創世記2章4-9、15-25節「神が結び合わせてくださったもの」
2025年10月26日
牧師 武石晃正
本日は岡山県北部地区と鳥取県西部地区との合同による交換講壇として主日礼拝が捧げられております。本来は地区ごとの交換講壇として行われるものでありましたが、県境を越えはするものの最寄りの地域として霊的な交わりができる幸いを主に感謝します。
交換講壇のために帰天者記念や宗教改革記念の礼拝をそれぞれ翌週へと振り替えてまで、久世教会の皆さまは地区同士の交わりに応じてくださったことであります。教会のかしらである主キリストが久世教会の愛と寛容を見て豊かに報いてくださいますように。
ところで2025年も残すところ2か月となりますが、日本基督教団の教会暦では今週から新しい一年を迎えます。4年周期の「新しい教会暦」ではB年に入り、本日は降誕前第9主日として創世記より「神が結び合わせてくださったもの」と題して取次ぎをいたしましょう。
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1.創造における根源的な結びつき
現代社会は人間関係が非常に流動的また不安定で、結びつきが容易に壊れてしまう傾向にあるように感じられます。万物の創造主である神を信じるキリスト者としての立場から考えるに、この背景には主なる神が創造の初めに意図された真の永続的な「結びつき」を私たち人間が見失っているという現状に思い当たります。
朗読は創世記でありますが、先に新約からマルコによる福音書を開いてみましょう。マルコによる福音書10章は主イエスがファリサイ派の律法学者たちから離婚の合法性また正当性についての問いを受けられたことから話が始まります。
彼らは、モーセの律法が認めている離婚の例外規定の範囲、つまり律法の許容範囲にのみ関心を持っていました。これは人間の罪と失敗が神の前に明らかになった後の現実を、形式的に処理しようとする試みでした。
しかし、主イエスは律法の規定そのものには立ち入られず、問うべき点を根源的な「創造の初め」へと向き変えられました。主はモーセが離婚を許容したのは神の本来の意思ではなく、人間の「かたくなな心」に対する譲歩であったと指摘されたのです(マルコ10:5)。
ここでは離婚という特定の関係に絞って扱われておりますが、人間の頑なさはすべての人間関係に影響を及ぼしていることであります。夫婦関係を含めた人間関係が立ち行かなくなることの根源は取り巻く環境や法的な問題にあるというよりも、まず私たち人間の内側にある自己中心性すなわち罪に根差した「かたくなな心」にあるということです。
主イエスが示された「神が結び合わせてくださったものを、人が離してはならない」(マルコ10:9)という教えは言葉では理解できるものの、非常に厳格なものですから人間の力では到底なし得ないものであります。人間的な見方をすれば「理想」としか言えないほどの水準を前にして、私たちは自らの心の頑なさと御心を成し遂げることができないという弱さに直面するのです。
ファリサイ派の人々は自らの正しさを主張するために主イエスのもとへやって来ましたが、私たちは「できない」という自覚があるからこそキリストの救いという神の変わらざる恵みを必要とするのです。キリストが和解のいけにえとなってくださったことにより、神と人そして人と人との壊れた結びつきを回復させる唯一の道を与えてくださいました。
主は「創造の初めから」(6)とすべての問題解決のために私たちを世界の始まりという原点に立ち返らせてくださいます。その天地創造の原点つまり人間が創造されてまだ神に背く前の時点において、主なる神は結びつきに関わる根源的な3つの原則を定められています。
では創世記に戻りまして一つずつ確かめてみましょう。初めに挙げることができるのは創世記2章にある「人が独りでいるのは良くない」(2:18)との主なる神の宣言です。
人間が相互に依存し助け合い支え合う存在とされており、「お互いさまの関係」に生きることこそ主の御心に適うのです。こうして人はひとりでは生きていけない存在として他者との関わりの中で育てられていくことになります。
そのためにも主なる神は、人間に対してエデンの園を管理する2つの使命を与えられています。これは神にかたどって創造された者の責任として被造物世界を管理するという働きなのです。
2番目がエデンの園へ神が人を置かれた目的としての「人がそこを耕し、守るようにされた」(15)という人間の使命です。この2つの使命「耕す」「守る」と訳されている語にはそれぞれに元の言語において大切な意味が含まれています。
「耕す」とは「仕える」ことを意味し、奉仕の精神をもって関わる態度が定められています。そして「守る」とは「配慮し大切にする」ことであり、保護と管理の精神をもって関係性を維持する態度を表します。
真の結びつきとは自己中心性を捨て、相手に対して仕えることにあります。そして配慮をもって相手を守ることにより、その関係性において積極的な責任を果たすのです。
そして3番目は天地創造の御業において神が男の骨から女を創造されたという事実です。聖書は「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」(創2:24)と、婚姻の不可分性の根拠となる重要な宣言を与えています。
「一体となる」という表現は、聖書において単なる肉体的な結合や感情的な愛以上の意味を持っています。結婚は血縁関係者と同様の常に永続的と見なされる新しい親族関係を、血のつながっていなくともそれ以上の関係を男性と女性の間に作り出すことになるからです。
この創造による永続的な親族の確立こそが、「神が結び合わせてくださった」行為そのものなのです。したがって人間が自らの意志や法律によってこの根源的な結びつきを無効化したり切り離したりすることを、創造主である神は許しておられないのです。
罪が入る前の最後の描写として、聖書は「人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」(2:25)と記しています。これは、完全な信頼関係の中で自己防衛や隠し立てが一切ない、完全に透明化が保たれている状態です。
私たちがこの透明性に近づく出発点は、神との縦の関係が健全であるときに限られます。私たちの弱さや罪を包み隠さずにいわゆる「裸」で神の前に出て行ったとしても、主なる神は私たちを赦し、受け入れてくださいます。
このように主なる神の前における透明性があってこそ、私たちは配偶者や友との結びつきにおいても偽りや自己中心性を排することができるのです。そこで初めて私たちは互いに真の信頼関係を築く出発点を得ることになります。
2. 福音による創造の回復と共同体
福音書では主イエスが創世記から人間の本来あるべき姿を再確認させることで、私たち人間の「かたくなな心」がもたらした破壊を明らかにされました。しかしこの教えはただ倫理的な規範の提示で終わるものではなく、救い主であるキリストが私たちに与えてくださる贖いと回復への道を示すものです。
「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」という結婚の不可分性の原則は人間の倫理的な努力によって完成されるのではないのです。創造主であり救い主であるイエス・キリストが説かれたことで特別な意味を持ち、新しい契約においてキリストと教会の関係が夫婦の関係になぞらえて与えられています(黙示21:2ほか)。
キリストが教会を愛し、ただご自身を犠牲として捧げられたことによって救いがもたらされました。従って人が罪に陥る以前の真の結びつきを生きるための唯一の鍵となるものは、キリストが仕える者となられたように私たちが互いにへりくだって仕え合うことなのです。
言葉を返すならば、私たち人間同士の関係性を妨げる最大の障害は「自己中心」であると言えます。この自己中心性を打ち破る力はキリストの十字架にあり、キリストが自らを犠牲とされた謙遜こそが壊れた人間関係を修復するための神の唯一の方法であります。
そして主イエスの犠牲と謙遜こそ私たちが倣うべき愛の源です。私たちはこのキリストの愛に倣うことによって、人間が創造された役割である「仕える」ということを実践できるようになるのです。
他方でマルコによる福音書10章の教えは離婚や人間関係の破綻を経験し苦しむ人々に対して重くのしかかる可能性があります。しかし聖書が教えているのは神が恵み深い方であり、どんなに神の基準から外れてしまった人であってもその豊かな憐れみを注いで立ち上がらせてくださるという事実です。
十字架によって成し遂げられたキリストの贖いによって、神が世を御自分と和解させました(コロサイ1:20)。そして主は人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちにお委ねになりました(コリント二5:19)。
救いを受けてキリストと結ばれる人は、過去の失敗や関係の破壊に関わらず「新しく創造された者」(コリント二5:17)と呼ばれます。私たちは土の器のような存在かもしれませんが、この器に満たされた恵みがあふれ出し、内側に生きておられるキリストが世に現されるのです。
新しい創造によって人は神に似せて創られたかたちへと創りなおしていただくことができます。罪によって破られてしまっていた神と人との、人と人との「結びつき」が回復される希望がここにあるのです。
こうして「神が結び合わせてくださったもの」とは夫婦という天地創造以来の人間の結びつきにとどまらず、キリストの体である教会全体に及びます。私たちはキリストの十字架による贖いという恵みによって、この結びつきの真実を教会の共同体において具体的に生きていくために召されているのです。
ですから教会における「交わり」とは単なる仲良しの集まりではなく、私たちが「福音に共にあずかる」ことです。すなわち神の恵みにあずかることにより、神に対する奉仕すなわち献身において互いに結ばれているという一体性にあるのです。
つまり教会の「交わり」あるいは結びつきは、主なる神への奉仕という共通の目的によって成り立っています。老若男女問わずあらゆる人がキリストによって結び合わされている多様性豊かな共同体において、教会がキリストをかしらとする一つの体としての一体性を確立することにより「神が結び合わせてくださったもの」の本質を証しするのです。
ただ御言葉を聞くだけではなく、聞いた私たちは神が結び合わせてくださったものを守るために生かされていることです。そのために私たちは神の創造の摂理から2つのことを学び、実践していきましょう。
1つ目は謙遜と自己中心を捨てることです。私たちは自分の「かたくなな心」が砕かれて自己中心的な生き方を捨て去ることで、互いにへりくだる心を身につけることができます。
それは創世記2章において人間に与えられた使命である「耕す」すなわち「仕える」ことの回復です。キリストに贖われた者は互いに「守る」ということを日々の生活の中で実現していくのです。
2つ目は神の前にすべてを明け渡すこと、透明性を保つ決意をすることです。神の恵みに信頼し、幼子のように神の前で隠し包むものを脱ぎ捨てて裸になる勇気を持つことと言いかえてもよいでしょう。
初めの人アダムと妻エバはいちじくの葉で体を覆っただけでなく、歩いて探しに来てくださった神の前から姿を隠しました。罪や汚れを覆い隠してやり過ごそうとするのではなく主なる神に対して透明性を回復することによって、私たちの水平的な人間関係においても偽りや恐れがない真の信頼による結びつきを築き始めることができるのです。
神が結び合わせてくださった結びつきは、人間によって容易に破壊されます。しかしイエス・キリストの十字架による贖いを信じる者に与えられる神の霊によって、私たちは新しく生まれ日々に新たにされ、神に創造された本来の姿へと造り変えていただけるのです。
<結び>
「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。」(創世記2:24-25)
人間関係が時にもろく壊れやすいことは古今東西を問うものではなく、神が創造当初に意図した永続的な「結びつき」を見失っていることに起因します。マルコによる福音書において主イエスは離婚をめぐる問いに対し、「かたくなな心」すなわち人間の内にある自己中心的な性質すなわち罪が原因であることを突きつけました。
創造の初めに立ち返って神の本来の意思を示すことにより、主は私たちに人間の弱さと罪を自覚させてくださいます。神の前に罪を犯した人間は、神との関係ばかりでなく人間同士の関係の回復のために和解のいけにえとしてのキリストの救いを必要とするのです。
また創世記における創造の原点には人が独りでなく「お互いさまの関係」の必要性のうちに創られたこと、互いに「仕え守る」という奉仕と配慮の精神が与えられていることが示されます。そして「一体となる」とは単に夫婦の結びつきにとどまらず、アダムとエバに始まるすべての人間における永続的な親族関係にあるのです。
真の結びつきに関わる原則が天地創造において定められています。神との健全な関係による「裸」の透明性こそが、人と人との真の信頼関係を築くための出発点です。
新しく創造された者として私たちは恵みによって結ばれ、愛のわざに励むよう神の招きを受けています。アダムとエバにおいてすべての人が神に背き、罪において神との間にも人と人との間にも亀裂が生じましたが、神が結び合わせてくださったものとしてキリストが教会という一つの結びつきにおいて私たちを贖いだしてくださいました。
「従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」(マルコ10:9)