マタイによる福音書13章44-52節「天に属する者たち」

 2025年9月14日
牧師 武石晃正


 毎月第2週の主日礼拝を米子教会ではCS合同礼拝としており、CSすなわち教会学校向けの聖書の話をしては子どもたちでも歌いやすい讃美歌をできるだけ選ぶようにしております。そして今月は敬老感謝礼拝が同じ週に重なりまして、本日は幼子たちから信仰の先輩方までがこぞって主日礼拝にささげることであります。
 敬老感謝礼拝は単に長寿を祝うだけでなく、主の前に年月を重ねた信仰者が教会において果たされた貢献を覚えては、その生涯を通じて一人ひとりを養ってくださった主なる神を称える礼拝です。ですからこの説教は前半部分において聖書に示される長寿の意味を考え、後半において朗読箇所であるマタイによる福音書を中心に「天に属する者たち」と題して読み解いてまいりましょう。



1.現代における長寿と聖書における生命観
 聖書は「白髪は輝く冠」(箴言16:31)と教えて高齢者を尊敬すべき存在とするとともに、長寿を主なる神からの祝福であり恵みであるとしています。他方で現代における長寿は、聖書時代のそれとは全く異なる源泉に由来していることも事実です。
 日本の平均寿命は公的医療保険制度の普及と医療技術の著しい進歩により劇的に伸びた面がありますから、現代の長寿が人間の努力によってもたらされたものであるとも言えるでしょう。しかしこの長寿化は手放しで喜べるものばかりではなく、「多死社会」への移行やいわゆる「8050問題」など多くの社会的課題を生じていることを私たちは知っています。

 では聖書は長寿についてどのように教えているでしょうか。旧約39巻と新約27巻からすべてを取り上げることは適いませんので、いくつかの箇所を取り上げてみましょう。
 創世記の5章にはアダムからノアに至る10代の系図が記されており、そのうちなんと969歳で亡くなったメトシェラは聖書全体で最も長寿な人物として知られています。現代の感覚からすると驚異的な長寿を達成した人々ではありますが、いくら長生きをしたとしても「食べると必ず死んでしまう」(創2:17)との主なる神の言葉どおりにすべての人が必ず死を迎えたことを聖書は示しています。

 アダムの背きによって罪が世に入り、その結果として肉体的な死が全人類に及んだことは新約においても明らかにされています。単に「塵にすぎないお前は塵に返る」(創3:20)ということではなく、「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブライ9:27)のです。
 原罪と呼ばれるアダムにおける罪は個人の死をもたらしただけでなく、被造世界全体に呪いをもたらすことになりました。この堕落が進み地上に人の悪が増大したノアの時代において主なる神が「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから」(創6:3)と言われて以来、120年が人間の寿命とされました。

 仮に120年という年数を裁きとして下される大洪水までの猶予期間であったと解釈するとしても、969年であろうと120年であろうと私たち人間が悔い改めることを創造主である神が憐れみと忍耐をもって待っておられたのです。モーセの時代にまで下ると「人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても」(詩90:10)と詠まれるように現代の平均寿命とほぼ同じ水準に至りますが、その頃には主なる神は「律法」と呼ばれる掟によって御心をお示しになりました。
 律法においてその中心ともいえる十戒では「あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる」(20:12)と戒められています。これは長寿と幸福という具体的な約束を伴っており、新約においても確かであると教えられます(エフェソ6:1-2,コロサイ3:20)。

 ルカによる福音書には幼子イエスを迎えた人々の中にシメオンとアンナという2人の高齢な信仰者が登場します(ルカ2:25-38)。彼らは確かに長生きをしましたが、聖書は彼らの長寿の価値を神の約束が成就するまで忠実に待ち続けた信仰と希望に置いています。
 新約では「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)とあるように、罪と死の呪いそのものから解放される道が与えられます。キリストの十字架の死において罪人である私がキリストとともに死んだので、キリストと共に生きる私たちには長寿という地上での時間の長さではなく罪から解放された「永遠の命」に生かされているのです。


2.天に属する者たち
 驚異的な年齢を数えた創世記の人々でさえエノクを除いてすべての人が「そして死んだ」と書かれております。どれほど長寿であろうとも、すべての人は塵に返る「土ででき、地に属する者」(コリント一15:47)であるのです。
 地に属する者として生まれた者が「天の国」に受け入れられるにはどうすればよいのでしょうか。そもそも「天の国」とはいかなるものであるのか、本日の聖書箇所より主イエスがたとえを用いて教えられた真理に心を向けましょう。

 弟子たちに向けて語られた3つのたとえ(44-50節)は、いずれも「天の国」の真理を深く教えています。畑に隠された宝と高価な真珠のたとえは、2つのたとえをもって一つの真理を示そうという当時のユダヤの教えの形式に倣っているものです。
 宝も真珠もその価値を知らない人から見れば、ただの畑でありただの貝にすぎないものです。しかしその価値を知る者にとっては、「持ち物をすっかり売り払って」(44)でも手に入れるほどの価値があるというのです。

 このたとえに出てくるすべてを売り払って畑を買った人とは、天から遣わされたメシアすなわちイエス・キリストご自身を示します。主イエスは神の身分でありながら、ご自分を無にして人間と同じ者となられました(フィリピ2:6)。
 それはご自身の命までも代価として支払い、宝や真珠のようにかけがえのない存在として私たちを買い取ってくださるためでした。天地創造の時に「神は御自分にかたどって人を創造された」(創1:27)ので、主なる神は罪を償ういけにえとして御子をお遣わしになるほど価値のあるものとして、私たちを愛してくださったのです(ヨハネ一4:10-11)。

 畑に隠された宝そして海に沈んだ真珠は、地に属する者でありながら主イエスによって見出され買い取られた私たちです。罪人である私たちは、主イエスの十字架で流された血すなわち御子の命という途方もない代価によって「天に属する者」とされたのです。
 3つ目の網のたとえは世の終わりにおける裁きを示しています。漁師たちが網で集めた魚を「良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる」(48)ように、世の終わりには天使たちが来て正しい人々の中にいる悪い者どもをより分けるのだと主イエスは明らかにされました(49)。
とはいえ、主イエスは私たちを脅したり不安にさせたりするためにこのたとえを語られたのではないのです。むしろ誰一人として滅びることがないように、「耳のある者は聞きなさい」(43)と心を傾けて真意を知るように呼び掛けておられます。

 朗読の箇所においても弟子たちは「あなたがたは、これらのことがみな分かったか」と主から念を押されています。裁きばかりに目を向けて心を騒がせるのではなく、天に属する者たちは御言葉の真意を深く理解することが求められます。
 続けて主イエスは「天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている」と言われました(52)。「古いもの」とは、世の終わりが来るまでの、私たちが生きる今の時代です。

 「新しいもの」とは世の終わりの先にある新しい天と地、またキリストの再臨と私たちの復活です。天の国のことを学んだ者すなわち天に属する者たちは、世の終わりの裁きという事実とその先にある新しい命の希望、この二つをしっかりと心に留めて生きるようにと招かれています。
 以前は「必ず死んでしまう」(創2:17)「お前は塵に返る」(創3:20)と言われる「地に属する者」(コリント一15:47)の子孫として生まれた私たちでした。しかし「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」(ルカ19:10)と言われた主イエスご自身が、私たちを「畑に宝が隠されている」(マタイ13:44)「良い真珠を探している」(45)とご自身の命によって買い取ってくださいました。

 世の終わりまでの「古いもの」を見据えつつ、その先に約束された主の再臨という「新しいもの」にキリスト者は希望をいだきます。地上における生涯の年月が長かろうと短かろうと、キリストの十字架の死によって贖われた天に属する者たちは主の死を告げ知らせ復活の希望を証しして生きるのです。


<結び>  
 「土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。」(コリント一15:48)

 本日は敬老感謝礼拝として、信仰の先輩方から幼子までが共に集えたことを主に感謝いたします。聖書は長寿を祝福として教えますが、その価値は地上の時間の長さではなく、神との関係においています。
 今の私たちから見れば驚くほど長寿であった創世記の時代の人々でさえ、すべて塵に返る「地に属する者」でありました。しかし神はご自身の独り子を遣わして、「畑に宝が隠されている」「良い真珠を探している」と私たちを救い出してくださいます。

 私たちはこの地上での生涯が長かろうと短かろうと、キリストの再臨と復活の希望を証しして生きる者とされました。イエス・キリストが十字架の死によって贖ってくださったことにより、天に属する者たちは神の所有とされて永遠の命に生かされています。

 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」(マタイ13:44)

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