マルコによる福音書13章5-13節「最後まで耐え忍ぶ」

 2025年11月16日
牧師 武石晃正

 先日しばらくぶりに抜けるような青空というものを仰ぎまして、まばゆい朝日に目を細めながらもすがすがしい思いを味わいました。前任地が関東平野の北限に臨んでおりましたので、晩秋から冬にかけてはとてもよく晴れていたことを覚えております。
 県下には無形文化財の指定を受けた藍染の工房がありまして、染め物として優れているばかりでなく綿花の栽培に始まり木綿糸の紡ぎ方から手作業で行われているのを見学させていただいたことがあります。藍染にちなんだことわざに「紺屋の白袴」とよく知られておりますが、大きな甕が無数に並ぶ作業場に立った主人の口からは「紺屋の明後日」と侮られたこともあるこぼれました。

 聖書には「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません」(ペトロ二3:9)と世の終わりとキリスト再臨について書かれています。降誕前第7主日にあたり「主の再び来たりたまふを待ち望み」つつ、マルコによる福音書を中心に「最後まで耐え忍ぶ」と題して御言葉を受けましょう。

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1.人に惑わされないように

 マルコによる福音書では11章からイエスと弟子たちが3度目にエルサレムへ向かった出来事が記されています。弟子たちはガリラヤ出身とはいえ生粋のユダヤ人ですからエルサレム神殿は信仰の中心であり、いわば本山といったところです。
 弟子たちとしては都に上ることは心が躍るような道中だったかもしれませんが、ナザレのイエスを殺そうと企んでいる人々にとってもエルサレムはその中心地であります。律法の義務を果たすために神殿に上りつつも、面倒ごとを避けるためにも主イエスは都にほど近い「オリーブ山」へと弟子たちを速やかに連れ出しました(3)。

 カファルナウムから付き従ってきた4人の漁師たちが人目をはばかるように「そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか」(4)と尋ねました。弟子たちは神殿が崩されることを不安に思っておりましたが、主はまず「人に惑わされないように気をつけなさい」(5)とお答えになったのです。
 未来のことを知りたいという好奇心から弟子たちは尋ねたのであり、それに対して主は彼らが必ず通らなければならない困難について正しく理解することを求めておられます。神殿が崩されるほどの大きな事件によって人々の目と耳と心が奪われるとしても、主の弟子たちには「人に惑わされないように」気を付けるべきこととして2つ挙げられています。

 一つはキリストの名を騙る者が現れて宗教的に世の中を惑わすことです(6)。それも大勢現れると言われているように一人や二人ではなく、使徒たちの時代から近現代に至るまで古今東西で偽キリストが実際に数多く現れたことです。
 もう一つは国際的な紛争や自然災害などによって大きな規模で秩序が乱れることです(7-8)。四半世紀もの昔20世紀末には世の中ばかりでなくキリスト教界の中にも終末的な思想が流行したものですが、「そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない」(7)との御言葉をわきまえていた人たちは慌てることがなかったでしょう。

 「これらは産みの苦しみの始まりである」(8)と言われておりますから、年代や時代を超えて断続的に繰り返し起こるものです。痛みや苦しみは避けることができないとしてもその先にあるものが肝心であるので、出来事に心を奪われることのないよう「あなたがたは自分のことに気をつけていなさい」(9)と主イエスは私たちに命じておられます。
 戦争が起きたらどうしよう、また大地震が起こったらどうしよう、と不安になる気持ちは信仰者であっても抱くことがあります。けれどもそこだけにとどまっていたのであれば、キリストの弟子であってもこの世の人々と何ら変わりのない存在になってしまいます。

  「自分のことに気をつけていなさい」と主が命じておられるのですから、私たちは防災訓練と同じかそれ以上に心を配って備えをする必要があるのです。ではどのような備えが必要であると聖書は教えているでしょうか。


2.キリストの名のために耐え忍ぶ

 生みの苦しみが向かうところとして「まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない」(10)と主は明らかにされています。そのためにキリストの弟子たちは時に「地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれ」あるいは「総督や王の前に立たされて、証しをすることになる」と告げられています(9)。
 「打ちたたかれ」「立たされ」と受け身で書かれていますから私たちが自ら裁判所や議会、役所などの公的機関へ出向いて宣教活動をせよと命じられているわけではないのです。捕らえられて強いられでもしなければ出会うことのできない人たちのところへキリストの十字架と復活を伝えるために、主が私たちを選んで遣わされます。

 使徒パウロこそこの役割を背負わされた最初の人だったということができるでしょう。キリストを迫害する者(使徒9:1-2)から迫害されるキリスト者となったパウロは「誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう」と自身の歩みを振り返っています(コリント二11:23-33)。
 キリスト者が背負わされる苦難はあくまでも福音を宣べ伝えることを前提としたものです。使徒言行録を注意深く読むならば、彼らの説教は聞くために集まった会衆や整えられた礼拝の場であるよりも法廷で語られている場面のほうが多いことに気づくでしょう。

 だから主は「何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない」(11)と弟子たちを励まされたのです。礼拝や伝道集会の説教であれば牧師でも十分に祈って備えをすることができるのですが、「引き渡され、連れて行かれるとき」という不測の事態においては「教えられることを話せばよい」(11)と主が赦してくださるのです。
 先ほど牧師と申しましたが信徒であっても同じであり、「実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ」(11)と言われています。これも誰彼構わず講壇に立って語ってよいということではなく、引き渡され連れて行かれるときについて説かれた教えです。

 教会の歴史をたどるとき、概して教会が苦難の中また迫害の中で栄えたことが分かります。世俗的な支持を受けることで見た目の上で教会が繁栄するならば、この世の支配が大きく影響を及ぼすので信仰の上では弱体化し無力なものとなってしまうでしょう。
 触れることもできない聖霊なる神の助けを求めることは、肉体を伴って生きている人間にとって極めて不確かなことように感じられます。洗礼を受けた者であってもこの世の力に頼って生きるならば、迫害や困難に直面すると信仰の道を失ってはたとえ肉親であっても身柄を売ってしまうことさえ起ってしまうのだと主ははっきりとおっしゃいました(12)。

 「また、わたしの名のために」と主イエスは話を仕切り直し、ご自分がこれから進もうとされる十字架への道を見据えるように「あなたがたはすべての人に憎まれる」と弟子たちに告げられました(13)。今でこそ「キリスト者(クリスチャン)」という呼び方キリスト教の信者という一般的な用いられ方をされますが、使徒たちが自ら名乗ったのではなく蔑称として「クリスティアノス」(強いて訳すなら「この、キリスト野郎め」など)と呼ばれたことから始まったものです(使徒11:26)。
 公開処刑となった死刑囚の名前であだ名されるのですから、本来であればキリスト者と呼ばれる弟子たちはこの世と折り合いがつくはずもないでしょう。「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(13)と約束されたのは「神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(マタイ12:28)と宣言された独り子である神ご自身です。

 いくらあなたに信仰があると言っても物事の解決のためにこの世的な力に頼るならばキリストの名で呼ばれるにふさわしいでしょうか。いくら子どもの頃から教会へ通って何十年と礼拝に出席したとしても、迫害や困難に直面したときに普段から御言葉と聖霊に聞き従ってきたかどうかが試されるでしょう。
 ホーリネスの信仰は「新生、聖化、神癒、再臨」と四重の福音を題目のように唱えればよいというものはないのです。あなたの内にある「神の種」(ヨハネ一3:9)すなわち聖霊の支配に委ねることで人間的な心や知恵あるいは力が締め出され、全人的にキリストのものとされることが聖化の歩みです。

 また教会も単なる人の集まりや組織ではなくキリストの体でありその部分なのです。会議や話し合いで物事が進められるだけならただの人間の集団に過ぎませんが、聖霊の導きを求め何が神の御心であるかをわきまえることでキリストの名にふさわしく生きるのです。
 聖霊が教えてくださる前に自分の知恵を巡らせてしまったり、祈りの答えが示される前に自分の手で物事を進めてしまったりという弱さが私たち人間にはあります。若くて元気なうちは自分の努力で頑張れば信仰生活でさえ何とか形を整えることさえできるのです。

 信仰だと思っても自分の力に頼っていることに気づかないまま何十年と過ごしてしまったなら、力の衰えを感じたときに信仰を支えるものさえ失ってしまうことになるでしょう。主が手を伸ばされるまで自分の手を出さずに待ち続けることが信仰であり、本当に手も足も出せないような困難にあっても最後まで耐え忍ぶ者として救いを得るのです。


<結び>

 「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(ペトロ二3:9)

 主イエスは弟子たちに対し再臨の時が遅れることや終末の「産みの苦しみ」として偽キリストの出現、国際紛争あるいは自然災害などが断続的に起こることを警告されました。世の出来事に惑わされず「自分のことに気をつけていなさい」と主は命じておられます。
 不安に留まるのではなくキリストの名のために耐え忍び、福音を証しする備えがキリスト者には求められます。使徒たちも地方法院などに引き渡されましたが、主の約束どおりに聖霊によって語りました。

 十字架の死にまで従われたキリストがご自分の名で呼ばれる者たちを「何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない」と聖霊によって助けてくださいます。キリストの十字架によって罪を贖われた者がキリストを生かした聖霊に聞き従って生きるとき、最後まで耐え忍ぶ者として全き救いを得るのです。

 「また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(マルコ13:13)


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