マタイによる福音書19章13-30節「愛によって歩みなさい」
2025年10月5日
牧師 武石晃正
10月に入りまして、長雨の季節を覚えつつ「実りの秋」「収穫の秋」において主の恵みに感謝します。人生を四つの季節になぞらえるとして、秋とはあなたにとって生涯のうちどの時期にあたるでしょうか。
この世における富や名誉、権威に強く拘る生き方をしている人にとっては、自身の衰えや地上生涯の終わりはまさに冬であると言えましょう。しかしイエス・キリストを信じてキリストの名のために生かされている者であれば、肉体の衰えこそあれ魂の葉は枯れず果実は絶えることがないのです。
衰え行く自分の力や名誉にすがったまま人生の冬を迎えることと、キリストの愛に満たされて永遠の命に生かされることとどちらが幸せでしょうか。本日はマタイによる福音書を開き、「愛によって歩みなさい」と題してイエス・キリストの恵みを味わいましょう。
1.神に愛されている子供
朗読の箇所は2つの話を含んでおりまして、一つは主が子どもたちを祝福されたこと、もう一つは金持ちの青年との対話であります。どちらもそれぞれに福音書の中でも比較的よく知られている箇所であり、とくに米子教会では主日礼拝の祝祷に際して14節が引用されているところです。
「そのとき」(13)と話が切り出されており、イエスの教えに区切りがついたところを見計らったように「イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た」(13)というものです。なぜ弟子たちがこの人たちを叱ったのか理由までは明かされておりませんが、「人の子には枕する所もない」(8:20)と自ら語られるほど多忙な主を煩わせたくないと思ったゆえでありましょう。
弟子たちに対して主は「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない」(14)とおっしゃって、幼子たちを祝福するべく手を置かれました(15)。子どもたちのために主イエスが祈ってくださったことは事実でありますが、その教えは「天の国はこのような者たちのものである」(14)と語られています。
聖書はこの箇所において、子どもには罪がないとか子どもであれば天の国に入れると教えているのでしょうか。あくまでも主は「このような者たち」と子どもたちになぞらえて天の国に入ることができる者を示しておられるのです。
同じ出来事についてルカによる福音書を開いてみますと、「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(ルカ18:17)と記されています。子どもであれば無条件に神の国に入ることができるということではなく、そこに入ることができるのは実に「子供のように神の国を受け入れる人」なのです。
様々な解釈や説明がなされる箇所でありますが、今から2000年ほど昔のユダヤにおいては現代のように子どもの権利というものはほとんど考えられていなかったでしょう。財産も名誉も権利もこの世に対して持っていない者を指して「天の国はこのよう者たちのものである」(14)と主イエスはおっしゃいました。
では「このような者たち」は誰の子どもであると聖書は教えているでしょうか。使徒パウロはエフェソの信徒への手紙の中で「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい」(エフェソ5:1)と説いています。
パウロはこの箇所において逆説的ではありますが神の国を受け継ぐことができない者たちについて示しています。「すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者」がキリストと神との国を受け継ぐことができないとされておりまして、確かにこれらの者を幼子たちつまり親に抱かれて連れて来られるような者たちの中に見出すことはないでしょう。
神の国を受け入れていない者は地上における富や権利、名誉などにすがっては執着する様子からその正体が明らかにされるでしょう。しかし教会そしてキリストにつながる一人ひとりは神に愛されている子供として、聖なる者にふさわしく愛によって歩みます。
2.永遠の命を受け継ぐ
福音書は続けて「さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った」(16)として、「たくさんの財産を持っていた」(22)とある青年について展開します。ルカによる福音書ではこの青年を「ある議員」(ルカ18:18)と呼んでおりますから、年功序列が明確な当時のユダヤ社会 (ヨハネ8:57、ヨブ32:6) の中で議員になれるほどの家柄だったのでしょう。
事の顛末としては「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」(16)と尋ねた青年が自分の願う答えを得られず、落胆してイエスのもとを去ってゆくという話です (22)。その背中を見送る主の弟子たちへ「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(24)と主がその難しさを明かされました。
流れの上だけで話を追うならば金持ちの青年が去ってゆき、財産を持っていない弟子たちがイエスに受け入れられたという読み方にもなるでしょうか。しかしこの青年と主の弟子たちとの間には一つの共通点があり、福音書は正反対にも見える両者をもって大切な主題を明らかにしようとしています。
青年は主イエスに「永遠の命を得るには」(16)と問いかけ、主は弟子たちに「永遠の命を受け継ぐ」(29)ことを説かれました。つまりこの箇所における主題はいかにして永遠の命を受け継ぐことができるのか、という点にあります。
「もし命を得たいのなら」(17)とイエスから条件を示された青年はモーセの十戒をはじめとする律法の教えを「そういうことはみな守ってきました」(20)と胸を張るのです。その一方で27節に「わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」(27)とペトロが語るところは、弟子たちが既に十分イエスに尽くしてきたはずであるとの主張です。
「まだ何か欠けているでしょうか」(20)と食い下がった青年が「持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」(21)と命じられたときの心境は気の毒なものです。しかし何もかも捨てたはずの弟子たちでさえ「では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」(27)と願い出たのですから、彼らもまた永遠の命ではなくこの世における報いを求めていたことになるでしょう。
天に富を積むことを思って何もかも捨てて主イエス・キリストに従ってきたはずなのに、弟子たちが求めていたのは地上における報いとしての力や名誉でありました。彼らの主が来たるべき王として君臨する暁にはその右と左の座すなわち支配者として主席と次席にしてもらうことを、弟子たちは各々に常々心に抱いていたものです(マルコ10:37、41)。
主イエスが青年との対話の中で弟子たちに示そうとされたのは「持ち物をすっかり売り払って」(13:44,45)憐れみを示された天の父の御心を、あなたも自分の心としなさいというものでした。それはあなた自身を含めた「これらの小さな者」が滅びから免れて命を得ることを天の父は御心とされているからです(18:44)。
金持ちの青年は持ち物を売り払うことを命じられましたが、従うことができずに「悲しみながら立ち去った」(22)のでした。主イエスが「金持ちが天の国に入るのは難しい」(23)「らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(24)と説かれたことに驚きつつも、弟子たちは自分たちが財産を持っていないことに安堵したのではないでしょうか。
ところが主は財産を持っていない者が神の国に入るのは易しいとまでは言われていませんし、たくさんの財産を持っていることそのものを悪であるともされていないのです。富であれ知恵であれ主なる神が祝福として与えてくださったものを自分の名誉や利益のために用いることを戒めて、「貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる」(21)と命じておられます。
福音書が記されたのはこの出来事があってから30年ほどは経った後の年代であり、その時代にはキリストの体である教会は地上にあって様々な困難に直面しておりました。迫害の中で主にある家族が捕らえられては無残にも殺害され殉教していった時代です。
深い悲しみのうちにある教会の中で主イエスが語られた「新しい世界」(28)についての約束を弟子たちが語り継ぎました。主から言葉を授かった使徒たちの口を通して傷ついている教会へ「あなたがたも、わたしに従って来たのだから」(28)と慰めと希望が語られました。
「家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ」(29)とは単に家族や財産を放棄すれば救われるという出家の教えではないことは明らかです。キリストが私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかってくださったのですから、自分の名のためではなく「わたしの名」すなわちキリストの名のために生きる者が永遠の命を受け継ぐのです。
<結び>
「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。」(エフェソ5:2)
実に「天の国はこのような者たちのものである」と説かれたことで、財産や権利に頼らず神の国を「子どものように」受け入れる謙遜な姿勢が必要であると主は示されました。また主は永遠の命を問う青年に対して、富を捨てて貧しい人々に施すことにより天に富を積むよう命じられました。
これは富そのものを悪とするのではなく、富を自分の名誉や利益のためではなくキリストの名のために用いるよう教えるものです。キリストが罪人である私の身代わりとなって死んでくださったのですから、愛によって歩みなさいと招かれた私たちはキリストの名のために永遠の命に生きるのです。
「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り 払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(19:21)