マルコによる福音書13章21-37節「主の日は来る」

 2025年11月30日
牧師 武石晃正


 今週から教会暦はアドベントに入りました。アドベントは主イエスの降誕を祝うクリスマスに先立つ4週間でありますが、待降節と記すようにキリストが降って来られる再臨を待ち望むことでもあります。
 先日ホーリネスの群では「信徒・教師共同セミナー」が行われ、ホーリネス弾圧と戦後80年の今を生きることついて学びました。旧憲法下において刑法、治安維持法(改正)、宗教団体法などによりホーリネス弾圧は行われましたが、様々な嫌疑をかけられるなかで最終的に罪状とされたのがキリストの再臨の信仰だったのです。

 弾圧事件は極めて無惨な出来事であったのと同時に、そこまでしなければならないほどに再臨信仰こそキリストの力であると国家が認めざるを得なかったことを表しています。キリスト教の信仰の強みはキリストの再臨にあり、再臨こそ信仰の要であります。
 アドベントを迎え、主を待ち望みつつ世の終わりにおけるキリストの再臨への意識が強まります。本日はマルコによる福音書を開き、「主の日は来る」と題して再臨の王キリストを迎える備えをいたしましょう。


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1.終わりの日への備え

 エルサレム郊外のオリーブ山へ弟子たちを連れ出された主イエスは、世の終わりの時に「苦難」や「患難」が起こることを隠さずに予告なさいました。「主がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない」(20)と言われるほど、それは厳しい時代です。
 苦難の時代に特徴的なこととして「偽メシアや偽預言者の出現」(21-22)が度重ねて警告されています。「これらは産みの苦しみの始まりである」(8)と言われているとおり、終わりの日に先立つ苦難や偽り者の出現が歴史の中で断続的に起こってきました。

 彼らは「しるしや不思議な業」(22)を行いますから私たちは心を奪われないように注意が必要です。奇跡や不思議な現象が見えるからといってそれが直ちに神ご自身によるものとは限らないばかりか、むしろそのような「しるし」を求めて証拠を探そうとする態度こそ相手の思うつぼです。
 使徒言行録19章には、イエスの名を用いて悪霊を追い出そうとしたユダヤの祈祷師たちの顛末が記されています(使徒19:13-16)。彼らは主イエスを信じてもいないのに、その名を呪文のように使いました。

 当人もその気になり周囲の人々もそれを求めていたかもしれませんが、偽物はあくまで偽物に過ぎませんでした。その祈祷師たちは悪霊に襲われ、とんでもなくひどい目に遭う破目となりました。
 「だから、あなたがたは気をつけていなさい」(23)と、主イエスは愛する弟子たちに固く注意を促されました。こうして「一切の事を前もって言っておく」とキリストご自身があらかじめ私たちへ警告を与えてくださったのです。

 弱い存在である私たちは聞いていても忘れたり、目の前の現象に心を奪われたりします。しかし主の言葉を心に留めていなければ、たとえ「私はキリストを信じている」と言っていても本物と偽物を見分けることができずにまんまと騙されてしまうことでしょう。
 それどころか興味本位でしるしや不思議な業ばかりを求めるならば、自ら進んで偽りや曲がった教えを受け入れてしまうことさえ起りえます。あるいは親である者が終末と再臨について正しく心得ていなければ、愛する息子や娘たちが偽教師や偽キリストを求めるようになってしまうかもしれないのです。

 続いて主イエスは終わりの日の様子について「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち……」(24-25)と語られました。これは単なる天体ショーの話ではありませんから私たちは世の人々のように日食や月食を興味本位で眺めるのではなく、主の厳粛な教えを読み取るべきです。
 太陽が暗くなったり月が影になったりするような現象をこれから先も幾度と見ることがあるでしょう。そのたびに私たちは「世の終わりには大きな苦難があり、その後、主が来られるのだ」ということを、子へ孫へと語り継ぐ良い機会とするのです。

 また主は「いちじくの木から教えを学びなさい」(28)と言われます。冬の間は枯れたように見える枝でも、季節が来れば芽吹き、青々とした大きな葉が茂ります。
 春が来る前に夏になったり、秋になってから葉が茂ったりすることはないでしょう。季節における自然界の営みの順序が変わらないように(創8:22)、神の救いの歴史もまた定められた順序で必ず成就します。

 「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(31)と主イエスは断言されました。この世のすべてが過ぎ去っても、キリストの言葉だけは揺らぐことはないのです。
 そしてその時、「人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来る」(26)のです。再臨の王キリストは天使たちを遣わし、「地の果てから天の果てまで」(27)ご自分の民を呼び集められます。

 イエス・キリストを唯一の救い主として心で信じて口で告白する者は、その呼び集められる民の一人として加えられます。大きな苦難の末にこの世と共に滅びるのか、それともキリストに選ばれ呼び集められた者として永遠の救いに入れられるのか、終わりの日に私たちの信仰が明らかにされるのです。


2.目を覚ましていなさい

 その「時」がいつであるかは誰にも分からないことです。繰り返しになりますが主イエスでさえ「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである」(32)とおっしゃっています。
 それゆえに人間が勝手に言い広める「大予言」のようなものは惑わしにすぎず、いつであるかを知ろうとする好奇心はかえって信仰の妨げになるのです。大切なのは「いつであるか」を知ることではなく、「気をつけていなさい」(23)「目を覚ましていなさい」(33、35、37)と繰り返された主の命令に従うことです。

 迫害や苦難という終わりの日の予兆は波のように断続的に押し寄せます。そして私たちはまるで波打ち際で遊ぶ子どものようです。
 さざ波が打ち寄せる穏やかな浜辺だと思っていても、突然の高い波に足元をすくわれることがあります。膝丈ほどの深さなら大丈夫だと思って油断していると潮が引いた次の瞬間に頭から波に飲まれてしまい、ひとたび足を取られればあっという間に沖へと運ばれてしまうのです。

 主の日もまた「まだ大丈夫だ」「今は平和だ」と思っているその時に、突然にやって来ます。使徒パウロがテサロニケの信徒への手紙の中で「人々が『無事だ。安全だ』と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです」(テサロニケ一 5:3)と記しています。
 せっかく主イエスが一切の事を教えてくださったのに、それを心に留めていないならば徴があっても見落としてしまいます。そしてパウロもまた「あなたがたは暗闇の中にいるのではありません」(同4)と目を覚ましているよう私たちを励まします。

 私たちはもはや夜や暗闇に属する者ではなく、使徒が記すとおり「あなたがたはすべて光の子、昼の子なのです」(同5)。それは「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」(テモテ一 1:15)という真実を受け入れた者だからです。
 ただ知識として受け入れただけで私たちの信仰が眠り込んでしまってはいないでしょうか。死んだような信仰とまでは言わなくとも信仰が生きて働いていないなら、終わりの日は「盗人」のようにあなたを襲うことでしょう。

 ところで、現代はインターネットを開けば自分の耳に心地よいメッセージを語る説教者や講師をいくらでも選べる時代です。耳に痛くない話や世の人々の心を奪うような話ばかりをする偽りの教えを見分ける力が私たち一人一人に求められています。
 教会もまた盗人や強盗を自ら招き入れることのないよう、目を覚ましている必要があります。旅に出た家の主人は必ず帰ってくるのですから、その時に教会と私たちそれぞれが眠っているのを見つけられることがないようにしましょう。

 では、どうすれば霊的に目を覚ましていられるのでしょうか。説教を聞いていて眠くなった時であれば手の甲をつねれば痛みで目が覚めるかもしれませんが、私たちが打ち勝たなければならないのは霊的な眠気のほうです。
 イエス・キリストが十字架の上で味わわれたその痛みを思い起こしましょう。主イエスは私たち罪人の身代わりとなって十字架の死をお受けになりましたが、その手足は釘で打ちつけられ、わき腹は槍で刺されたのです(ヨハネ19:34)。

 罪人である私ためにそしてあなたのために主は身代わりとなって痛みと苦しみを受けられました。それは私たちが罪に対して死に義によって生きるためであり、キリストが受けた打ち傷によって私たちはいやされたのです(ペトロ一2:24)。
 あなたのために死んでくださった主がもう一度来られる日が迫っています。この厳粛な事実の前にぼんやりとしていることはできませんから、主の十字架の前に立ってその痛み苦しみを覚えることで私たちはみずからの魂を眠りから呼び起こすのです。


<結び>

 「盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。人々が『無事だ。安全だ』と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。」(テサロニケ一5:2—3)

 世の終わりに偽メシアや偽預言者が出現し、苦難や偽りの教えが起こることを主イエスは予告されました。奇跡のように見える物事に惑わされることなく、主の言葉を心に留めて真偽を見分けることが肝心です。
 終わりの日がいつであるかは誰にも分かりませんが、その日は必ず来るのですから「目を覚ましていなさい」という命令に従うことです。十字架の愛と痛みを心に刻み再臨の希望をしっかりと抱き、「主の日は来る」と言われて今こそ目を覚ましてその日を待ち望みましょう。

 「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」(マルコ13:26-27)


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