マルコによる福音書10章17-31節「忠実な者と見なして」
2025年11月23日
牧師 武石晃正
教会に通っておりますと「救われる」という言葉を私たちはよく耳にし、また口にします。その一方で「永遠の命を得る」ということについて、私たちは普段どれほど深く思いを巡らせているでしょうか。
「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)とヨハネによる福音書に記されています。神が独り子をお与えになったほどに世を愛されたその愛の目的は私たちが永遠の命を受け継ぐことであり、これは旧約から新約へと一貫した聖書の主題であります。
降誕前第5主日にあたり、いよいよ主を待ち望む思いが高まるところです。本日はマルコによる福音書を開き、「忠実な者と見なして」と題して神の国にふさわしい歩みを求めましょう。
1.人間にできることではない
朗読の箇所は「ある人」が主イエスの旅立ちの時に走り寄って来て、ひざまずいたところから始まります。マタイによる福音書によればこの人は「青年」であり(マタイ19:20)、ルカによる福音書によれば「議員」(ルカ18:18)であったと記されています。
年功序列が重んじられるユダヤ社会において、この人は若くして富を持ち人々から敬われる地位にあった人物です。当時の社会通念では富は主なる神からの祝福の象徴と考えられていましたから、彼は宗教的にも自信を持っていたことでしょう。
彼は主イエスに「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」(17)と尋ねます。ひざまずいて「善い先生」と呼びかける姿は傍目には謙遜に見えます。
ところが彼は自分自身もまた富と若さと地位によって人々から「善い人」として持ち上げられ高い所にいたのです。この人は主イエスを「善い先生」と呼ぶことで、暗に「あなたなら私の立派さを分かってくれるでしょう」と自分への評価を求めていたようです。
しかし主は彼の期待には乗らず、「神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」(18)とお答えになりました。そして、「殺すな、姦淫するな、盗むな…」(19)とユダヤ人なら誰でも知っている戒めを挙げられました。
なぜ主はあえて彼が知っているはずの戒めを持ち出されたのでしょうか。律法は命令ばかりでなく主を畏れ戒めを守る者へ「あなたも子孫もとこしえに幸いを得る」(申命10:18)と約束していることをこの人に気づかせるためでした。
聖書において「永遠」と「とこしえ」は重なる意味を持ち、命を得ることと幸いを得ることは同列に扱われています。もし彼が本当に戒めを守る心を持っていたならわざわざ「何をすればよいか」と人に聞くまでもなく、神の約束に信頼して生きていたはずです。
それでもこの人は「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」(20)と食い下がりました。「私は立派にやってきました」という彼の思いは神の戒めを真実に守る心というよりは自己満足の域を出ないものであり、厳しい言い方をすれば「偽善」と呼ばれるものでありました。
気を付けるべきこととしては、教会や私たちが重ねた年月や形式的に守ってきたことだけを数えて誇ったり頼りにしたりしてしまうことです。子どもの時から教会で育ち御言葉に親しんでいることは素晴らしいことですが(テモテ二3:14-15)、信仰の中身が問われないならば私たちもこの人と同じ過ちに陥ることでしょう。
主イエスが「あなたに欠けているものが一つある」(21)と説かれたのは単に「貧しい人々に施しなさい」と慈善活動を勧められたのではないのです。この人が指摘されたのは「律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実」(マタイ23:23)を欠いていることでした。
いくら礼拝を守り、奉仕をし、献金をささげていても、その心に神の愛に基づく「正義、慈悲、誠実」が欠けているならば私たちは何と不幸なことでしょうか。ましてそれが「子供の時から」何十年も続いていたとしたら、人生の最も重要な部分が空白のままです。
財産を人生と信仰のよりどころそのものとしていたこの人は悲しみながら立ち去りました。彼は神に頼っているつもりで、実は自分の富という「力」に頼っていたのです。
主は弟子たちに言われました。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」(23)そして「らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(25)と。
ここで問われている「財産」をこの世の力と捉えるならば、単なるお金のことだけではなく人脈、才能、地位、権利、あるいは自分の経験や自尊心なども同類と言えるでしょう。これらのものは私たちがキリストだけにすがることを妨げますから、自分の力を頼りにしてしまうようなこの世に属するあらゆるものが「財産」となり得ます。
驚きつつ「それでは、だれが救われるのだろうか」(24)とつぶやいた弟子たちに対して、主は「人間にできることではないが、神にはできる」(27)と答えられました。人間の力やこの世の価値観では誰も神の国に入ることはできす、死に定められた人間が永遠の命を受け継ぐのはどこまで突き詰めても神の恵みによるのです。
弟子たちは「何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いましたが、彼らもまた「捨てた」という自分の行為を誇りにしたようです。重要なのは捨てた事実そのものではなく、「わたしのためまた福音のために」(29)生きることだと主は私たちに示されます。
家族や農地を捨てればよいというものではないでしょう。キリストのため福音のために生きる者は、迫害でこの世のあらゆるものを失っても永遠の命を受けるのです。
2.忠実な者と見なして
では自分の力では神の国に入れない私たちが、どうやって永遠の命を受け継ぐことができるのでしょうか。その答えをテモテへの手紙一1章12節以下のパウロの言葉に見ることができます。
使徒パウロはここで自分自身のことを「神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者」(13)であったと振り返っています。先ほどの金持ちの人は「子供の時から戒めを守ってきた」と胸を張りましたが、パウロは逆に自分は「罪人の中で最たる者」(15)だと告白しています。
神を冒涜し教会を迫害したほどのパウロが神の憐れみを受け、使徒としての務めに就かされました。それは12節に書かれているとおり「この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったから」にほかならないのです。
パウロが「忠実な者」であったから選ばれたということではなく、神が彼を「忠実な者と見なして」くださったのです。私たちもまたもともと立派で清く正しい人間であったなら、神の憐れみなど必要と思うことさえなかったでしょう。
ところが主なる神は一方的な恵みによって、罪人である私たちをキリスト・イエスにある信仰と愛をもって受け入れてくださるのです。御心を行うより自分の欲するところを先に立ててしまう私のような罪人でさえ、神はキリストにおいて忠実な者と「見なして」くださるというのです。
これこそ私たちが「ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦して義としたまふ」(日本基督教団信仰告白)と告白するところの「義認」の恵みです。中身はまだ不十分であり罪の性質を抱えたままであったとしても、イエス・キリストの十字架の贖いのゆえに神は私たちを「義(よし)」と見なしてくだいます。
制服を着るように「主イエス・キリストを身にまとう」(ローマ13:14)ことによって、神は私たちをキリストにある者として見てくださるのです。その一方で「見なされる」ということは中身がまだそこに至っていないのですから、私たちはこれに甘んじて「見なされた」だけの未熟な者に留まっているわけにはいかないでしょう。
「務めに就かせてくださった」(12)とこの箇所においてパウロがいうところの「務め」とは、「この方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となる」(16)ことです。これは使徒として奇跡や特別な働きを行うこととは異なりますから、神の憐みを受けキリスト・イエスによる信仰と愛とを受けた者であれば誰もが果たせる務めです。
主なる神が私たちをパウロと同じく忠実な者と見なしてくださるのは、私たちがやがて名実ともに忠実な者へと変えられていくためです。「成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長する」(エフェソ4:13)ことによって、私たちは「あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5:48)という主イエスの命令を全うするのです。
この世に生きている不完全な私たちが「見なされた」義にふさわしくなるために、私たちの内側の罪がきよめられる必要があります。父・子・聖霊の名によって新しく生まれた人が実質もキリストに似た者へと変えられていく歩みこそ、ホーリネス信仰である「四重の福音」における「聖化」の恵みです。
「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」(テモテ一1:15)。この真実の言葉に信頼する者は私たちを忠実な者と見なしてくださる主の恵みに応え、永遠の命への希望をもって聖化の道を歩みます。
<結び>
「イエスは彼らを見つめて言われた。『人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。』」(マルコ10:27)
「永遠の命を得るために何をすべきか」と尋ねた金持ちへ主イエスは律法の掟を示しつつ神の約束に生きるよう促しましたが、その人は財産への執着ゆえに立ち去りました。主は「人間にできることではないが、神にはできる」と教え、この世の力では救われることはできないのだと弟子たちへ明らかにされました。
ただキリストを信じる信仰により神の一方的な恵みよって義とされた者を、主なる神は内側からきよめて作り変えてくださいます。子なる神キリストは十字架で私たちのすべての罪を贖ってくださっただけでなく、忠実な者と見なして私たちを永遠の命にふさわしくきよめてくださるのです。
「わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。」(テモテ一1:12)