マタイによる福音書25章1-13節「目を覚ましていなさい」
2025年10月19日
牧師 武石晃正
秋を迎えて日が短くなるこの季節は豊かな収穫の恵みを覚える時であります。それと同時に私たちが人生の終わりや世の終わり、ホーリネス信仰においては再臨の希望に思いを馳せることもあるでしょう。
聖霊降臨節第20主日の本日は教会暦において1年を終える週を迎え、教会の時代を覚える時期から主を待ち望む期間へと移ろうとしています。主イエスご自身が再臨について「思いがけない時に来る」と予告されたことを覚えつつ、本日はマタイによる福音書を中心に「目を覚ましていなさい」と題してその備えをいたしましょう。
1.世の終わりとキリストの再臨への備え
主イエスは「天の国」を当時のユダヤ式の婚宴になぞらえて、花婿を迎える十人のおとめのたとえを語られました。花婿とは再臨のキリストを示しており、花婿を迎えるおとめたちは神の民を表しています。
血筋を重んじるユダヤの人たちは遠方や遠縁の親戚も祝うためにやって参りますので、それゆえ婚宴はときに1週間にも及ぶそうです。長い婚宴のたけなわに花婿が突如やってくることで祝いの席が大いに湧くのですが、人々を驚かすために青年たちが大声で「花婿が来たぞ」と呼ばわるのです(6)。
このたとえにおいて注意を引くところは、真夜中まで「花婿の来るのが遅れた」(5)ことにあります。主は弟子たちに「その日、その時を知らないのだから」(13)「あなたがたの知るところではない」(使徒1:7)と教えており、たとえにおいてもその時がかなり遅くなるであろうことが言われています。
ただし遅くなったとしても必ず花婿は来ることには変わりがありませんし、むしろ待ちくたびれてしまう頃になることを主イエスは明らかにされています。そしてどれほどその日が遅くなったとしても信仰を絶やしてはならないよう、自ら努めることを主は弟子たちに命じられました。
10人のおとめたちは皆、花婿を迎える役目としてともし火を持っていました。このともし火がたとえるところは信仰を人々の前で言い表すことです(マタイ5:16)。
花婿の到着が遅れたによって「皆眠気がさして眠り込んでしまった」(5)のは、キリストの再臨がなかなか現れないことによる信仰の緩みや人間の弱さを示しているでしょう。主イエスが眠っていたこと自体を咎められたのであれば10人とも失格となってしまいます。
愚かなおとめたちと賢いおとめたちとの間にある明らかな違いは「ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった」(3)という点です。ですからこの箇所における「目を覚ましていなさい」(13)という命令は、単に眠ってはならないということではないことがわかるでしょう。
ともし火を信仰の表れであると捉えるならば、信仰を持ち続けるために神と隣人を愛し、神の御心に従うという生き方そのものが命じられていることです。そして、「油」は「自分の分を買って来なさい」(9)と言われる類のものですから、神の恵みとして与えられる聖霊そのものというよりもキリストを信じる者たちの継続的な応答としての努力や献身を象徴しているものです。
つまりここで言われている「油」とは聖霊の働きによって可能になる日々のきよい生活すなわち聖化の歩みそのものであると言えます。賢いおとめたちが「壺に油を入れて持っていた」(4)のですからその用意は個人的なものであり、他者に分け与えることができないその人自身の責任が問われています。
聖化の歩みは個々の信仰者が自らの努力と忠実さ、そして神の意志に従う生活において積み重ねられていきます。イエス・キリストの救いは信じる者すべてに無償で与えられますが、油を備えておくことは神の招きに対する応答として一人ひとりの責任なのです。
たとえにおいて最も厳しい教訓は「用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り」すぐに「戸が閉められた」ということです(10)。愚かなおとめたちが婚宴の家の主人から「わたしはお前たちを知らない」(11)と告げられた時には手遅れなのです。
とはいえ主イエスがあなたがたを御国から締め出したくてこのたとえを説かれたわけではないことはお分かりでしょう。「あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」(12)と主は私たちに賢いおとめのよう「壺に油を入れて」おくことを求めておられます。
2.ホーリネス信仰における終わりの日への希望
さて私たちホーリネスが掲げる「四重の福音」という信仰において婚宴のたとえはどのように受け止めることができるでしょうか。新生、聖化、神癒、再臨と4つに分けてキリストの恵みを捉えるとき、再臨の王キリストを教会は「花婿」として迎えます。
それでも四重の福音におけるキリストの再臨は単に未来の出来事を指すだけではなく、新生と聖化を経た信仰者にとって救いの完成そのものを意味します。マタイによる福音書の「油の用意」は、このホーリネス信仰において「聖化」の経験と実践つまり信仰におけるきよい生活と密接に結びつけられます。
新生によって信仰のともし火は灯されますが、それを再臨の時まで灯し続けるために「油」すなわち聖化された生活の継続的な維持が必要です。再臨という救いの完成の時を待ち望むので、私たちはますます聖化としてのきよい生活をもって福音を正しく宣べ伝えます。
こうしてきよさを求める生活を続けることが「花婿」であるキリストの来臨が遅くなるような困難な状況下において、信仰を保ち続けることであり魂の備えとなります。賢いおとめたちのように壺に油を入れて持っていることは、キリストを信じる者が恵みへの応答として罪や不従順から離れて神の聖さに与る生活をすることを意味します。
ホーリネスの信仰は救いの完成のために人間がきよい生活のために努めることを求めつつ、最終的な救いの保証は神の恵みによることを教えます。これは「その日、その時を知らないのだから」と戒められるとともに、現在の信仰生活をきよく保つ意識を高めます。
戸が閉ざされる瞬間は突然訪れることですから、「油の用意」としての聖化の歩みは世の終わりに対する緊張感をもって今日という日を神の前にいかに生きるかが問われることです。婚宴のたとえが終わりの日への備えという緊張感であるのに対し、ヨハネの黙示録では再臨によって主を迎える者たちの栄光に満ちた姿が示されます(黙示7:9-17)。
ヨハネの黙示録7章9節以下を開いてみましょう。ここでは「天の国」が完成した際の光景が描写され、私たちに究極的な希望をもたらします。
使徒ヨハネが見た幻は、「あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆」(9)が、神の玉座の前に立つ姿です。彼らは「白い衣を身に着け」(9)ており、これは神の聖さと罪からの完全な解放と神の前で義と認められたことを表します。
これは喜びの宴に入ることを許された民が主の御前に集められる姿です。「大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」(14)とあるように、この人々の地上における信仰生活は苦難から免れるものではありませんでした。
しかし壺に油を入れ、目を覚ましていた生活つまり聖化の歩みこそがこの終末的な「大きな苦難」を耐え忍ぶための力を信仰者に与えるのです。そして彼らの衣がいよいよ白くされたのは彼ら自身の努力によらず、ただ「小羊の血」すなわちキリストの十字架という完全な贖いによるものです。
罪のきよめと神に義と認められる「義認」が最も重要です。「油の用意」になぞらえられる人間のきよい生活は再臨を迎えることへの不可欠な努力ですが、究極的に救いを完成させるのは神の恵みであるキリストの贖いだけなのです。
玉座の前で神に仕えるようになった大群衆は、地上でのすべての労苦から解放されます。「もはや飢えることも渇くこともなく」(16)という完全な安息が約束され、神の小羊であるキリストが自ら彼らの牧者となってくださるのです(17)。
「命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれる」(17)と終わりの日の幻を見たヨハネは綴っています。地上の信仰生活における「目を覚ましていなさい」という緊張感と苦難の中で涙を流した者たちが救い主との完全な交わりに迎えられ、誰にも奪われることのない慰めを受けることになるのです。
人生の終わりもまた「その日、その時を知らない」と主イエスが言われるように、私たちにとって思いがけない時に訪れます。突然であったとしても、主イエス・キリストにお会いできる用意すなわち日々の聖化に生きる者は安心してその日を迎えるのです。
「彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである。」(黙7:16-17)
再臨の時を知らされていない神の民に対し、主イエスは油の用意という「備え」をたやさないよう命じられました。花婿であるキリストの到着を前に、信仰者であっても眠りに落ちてしまうという弱さがあるからです。
備えとは日々の聖化の歩みであり、神の御心に従う生き方を怠らないことにあります。油にたとえられる備えは他の誰かと分けたり分けてもらったりすることができないのです。
弱さがあったとしても聖化の歩みを続けている者は主の再臨への備えがあります。小羊の血による救いの完成という輝かしい希望を受け取ることができるよう、目を覚ましていなさいと主イエスがあなたに命じておられます。
「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」(マタイ25:13)