マタイによる福音書8章5-13節「憐みの器として」
2025年8月3日
牧師 武石晃正
8月を迎えました。隣の小学校は夏休み真っ盛り、普段とは違って朝から校庭の元気な声が聞こえてきます。
思えば5年前、2020年は私が住んでいた地域では子どもたちの歓声をほとんど聞くことができない年でありました。恐らく米子市を含めて全国的に同様でありましょう。
世の中では大きな不安や困難に際して「苦しい時の神頼み」と申しますが、キリスト者は病や苦しみの時だけでなく日々の歩みにおいていつも主なる神の憐みにすがって歩みます。本日はマタイによる福音書を開き「憐みの器として」と題し、癒し主キリストと御言葉の権威について思いを深めてまいりましょう。
1.癒し主としてのキリスト(1-4)
マタイによる福音書は7章までに「山上の説教」と呼ばれる主イエスの教えが記されております。この山上の説教は単にガリラヤの山辺で語られたありがたい教えであるというものではなく、キリストに従う者つまり弟子となる者の心得が説かれています。
本日の朗読箇所は8章5節以下でありますが、話の順を追うために1節から取り扱ってまいりましょう。「イエスが山を下りられると」(1)と切り出されており、弟子たちだけが従った山の上から群衆のもとへと主は戻ってこられたところです。
ガリラヤ地方におけるナザレ人イエスの活動についての概要は4章で「諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」(4:23)と括られています。そしてマタイは5章から7章のうちにイエスが説かれる「御国の福音」を記し、8章より「病気や患いをいやされた」ことについて述べております。
福音の宣教と癒しのわざによってイエスこそ来たるべき救い主メシアでありイスラエルの聖なる方であると、福音書はその権威を示します。それは旧約の詩編において「主は御言葉を遣わして彼らを癒し/破滅から彼らを救い出された」(詩107:20)と詠まれているように、主なる神は病気ばかりでなく心の傷や罪による損傷までをも癒してくださる神であるからです。
さて山から下りて来られた主イエスのもとへ「一人の重い皮膚病を患っている人」(2)が近寄ってきたことにより、その場にいた人々の間に緊張が走ります。それは律法に「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い」「この症状があるかぎり(略)その人は独りで宿営の外に住まねばならない」と定められているからです(レビ13:44-45)。
「わたしは汚れた者です。汚れた者です」(レビ13:34)との叫びをきくや群衆は身震いしながら道を開け、瞬く間に人垣となったでしょう。集落の外に隔離されている者が姿を現したのですから、事の次第では掟に背く者として石で打ち殺そうというばかりです。
「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」(2)とは裏を返すとイエスが望まなければこの人に残される命はないのです。この人が死の床につくまで病に身をやつすより先に、イエスの返事ひとつでは群衆が一斉に石を投げ始めるでしょう。
この人はナザレ人イエスをイスラエルの救い主、御言葉によって民を癒す方であると信じたゆえに自分の命を差し出して命乞いをしたことであります。身も心も命さえもすべてを御前に委ねたとき、主は「手を差し伸べてその人に触れ」(3)てくださいました。
「たちまち、重い皮膚病は清くなった」(3)と何事もなく収まったようですが、律法によれば汚れた者に触れることは主イエス自身も同じ汚れを身に負うことを意味しました。キリスト・イエスが憐みによって手を差し伸べてくださったことで、人の前にも神の前にも死ななければならなかった者が死から命へと移されました。
旧約のレビ記には「重い皮膚病を患った人が清めを受けるときの指示」(レビ14:2)として祭司たちが行う儀式についての定めが事細かく記されています。しかしながら律法による行いによって人々が救われたのではなく、祭司たちにできることは患部を見て判断することと儀式を行うことだけでした。
救い主であり癒し主である方は憐みを受けた者に対して「行って祭司に体を見せ(略)人々に証明しなさい」(4)と命じられました。主の憐みを受けて救われた者は神の前だけでなく人の前にも正しい証しを求められます。
2.御言葉の権威が示される(5-13)
次に主イエスに近づいてきたのはカファルナウムの町に駐留していた百人隊長でした(5)。彼は領主ヘロデ(14:1)の統治下にある部隊の隊長であり、ユダヤの人たちから一定の尊敬を受けつつも(ルカ7:4)律法の上では異邦人という隔たりがありました。
中風(6)とは現代でこそいわゆる脳卒中の後遺症であるとされておりますが、たとえ原因が分かったとしてもその苦しみは大きなものであります。ましてや古代ローマの時代ですので予防や治療のすべもなく、半死半生の苦しみだったと言えましょう。
「寝込んで、ひどく苦しんでいます」(6)との申出に対して主イエスは二つ返事で「わたしが行って、いやしてあげよう」(7)と受けられました。ところがすぐに来てくださるというのに百人隊長は「わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。」(8)と不思議なことを言い出すのです。
彼はユダヤ人を愛して会堂を建ててあげるほどの人物でしたから(ルカ7:5)、ユダヤの掟を理解しておりました。異邦人である自分の家にイエスを迎えることができないと心得て「ただ、ひと言おっしゃってください」(8)との御言葉だけを求めたのです。
横着をして「偉い先生を自宅に招くのは面倒だから電話で済まそう」という話ではないのです。ナザレ人イエスを敬えばこそ、自分の僕を愛すればこそ、神に対しても人に対しても正しくあろうとしたものです。
後の教会においても使徒パウロが「すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。あらゆる悪いものから遠ざかりなさい」(テサロニケ一5:22-23)と書き送っています。もちろん主はご自分の権威によって百人隊長の家に赴くことはできたでしょうけれど、彼の信仰をよしとされたのです。
そこで「わたしも権威の下にある者ですが」(8)と百人隊長はキリストであるイエスの言葉の権威について告白します。「行け」「これをしろ」とは子どもの遣いではなく兵隊に向けられた命令ですから、これらの言葉をそのとおりにすることは部下自身の命に関わることです。
主の口から発せられた言葉がかならず実現するという確証は預言者イザヤを通して語られたことでもありました(イザヤ55:11)。そして主の母マリアが聖霊によって身ごもったとき「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」(ルカ1:45)との祝福を受けたところであります。
ユダヤの掟の制約を受けつつも百人隊長が自身の命にかけてキリストの権威を信じたので、主イエスは憐みをもってこの異邦人の願いを聞き入れてくださいました。かつてソロモン王が神殿を奉献する祈りのうちに「その異国人があなたに叫び求めることをすべてかなえてください」と願ったことであり(列王上8:43)、今やイエス・キリストの名において地上のすべての民が主なる神を畏れ敬うようになるためでした。
その一方で「御国の子ら」(12)と呼ばれる信仰者であっても、御言葉の権威に服していなければ御国から外の暗闇に追い出されて泣きわめいて歯ぎしりする羽目になるでしょう。しかし異邦人であってもキリストの権威に対して全き信頼を告白する者には、主が憐みをもって「あなたが信じたとおりになるように」(13)と報いてくださいました。
もう少し先まで読み進めますと、癒しの恵みを受けた3人目は主イエスの一番弟子とも言われる使徒ペトロのしゅうとめでありました(14)。このペトロは「あなたのためなら命を捨てます」(ヨハネ13:47)との決意をもって主に従った者であります。
「イエスがその手に触れられると、熱は去り」(15)と文字にすればたったの一行でありますが、命をかけてご自分に従う者を主は憐れんでその家族までも救ってくださいました。このようにユダヤ人であろうと異邦人であろうと全身全霊をもって主に従い命をかけて主にすがる者を癒し主なるキリストは深く憐れまれ、御言葉の権威をもって神癒の恵みをお与えになるのです。
<結び>
「こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。」(エフェソ2:7-8)
私たちが日本基督教団信仰告白において「ただキリストを信じる信仰により」と告白するとき、その信仰とはどれほどまで主にすがり自分自身をゆだねているものでしょうか。文字通りすべてをキリストに委ねて命まで預けているなら、「御心ならば」と祈るときに私のすべてが清められ癒しの恵みを受けることができるのです。
身を預けていないのにどうして救っていただくことができるでしょうか。キリストが私たちの罪のために身代わりとなって十字架で死んでくださったのですから、その救いを受ける者は生涯を通して葬りに至るまでもキリストのために生きるのです。
主は御言葉の権威をもって人を癒し、ユダヤ人にも律法の外にある者にも憐れみを注がれる救い主であるとご自身を世に示されました。キリストを信じて従う者に命と恵みが与えられ、憐みの器として私たちは救いの言葉を伝える務めが委ねられています。
「神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。」(ローマ9:24)