マタイによる福音書18章10-20節「心を一つにして」

 2025年9月21日
担任教師 武石晃正

 聖霊降臨節は今週で第16主日を数え、今年は10月19日の第20主日まであと1か月を残すばかり。キリストの昇天後に御父と御子が地上へ賜った聖霊は教会のいのちとして吹き込まれました。
 かしらとしてキリストを仰ぐ「からだ」としての教会ですから、からだには部分や組織があるだけでなく体質というものもあります。体質とは英語でconstitutionという語が用いられますが、これは日本語では憲法や規則と訳されるものです。

 キリストの体である教会とはどのようなものであるのか、ニカイア・コンスタンティノポリス信条は「ひとつの聖なる公同の使徒的な教会を信じます」(日本キリスト教協議会共同訳)と告白します。聖霊に導かれて歩む教会とはどのようなものであるのか、本日はマタイによる福音書を開き「心を一つにして」と題して求めてまいりましょう。

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1.一人でも軽んじないように
 福音書はイエス・キリストと弟子たちの言行録でありますが、その場で逐一お言葉を書き留めたものではなく後年になってからまとめられたものです。主が天に昇られた後、迫害を受けながらも聖霊の働きとして教会が各地へと広がる中で筆が執られました。
 弟子たちが主から受けた教えは数多くある中でも、特に書き記しておく必要があったものを聖霊の促しを受けて福音書に残したということです。ですから主イエスの教えやユダヤの人々との議論は単なる教訓ではなく、教会が直面する様々な課題における前例であり例題として読み解くのがよろしいでしょう。

 「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」(10)とのお言葉も、マタイによる福音書においては前述の6節以下にある教えと同じ話の流れに置かれています。「小さな者」と呼ばれる人たちをつまずかせることや軽んじることが禁じられているという点に関しては、使徒パウロはローマの信徒への手紙において「つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい」(ローマ14:13)と教会の人々へ書き送っています。
 「彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいる」(10)と言われているのは世の終わりにおける裁きへの言及であり、つまずかせる者が石臼を首に懸けられて海に沈められたり永遠の火に投げ込まれたりするように、小さな者を軽んじるような者は天使たちの手に渡されるのです(13:49)。天使については天使礼拝(コロサイ2:18)という誤った道へ進まないためにも声高に説かれる場面が少ないのですが、礼拝の秩序のために遣わされていることも含めて(コリント一11:2-16)教会には慎みが求められます。

 とはいえ主イエスは弟子たちに強要するために天使たちの存在をちらつかせてはおられないのです。「あなたがたはどう思うか」(12)と自分の意思によって決断するよう求められました。
  ただし意見や考えが色々とあってよいという意味で「どう思うか」と問われたというよりも、弟子たちが各々に考え違いをしていないかと確かめられたことであります。羊を百匹持っている人のたとえは良い羊飼いであると示されたばかりでなく、迷い出た一匹を惜しまれる御父の御心に対して弟子たちも心を一つにすることを求めておられます(14)。

 もう一歩踏み込んで読み解きますと、あなた自身が自分を「小さな者」の一人として主の前に軽んじないように気をつけなさいと言われていることでもあります。御子イエスはあなたという失われたものを救うために来たのであり、あなたが再び失われることのないように天使たちが父なる神の御顔を仰いでいるのです。
 それにも関わらず「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」と聞かされながら、自ら離れようとする者や罪にとどまり続けるような者たちがいつの時代にも教会の中に生じます。御心を知りながらも「あなたに対して罪を犯した」(15)信徒について、いかに扱うべきかを15節以下に続いて説かれます。


2.罪を覆う愛
 「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(20)とのお言葉が独り歩きし、小さな規模の礼拝や祈祷会の奨励として用いられることがあるようです。もちろん人類が主の御名を呼び始めた時代から今日に至るまで集まって祈ることは御心ではあるのですが、果たして主イエスがこの一言を語られた文脈から切り離されてはいないでしょうか。
 15節以下の教えにおいて「聞き入れなければ」(16)「それでも聞き入れなければ」(17)と繰り返されて手順が示されています。信仰の仲間の忠告も教会の指導も聞き入れない者ついて説かれているのですから、「小さな者」を導くための話ではないでしょう。

 この箇所をより深く理解するためには主が旧約のある箇所を引用しながら説いておられることと、その律法の文脈の上で考えることが求められるでしょう。申命記17章には「死刑に処せられるには、二人ないし三人の証言を必要とする。一人の証人の証言で死刑に処せられてはならない」(申17:6)と書かれています。
 主がいたずらにこの箇所を用いられたのでない限り、ここで問われている「罪」とは本来であれば死刑に処されるに値する程度の罪ということになります。マタイによる福音書の前後のつながりから直近の箇所において海へ沈められたり火に投げ込まれたり天使たちの手に渡されたりするような罪であることが分かるでしょう。

 したがって信仰が弱い「小さな者」が誤ってあなたに迷惑をかけたという程度のことではなく、この箇所では教会の命そのものが損なわれるほどの重篤な意味での「罪」が問われていることであります。使徒パウロの書簡を丁寧に読むならば小さな者をつまずかせては軽んじる者、あるいは自らを軽んじて悔い改めるどころか居直るような者が教会を脅かしていたことが分かるでしょう。
 パウロにしてもペトロにしても使徒という権威においてキリストの名によって裁きを宣することができたはずです(コリントⅠ1:10、フィレ1:8)。このことは主イエスが「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(18)とはっきり言っておられることから明らかです。

 使徒であれば「行って二人だけのところで忠告し」(15)、その人が聞き入れなければキリストの名によって教会からその人を解く権威が与えられているのです。それでもペトロは「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです」(ペトロ一4:8)と教会へ書き送りました。
 罪は罪であると明らかに示しつつも愛をもって覆うことによって悔い改めの機会を罪を犯した人に与えることを使徒は教えています。迫害の中で教会が裏切りに遭い、愛する家族が無残にも殺されるような状況にあって「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」(18:22)と手放しに説くことはペトロとしても極めて困難を覚えたことでしょう。

 無条件に主が7の70倍までも赦しなさいと命じておられないことは「言うことを聞き入れたら」(15)という前提にかかっています。21節以下のたとえはあくまでも「どうか待ってくれ」と赦しを請う者への温情が求められているのです。
 「二人ないし三人の証言を必要とする」(申17:6)という厳しい律法を前提として主イエスは「ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい」(16)と命じておられます。彼らの証言によって死刑に処すことができる条件を示しつつも、忠告を聞き入れなかったその人が悔い改めることができるよう愛で覆うことを主は願っておられます。

 「それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい」(17)と手を下す前にご自分の体である教会において扱う機会を主は与えてくださいました。「あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除かねばならない」(申命17:7)と書かれているのですから、当人が悔い改めて罪が赦されるか、教会の言うことも聞き入れないなら教会の交わりから解くことになります(17)。
 あくまでも「聞き入れないなら」すなわち忠告されても悔い改めず、罪を認めようとしない者についての対応です。初めに何らかの危害を被った人や解決のために関わった一部の人たちが十分に傷ついていることをご存じであるので、主は「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」(14)とおっしゃったのです。

 「あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」(19)と目の前に主が現れてくださったなら、あなたは何を求めるでしょうか。「二人または三人がわたしの名によって集まるところ」(20)では何が祈られることでしょう。
 「わたしもその中にいるのである」(20)と言われたのは、教会が深く傷つけられている中でどこに主がおられるのかを思い出させてくださるためです。ご自分のからだである教会、愛する者たちがこれ以上に傷つくことを望まれないので、主は「その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」(17)と手を離すよう命じられました。

 「心を一つにして求めるなら」と主が言われるとき、聞き入れない者や自ら離れていく者が「あなたがた」に含まれていないのは明らかでしょう。異邦人か徴税人と同様に見なすということは、何回赦すべきであるかという話にもならないということです。
 教会が聖潔を保つため、主イエス・キリストと父なる神の御心を行うための手順の原則が聖霊によって福音書の中に記されています。「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(18)という権威が与えられているので、教会は愛によって罪を覆い悔い改めを説き続けます。


<結び>
 「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」(マタイ18:19)

 各個教会もまた自分たちがキリストの体の肢であり部分であることをわきまえつつ、どのような「体質」であるのかを教憲や教会規則として言い表します。都度に話し合って物事を決めることも大切ですが、予め基準を設けておかなければその時々の感情に流されてしまったりその場しのぎになったりすることもあるでしょう。
 教会はイエス・キリストが十字架上で流された血によって贖われ、代価を払って買い取られた者としてふさわしく歩みを整えます。私たちは地上でつなぐことが天上でもつながれると信じ、心を一つにして新生の恵みに始まる聖化の歩みを求めます。

  「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。」(マタイ18:10)

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