マルコによる福音書12章18-27節「生きている者の神」

 2025年11月9日
牧師 武石晃正

 現代の日本において、私たちはよく「今の生活が十分に幸せなのでキリストを信じたり、『復活』などという非現実的なことを考えたりしなくても、私たちは十分に満足しています」と感じている人々に出会います。これはこの世の暮らしぶりあるいはこの地上での人生がすべてであり、そこで幸福が完結しているという考え方だと言えます。
 確かに手で触れたり目で見たりすることができるものは人間にとって直感的に頼りとしやすいものであります。ところが今の時点で財産や健康あるいは職業や地位というものが幸せを保証するものであるならば、それらが損なわれたとき一体どうなることでしょう。

 幸せそのものであると感じていたものが失われるとき、私たちは生きる希望まで危うくなることさえあるのです。あなたにとって生きているとはどのような意味があるのか、あなたの人生の支えとなるものは何であるのか、本日はマルコによる福音書を開き「生きている者の神」と題して神の言葉から考えてみましょう。


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1.生きている者の神と復活の希望

 本日開いておりますマルコによる福音書12章には、まさにこの世における幸せこそすべてであるといった考えを持つ人々が登場します。それが「復活はないと言っているサドカイ派の人々」(18)です。
 彼らは当時の祭司や上流階級を代表するエリートであり、現実的な力と富、そして高い地位を持っていました。サドカイ派の人々にとってこの世はすでに満足のいく場所だったため、死んだ後の「復活」という現状を根底から覆すような教えは不要であり、むしろ秩序を乱す有害なものでさえありました。

 サドカイ派の人々は主イエスが教えていた「復活」という教えをあざけり、論破するために一つの厄介な質問を持ち出します。それはレビラト婚とも呼ばれるモーセの律法にある掟から彼らが独自に考え出した質問です。
 申命記によれば家の名を絶やさないことを目的として、子を残さずに夫に先立たれた未亡人を亡夫の兄弟がめとらなければならないと定められています(申命25:5-6)。この規定を逆手にとるようにしてサドカイ派の人々は「ところで、七人の兄弟がいました」(20)と切り出しては長男も次男も三男も「七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました」(22)という仮定で話を進めました。

 復活を信じない彼らは「復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか」(23)と尋ねるのです。つまり復活を信じるならば現実にはありえないような滑稽なこと起こるのだと主張して、あくまでもナザレのイエスを困らせようというものです。
 主イエスはこの挑発的な質問に対し、「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そのような思い違いをしているのではないか」(24)と切り返されました。そしてサドカイ派の人々の主張について、その誤りを二つの点から根本的に指摘されました。

 一つ目はサドカイ派というものは、復活後の世界を単にこの世の生活の延長線上にあるものとして考えていたことです。これについて主イエスは、「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」(25)と教えられました。
 まずは死においてこの世における権利も義務も奪われることになりますから、既に死んだ者に対しては人間をこの世に縛り付けている「死の支配」が終わります。そして復活した者にはその後は死がなくなるのですから、子孫を残して命を繋いでいくための結婚という制度も意味がなくなるということになります。

 ルカによる福音書では主イエスが「もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである」(ルカ20:36)と教えておられます。復活した者は神の子として完全に新しい存在となるのに、サドカイ派の人々はこの世の論理や枠組みだけで考えていたので、聖書も神の力をも信じることができなかったのです
 二つ目はサドカイ派の人々がモーセの書、とくに「柴」の箇所と呼ばれる出エジプト記における主なる神の言葉を正しく読んでいなかったことです(26、出3:2以下)。この箇所において主なる神はモーセに対して「あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主」(出3:15)とご自身を示されました。

 もしアブラハムとイサク、そしてヤコブがただの過去の存在すなわち死んで消滅した存在であるならば、主なる神は「彼らの神であった」と過去形や完了形で名乗られたはずなのです。それに反して主はここで「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」(27)と結論づけておられます。
 何十年とモーセの律法を聞いてきたはずなのにサドカイ派の人々は肝心な部分を理解していませんでした。日本のことわざに「論語読みの論語知らず」とありますが、キリストの弟子とされた者たちもまた「聖書読みの聖書知らず」と指をさされることのないように襟を正すところであります。

 主なる神が彼らの神「である」と現在形で名乗られたという事実は、族長たちが今も神の中で生きていることを意味します。族長たちが死によって断ち切られずに神によって保たれていることを証拠として示し、主イエスは死者の復活という未来の出来事を神の永遠の約束という確かなものとしてお与えになりました。


2.再臨の希望と聖化の歩み

 世俗主義であることは福音書の時代であれ現代であれ、世の終わりの先に対する希望がないとサドカイ派の人々のように現在の行いがこの世の幸福や論理に縛られてしまいます。このような考え方はすべてをこの世で完結させてしまうため、自らの行為の動機や尺度が世間的な評価や目先の利益に留まりがちです。
 ホーリネスの信仰における「四重の福音」(新生・聖化・神癒・再臨)では、「再臨」という確実な未来として再び来られる王キリストに希望を持っています。キリストの再臨とキリストにある死者の復活に対する確実な希望こそが、信仰者にとって「現在」の生き方を支配し決定づけるものとなるのです。

 いわばキリスト者の信仰においてキリストの再臨は救いの完成であり、信仰の最終的な目標点であります。サドカイ派が否定した「死者の復活」は、主イエス・キリストの再臨の時に全き現実となるのです。
 さて主の兄弟ヤコブはその手紙の中で「行いを伴わない信仰は死んだもの」(ヤコブ2:26)だと教えました。では、私たちの信仰を「生きたもの」とする「行い」はどこから生まれてくるのでしょうか。

 それはまさにキリストの再臨における復活の希望から生まれてくるのです。復活の希望を持たないサドカイ派とは対照的に「生きている者の神」を信じ再臨を待ち望む私たちの「行い」はただの道徳的な義務ではなく、神の力を知っている証として現れるからです。
 ヤコブが説いている「行い」とはユダヤの律法における「行いによる義」とは異なり、ホーリネス信仰の枠組みにおいて具体的に二つの点として現れます。

 第一に「行い」として挙げることができるのは「聖化」を求めることです。私たちの信仰が「生きている」のであれば、「聖化」とはただきよく正しい生活をすることにとどまらず再臨の王キリストにお会いするための備えであるからです。
 これは神の力を知らない者たちが固執した律法の行いによる義とは対照的に、神の霊の御業によって生かされる信仰の「行い」です。この世の論理や人の努力によるのではなく、神の恵みとして与えられる生き方「体験的ホーリネス」においてもたらされます。

 第二の「行い」は再臨への備えとしてキリストの福音を宣べ伝えることです。主イエスは「生きている者の神」を信じることの究極的な目的として「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(16:15)と命じておられます。
 再臨を待ち望む私たちの「行い」は自分自身の救いの保証のためだけではなく、私たち自身がキリストの十字架と復活への確信をもとに次の世代また隣人へと福音を伝える歩みとして現れます。主イエスがご自分を受け入れてその名を信じたこの私に「神の子となる資格」をお与えになったという大きな恵みを家族や隣人へと分け与えるのです。

 このように主なる神は私たちを死んで滅びる存在としてではなく、ご自身の中で永遠に生き続ける者として創造されました。サドカイ派がこの世の論理で復活を否定してこの世で完結しようとしたのに対し、私たちにはキリストが与えてくださった復活の確かな希望があります。
 キリストが私たち罪人の身代わりとなって十字架にかかり死んで葬られたことにより、死ぬべき存在である私たちの魂は救われました。この方が三日目に死人のうちよりよみがえられたことを信じる者には永遠の命が与えられ、キリストの再臨における復活の希望があるのです。

 私たちが「生きている者の神」に仕えているのであれば、神の力が私たちの信仰を「生きたもの」へと日々新しくしてくださるはずです。復活への希望は私たちの人生の困難や試練を乗り越える力となり、再臨の王キリストを迎えるために神の子たちを日々の聖化へ歩みませる原動力となるのです。


<結び>

 「アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。」(ヤコブ2:22)

 復活を否定するサドカイ派の人々は7人の兄弟と結婚した女性は復活後に誰の妻になるのかと、イエス・キリストを試みました。主イエスはこの世と後の世では状況が異なり、復活するにふさわしい人々は死ぬことなく天使のようになると答えられました。
 さらに主イエスは復活の根拠として、モーセに現れた神が「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と名乗られたことを示されました。神は死んだ者の神ではなく「生きている者の神」であるので、族長たちが神の内に生き続けていることから復活を裏付けられました。

 神の言葉を偏ったり歪めたりせず、神の国を正しく受け入れることが正しい信仰です。神から生まれた人は信仰によって生きるのであり、生きている者の神がその人と共におられ再臨と復活を見る日まで聖化の歩みを支えてくださいます。

 「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」(マルコ12:27)


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