死に至るまで命を惜しまなかった者に勝利が約束されます(黙12:11)。迫害の中でも神の国は前進し、「蛇のように賢く、鳩のように素直に」教会は終わりの日までキリストの十字架と復活の恵みに生きるのです。

 「そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。」(使徒20:32)


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