マタイによる福音書12章43-50節「御国を受け継ぐ」
2025年8月31日
牧師 武石晃正
先週は地域の学校では夏休みが終わり、子どもたちにも先生方にも充実した毎日が戻ったようです。本日は8月も最後の日を迎え、早いもので今年も残すところ4か月です。
日中はまだ日差しが強くて「暑い、暑い」と汗だくになる日もありますが、主を待ち望むアドヴェント(待降節)までたったの3か月というところです。長いと思っていた夏休みにも必ず終わりの日と宿題の提出日があるように、一年もあっという間に過ぎていきます。
人生というものも年数にすれば長い方もあれば短い方もおられますが、若かろうと歳をとろうと「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブライ9:27)ものです。時や時期は定かでなくとも必ずやってくる日があるのですから、本日はマタイによる福音書を開いて「御国を受け継ぐ」と題して備えといたしましょう。
1.天の父の御心を行う人
一人の人から悪霊が出て行くとき、その霊は「砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない」(43)と主は語られます。これは一時的に悪から離れたとしても、心の奥が空のままであればまた別の悪が入り込む危険を示しています。
キリストの十字架の前に悔い改めることで救いの恵みと平安をいただいても、私たちは神の霊と御言葉で満たされなければ別の誘惑が入り込もうとするのです。すると、やがて戻ってきた霊は部屋が掃除をされて整えられているのを見ることになるでしょう(44)。
きれいに整えられたとしても、そこに主がおられなければ私たちの心は空き家同然です。礼拝や奉仕が形の上では整っていても内面に神の霊と御言葉を住まわせていなければ、教会は主に守られているとは言えないでしょう。
同じく信仰の歩みにおいても、まずは形から入ることはあるとしてもそれだけでは足りないことは明らかです。主イエスの言葉によるとその霊はさらに悪い七つの霊を連れて戻り、「その人の後の状態は前よりも悪くなる」(45)のです。
悪は孤立してとどまっているほどおとなしいものではなく、悪いものと悪いものとが結びあい広がります。また、私たちの心は悪いものを追い出したとしても空のままにはできませんし、主なる神キリストを住まわせなければ以前より一層悪い状態になるのです。
だからこそ悪を退けるだけでなく、キリストで満たされる聖化の歩みが必要です。主が「この悪い時代の者たちもそのようになろう」(45)とおっしゃったように、今の時代もまさに悪い時代であるからです。
これは主イエスが地上におられた時代のユダヤ人に限らず、すべての時代の信徒たちへの問いかけです。救いの恵みをいただいて安心しきってしまい教会から遠ざかってしまうなら、その信仰は試練の時に力を発揮できるとは到底期待できないものです。
礼拝に出席できるかどうかの事情はさまざまですが、大切なのは心と体の両方にキリストを住まわせていることです。すなわち日常においてもこの世に属する者としてではなく神の国に属する者として歩むのです。
さて、キリストの体である教会は福音宣教と聖礼典による公の礼拝を中心に成り立っています。説教と聖礼典による礼拝こそ、主にある家族の交わりの中心です。
ある人は職業を決めるにあたり、報酬や労働条件よりも日曜日に礼拝を守ることを優先しました。別の人は病や距離のために教会に通うことができなくなっても、説教や週報を求めては自宅で礼拝の心を保っています。
こうした姿勢は心の内にキリストを迎え入れている証しであり、ここに主なる神がおられるということを職場や家庭で示す力です。信仰者自身の姿勢が問われると同時に、互いに支えあい信仰生活を維持することが教会の役割であります。
ここで、主イエスが群衆に話しておられると、母と兄弟たちが連れ戻しにやってきました (46)。当時、家族は社会的な絆の象徴であり、最も大切なつながりでした。
しかし主は血のつながりを越えた新しい家族のあり方を示されました。「母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」(47)と告げる者たちへ、「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか」(48)と主は問い返されました。
これは家族を軽んじる言葉ではなく、御国の家族観への導きです。主は弟子たちを指し、「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」(49)と宣言されました。
信仰によって結ばれた新しい家族をここに見ることができます。互いに仕え合い主の御旨を行う者こそ、御国を受け継ぐ家族です。
「天の父の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、母である」(50)との御言葉において、主は私たちに信仰が行動と結びついていることを教えます。信じるだけではなく、日々の選択や態度で御心を形にすること、それが御国を受け継ぐ者の生き方です。
2.互いに仕え合う神の家族
罪が赦されても心を空白のままにしておくことは非常に危険なことであります。そこに神の御言葉と聖霊の働きを迎え入れなければ、別の悪いものが入り込むからです。
古い習慣をやめるだけでなく、神の義と神の愛で満たされることが肝心です。悔い改めるだけでなく新しく生まれ変わらなければならないことは、主が「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ3:3)と言われたとおりです。
外側が整っていても内側が神に満たされていなければ、その人の信仰生活は危ういものです。教会が活発な活動や立派な施設を持っていても、御言葉と愛の実践がなければ御国を受け継ぐ証しとはならないでしょう。
日々の生活の中で信仰が深まり、養われます。さまざまな通信技術が発達した現代にあっても、聖書は「ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう」(ヘブライ10:25)と勧め、信徒たちが実際に集まって祈るように教えています。
主イエスは血縁を越える家族を示されたことによって、救いが民族や家系に限定されないことを明らかにしました。かつて旧約ではアブラハムの子孫すなわちイスラエルだけが神の契約にあずかるものとされましたが、キリストの血による新しい契約においてはすべての民が信仰によって神の家族となります。
その家族は上下関係ではなく、互いに仕え合う関係の上に立っています。使徒パウロはコロサイの信徒への手紙の中で、家庭や職場での人間関係を主にあって整えるよう教えています(3:18–4:1)。
聖書が教える家族の関係は権威の押し付けではなく、キリストの愛に基づいた秩序です。御心を行う者が御国を受け継ぐという主のお言葉のとおりです。
血縁や制度だけに頼っては教会が愛と正義を保つことは難しいでしょう。それゆえ信仰者は主の御心を基準に人間関係を築き直し、教会が神の家族として互いを受け入れ、赦し支え合うのです。
それはただの仲間意識ではなく、御言葉に基づき互いを成長へと導く交わりです。弱さを担い合い喜びを分かち合うことが、御国を受け継ぐ道であると言えましょう。
「御国を受け継ぐ」とは死後に対する約束だけでなく、今ここで神の支配のうちに生きることです。悪い霊が私たちの内側に再び入ろうとするのを防ぐためには、日々の祈りと御言葉を学んだうえでそれに従うことが不可欠です。
心の底まで神の愛で満たされるとき、私たちは御国の民として備えられます。聖霊に満たされ、「わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです」(エフェソ4:13)。
御国を受け継ぐ者はまず神との関係に根ざし、次に人との関係を愛で結びます。信仰によって主に従い日々の歩みを御心に沿わせることにより、私たちの中に入り込もうとする悪いものを締め出すことができるでからです。
新しく生まれ変わった者には清めの恵みすなわち聖化の恵みを受け続けることが必要です。聖化の歩みは自分一人で成し遂げようとするなら決して容易ではありませんが、主にある家族と共に歩むことによってその道は確かにされます。
キリストの恵みと父なる神の愛で私たちの信仰と行いが満たされるなら、罪や汚れが付け入る余地はなくなるでしょう。きのうも今日も永遠に変わることのないキリストが必ず世に来られるので、その日まで私たちは御国を受け継ぐ者として御国のわざに励みます。
<結び>
「この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。」(エフェソ1:14)
悪い霊を退けても心が空のままなら、さらに悪い霊が入り込む危険があります。神の前に罪を悔い改め、キリストの十字架の死による贖いと救いを受けた後は、神の霊と御言葉で満たされる聖化の歩みが必要です。
主イエスを信じる者たちは血縁によらず御心を行うことによって神の家族とされ、御国を受け継ぐ者とされました。それは単に悔い改めに伴って新しく生まれるだけでなく、赦された罪人たちは神の家族の中で聖化の恵みを受けるのです。
新しく神の子として生まれた者は御言葉に聞き従い、互いに祈り、愛のわざに励む中で聖化の恵みに生かされます。こうして主の前に互いに仕え赦し合う交わりを築く者が、御国を受け継ぐにふさわしい実を結びます。
「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」(マタイ12:50)