マタイによる福音書20章1-16節「たゆまず善いことをしなさい」
2025年10月12日
牧師 武石晃正
礼拝や日々の歩みの中で「主の祈り」を祈るとき、私たちは「日毎の糧を今日も与えたまへ」と父なる神の前に願います。そして聖書には「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」(申命8:3)とありますから、私たちは食べ物だけでなく神の言である聖書を毎日いただくこと必要とします。
少しずつでもあなたは毎日きちんと聖書を開いているでしょうか。聖書を読んでいるうちに、一見すると正反対とも思えるような箇所に出会うこともあるはずです。
神の無条件の恵みとそれを受け取った私たちがどう生きるのかという責任や勤勉さ、この2つはどのように結びつくのでしょうか。本日はマタイによる福音書を開き、「たゆまず善いことをしなさい」と題して神に喜ばれる生き方を求めましょう。
1.神の国の恵み(マタイ 20:1-16)
日々の生活の中で私たちは「働いた分だけ報われるべきだ」という公平な感覚を持っています。この感覚があるからこそ、私たちは社会の中で誠実に生きることができるといえましょう。
聖書が「たゆまず善いことをしなさい」(テサロニケ二3:13)と命じていることについて、私たちは日本基督教団信仰告白において「愛のわざに励みつつ、主の再び来たりたまふを待ち望む」と告白しています。その一方で本日の朗読箇所における主イエスの教えは一見すると不公平なものであり、二つの聖書箇所はそれぞれに異なる真理を私たちに与えているようであります。
この二つの聖書の真理を掘り下げて、主なる神の限りない「気前のよさ」について読み解いてまいりましょう。これによって私たちはこの世で「たゆまず善いことをする」ための最も力強い確信が得られるはずです。
主イエスが「天の国は次のようにたとえられる」(1)とぶどう園のたとえ話を語られました。この教えは、私たちが持っている「公平」の感覚を根底から揺さぶるようです。
たとえにおけるぶどう園の主人は父なる神を表しております。この主人は、夜明けから、そしてその後も午前9時、正午、午後3時、さらには日暮れ間近の午後5時にも何度も広場へ足を運んだというのです。
労働者はそれぞれに雇ってもらえるかどうかという期待と不安を抱えながら広場に立っています。すると午後5時まで立っていた人々の胸にあったのは、「誰も雇ってくれない」という深い不安と絶望だったことでしょう。
主人は朝早くから仕事を得る安心感を得られた者の労苦よりも、誰からも必要とされずに夕方を迎えようとした人々の不安を知っておりました。ですからこの気前の良い主人は雇い主を得られていない労働者を捜すために、何度も何度も広場へ足を運びました。
ぶどう園の主人が全ての労働者に支払った「一デナリオンずつ」(10)という報酬は、当時の日雇い労働者にとって一日の生活費であるといわれています。私たちが「日毎の糧を今日もあたえたまへ」(主の祈り)と祈り求めるように、神の前で生かされるための「命の代価」と言い換えることもできましょう。
たとえによる教えの文脈において1デナリオンは、労力や時間に関わらない、すべての信者に等しく与えられる神の無償の救いと永遠の命を象徴しています 。主人の行動は仕事の量や能力に基づくのではなく、誰一人として救いの恵みから漏れることを望まないという溢れる愛と「気前のよさ」の表れなのです。
ところが、最後の時間に来た者たちが契約どおりの一デナリオンを受け取ったのを見て、朝早くから働いていた者たちは不満を抱きました。彼らは「まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは」と不平を漏らします(13)。
彼らが主人との「契約」に基づく保証を求めたのであれば不平や不満にはならなかったはずです。しかし彼らが求めたのは他者との比較に基づく優越性すなわち功績主義でした。
信仰の歩みに当てて考えてみるならば、彼らが後にされたのは早くから主イエスと共にいるという最も貴重な恵みを見失っていたことによるでしょう。主なる神の「気前のよさ」をねたみ、信仰者が自らの年月や努力を誇るときに陥りやすいことです。
主なる神の恵みをねたむ態度は自己中心的あるいは律法主義的な姿勢の明確な表れです。この傲慢と不満によって、キリストに似たものと変えていただくための聖化の歩みが妨げられてしまいます。
神がお与えになる救いは御子キリストの命によって代価が支払われたものです。したがって私たちの努力や功績とは全く無関係に、ただ主の気前のよい愛によって既に無償で与えられているのです。
この主人は「友よ」と呼びかけながらも、「あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか」(14)と私たちに救いの恵みを問いかけます。「あなたと同じように支払ってやりたいのだ」(15)と気前よく豊かに恵みを与えられる主は「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ19:18)と私たちに愛を分け与えてくださいました。
2.恵みに応える勤労と聖化の恵み(テサロニケ二 3:6-13)
主イエスはぶどう園のたとえによる教えによって私たちに功績主義の重荷から解放する神の恵みを示してくださいました。他方で使徒パウロはテサロニケの信徒への手紙二の3章において、その恵みを受けた者の生活における具体的な責任を明確に示しています 。
第1世紀も中ごろ、すなわち主イエスが天に昇られて20年30年と経った年代のことです。テサロニケにあった信徒たちの交わりでは、キリストの再臨が近いという教えを誤解して、「この世の務めや労働は無意味だ」と考えては仕事を放棄したり怠けたりするような人たちが現れました。
教会の共同体における愛のわざや施しに依存する無秩序な生活を送る者たちが現れたのです。この人たちは神の恵みをわきまえ違えたために、「世の終わりとキリストの再臨が近いのだから働かなくても良い」と勘違いしてしまったのです 。
使徒パウロはそのような無秩序な生活に対して、「働きたくない者は、食べてはならない」(3:10)と厳しく命じます。近代では「働かざるもの食うべからず」と意味を違えて用いられることがあるでしょうか、その由来はここにあります。
キリストの救いが無償で与えらえる恵みであるという真理は、信仰生活における倫理的な怠惰の言い訳には決してならないのです。パウロが「主イエス・キリストに結ばれた者として」(3:12)命じるところは「自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい」(同)であり、「たゆまず善いことをしなさい」(3:13)ということです。
では、「たゆまず善いことをしなさい」という命令は、私たちに何を求めているのでしょうか。「落ち着いて仕事をしなさい」と併せて考えるならば、定職にもつかずに教会や地域の奉仕活動に明け暮れるような者についてパウロは「少しも働かず、余計なことをしている者」(3:11)と呼んでいることが分かります。
「善いこと」とは人目を引くような伝道や奉仕活動だけを指すのではなく、第一に神から委ねられた日常的な務めを忠実に果たすことです。ホーリネス信仰が追求する聖化もまた職場や家庭といった日常生活の場にあって、信仰者が落ち着きをもって誠実に自分の役割を果たす態度によって証明されるのです 。
翻って、主は私たちがやむを得ない事情がありながらも主のお気持ちを優先しようとする心と「今は忙しいから」「退職したら」と理由をつけて献身を先延ばしにする態度とをはっきりと見分けておられます。神は私たちの働きそのものの時間や量ではなく、その人自身が主の招きに応える聖化への意志を見ておられるのです 。
たゆむことなく善いことし続ける動機は、罪と不安を抱えたまま一日中広場に立ち尽くしていたような私たちを解放してくださった神の気前のよい恵みにあります。ですから救いを勝ち取るためであるかのように働く必要はもはやありませんし、むしろ命の代価が完全に支払われたことを知るからこそ、その愛に応えるべく自発的に献身の道を選んでたゆまず歩むことができるのです。
わずかな時間しか働かなかった者にも1日分の完全な報酬が与えられるという神の無償の恵みの原則と、「働きたくない者は、食べてはならない」という信仰における生活上の倫理的規律と勤勉の義務が与えられています。ホーリネスの信仰においてもこの2つの真理は神の招きと人間の応答、すなわち救いの恵みと聖化の歩みとして切っても切れない関係にあるのです。
<結び>
「そして、兄弟たち、あなたがたは、たゆまず善いことをしなさい。もし、この手紙でわたしたちの言うことに従わない者がいれば、その者には特に気をつけて、かかわりを持たないようにしなさい。」(テサロニケ二3:13-14)
たとえ人々の目に留まらなくても「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(マタイ10:22)と主イエスが保証しておられます。ぶどう園の主人が「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」(20:6)と労働者に声をかけられたように、私たちの誠実な歩みを主なる神はしっかりとご覧になっているのです。
聖化の歩みとしてのすべての労苦は、必ず神の栄光という実を結ぶのです。キリストは罪のない方として十字架にかかり私たちの命の代価を支払われただけでなく、たゆまず善いことをしなさいと命じて私たちを神に喜ばれる生き方へと変えてくださいます。
「自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」(マタイ20:14)