マルコによる福音書7章14-23節「神から生まれた人」
2025年11月2日
牧師 武石晃正
11月に入り今年も残り2か月、教会暦では先週より降誕前の週を数えております。降誕前の期間にはキリストの降誕であるクリスマスへの備えをしつつ、待降として私たちは主の再臨を待ち望みます。
主キリストの再臨においては、キリストに結ばれて死んだ人たちはキリストが死人のうちよりよみがえられたのと同じように復活することになります(テサロニケ一4:16)。このことの証人として教会はキリストに結ばれて死んだ人たちを記念し、また聖餐において主の再び来られる日までキリストの死を宣べ伝えるのです。
本日は降誕前第8主日において召天者記念礼拝として主日礼拝をささげるにあたり、キリストに結ばれて死んだ人たちが新生の恵みから聖化の歩みを辿られたことを覚えます。朗読されましたマルコによる福音書の箇所を中心に「神から生まれた人」と題して神の言葉を受け取りましょう。
1.罪の性質と汚れ
キリストに結ばれると一口に申しましたが、私たちはどのようにしてキリストに結ばれることができるでしょうか。結ばれるのですから深い関係のうちに加えられることであり、まずは弟子とされることから私たちはキリストと結ばれます。
聖書の中でイエス・キリストの言行録ともいえる福音書ではイエスと出会った人々が様々な立場で関わっております。12人あるいは70人と数えられる弟子たちと女性たちの集団、朗読の箇所においては群衆と呼ばれる人々がおります。
群衆も弟子たちも主イエスに出会い、その言葉を聞き、時には5000人以上もの大勢が集まったところでパンと魚を分け与えられたものでした。同じ言葉を聞いて同じ食物をいただいたにも関わらず、キリストに結ばれている弟子たちとそうでない群衆との間には大きな隔たりが生じているのです。
「それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた」(14)と場面が変わったところから本日の話が始まります。それまで主はユダヤの掟の専門家であるファリサイ派の人々と律法学者たちと食事に関するきよめの規定について論じておりました(1-13)。
きよくありたいとファリサイ派の人々は求めていたことでありますが、私たちのうち恐らくほとんどの人が正しく清く生きたいと願っていることでしょう。しかし、現実はどうでしょうか。
主イエスはファリサイ派の人々が「手を洗う」などの外面的な清さを非常に重んじていた時、全く違うことを言われました。指導者たちに背を向けるように群衆を呼び寄せて語られた言葉は「人の中から出て来るものが、人を汚すのである」(15)というものです。
いくら手を洗ったり身を清めたりしたところで「外から人の体に入るもので人を汚すことができるもの」(15)は何もないと主は言われます。外側へと見せる行為によってその人が清められないのであれば、あるいは神への供え物や献金などの多寡を誇ることはむしろ神の言葉を無にしていることになるでしょう(13)。
ここまでは主が群衆に向けてファリサイ派の人々の聞こえるところで語られた教えです。神の掟に定められた行いを守ることにこだわっていたユダヤの人たちですから、群衆や律法学者たちばかりでなくイエスの弟子たちでさえ「人の中から出て来るものが、人を汚す」(15)という教えを受け入れることは容易ではありませんでした。
人々の目をはばかっていたのでしょう、弟子たちは群衆から離れたところでようやく教えの意味を彼らの主に尋ねることができました。分からないことがあればそのままにせず、時と場所を違えてでも尋ね求めることが弟子たちを群衆と分け隔てるところです。
分からないまま分かったような顔をして放っておいたのでは、キリストの言葉を聞いたとしてもあなたは群衆の中の一人に過ぎないのです。子どもの頃から教会に通っていようと洗礼を受けて何十年と経っていようと、あるいはどれほど熱心に教会で奉仕をしたり多額の献金を捧げたりしても、御言葉を求めず従ってもいない者であるならキリストと結ばれているとはいえないでしょう。
聞く耳のある弟子たちにだけ「中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである」(21)と主イエスは教えの本質を説き明かされました。「みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など」(21-22)あらゆる悪は心の中から出て、その人を汚しているのです。
これらは非常に強い言葉であり聞くだけでも気持ちが穏やかではないことでしょう。しかしながら、実のところ私たちの生まれながらの心の中はあらゆる悪を生み出す工場のようなものであるのです。
したがって外側をいくらきれいに取り繕ったとしても、あらゆる悪が心の中から産地直送で現れては私たち自身を汚れある者とすることになります。悪を生み出す工場のような罪の性質がある限り、善行に励もうと難行苦行を積もうと私たちは根本的な解決を望むことができないわけです。
人の心の奥深くにある罪の性質が悪と汚れを生み出しているのですから、私たちは自分の努力や行いだけで清めることはできないのです。「これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである」(23)と主イエスは聞く耳のある弟子たちへの教えを結ばれます。
2.死から神の命に生かされる
では、この根本的な問題を主なる神はどのように解決してくださるのでしょうか。「そんなに物分かりが悪いのか」(18)と言われても、なお主イエスの教えにかじりついていた弟子の一人が後に手紙の中に記しています。
ここでヨハネの手紙一を開いてみましょう。3章では「御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています」(ヨハネ一3:2)とキリストの再臨における救いの完成に希望を示しつつ、ヨハネは罪の現実に正面から向き合って説いています。
その中で9節には「神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がその人の内にいつもとどまっているからです」(9)と書かれています。すなわちヨハネは私たちに新しく生まれること、すなわち「新生」という経験が必要だと示しています。
気を付けて読むべきは「罪を犯しません」(9)との一言であり、私たちが明日から一切の失敗をしなくなるという意味で書かれているわけではないことです。翻訳上の難しさもあるのですが元のギリシア語の含みとしては、「罪の中にあり続けることができなくなる」とか「習慣的に罪を犯し続けることが本質的に不可能になる」という意味があります。
なぜそのようなことが起こるのか、それは文字どおり「神の種がその人の内にいつもとどまっているから」(9)であります。神の霊によって新しく生まれることで私たちの内側が神の清い性質へと造り変えられたので、あらゆる悪と汚れを生み出す仕組みが心の中から締め出されていくのです。
「神の種」と呼ばれるものがキリストを信じる者たちの内にいつもあるということですから、すなわち新しい命が与えられてどんどん成長してゆくことになります。心の中に神の命が与えられるのであらゆる悪いものを生み出していた性質が造り変えられるのです。
新しい命が与えられ正しい生活へと変えていただくのがホーリネスの「四重の福音」でいうところの「聖化」であります。そして自分の力ではなくキリストを信じる信仰を通して与えられる恵みによって私たちは内側からきよめられ、「聖化」の歩みとして根本的な生きる方向性が変えられるのです。
では、自分が本当に「神から生まれた」かどうか、その証拠はどこにあるのでしょうか。使徒ヨハネは「互いに愛し合うこと」(11)というキリストの教えに照らしたうえで、「兄弟を愛している」ことを「死から命へと移ったこと」の証拠としています(14)。
そこには「わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです」(14)とはっきりと記されています。兄弟を愛するということはこの世的な人間愛とは異なり、あなたがキリストを愛しているのであればキリストが愛しておられるこの兄弟をあなたも愛するはずであるということです。
それに対して憎しみや無関心というものは、天地創造の時代におけるアダムの息子カインに代表される古い生き方です。カインもアベルも主のもとに献げ物を持って来ましたが(創世4:3-4)、カインは「自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかった」(ヨハネ一3:12)のでアベルを憎んで殺してしまいました。
兄弟に対する憎しみは主イエスが「殺意」として指摘された、汚れた心から出てくる最たるものです(マルコ7:21)。そして使徒ヨハネもまた兄弟を憎むことについてその人がまだ霊的な死のうちにとどまっていることの証拠であると断言しています(15)。
しかし神から新しい命を与えられた者は、他者への愛によってその命が確かに宿っていることを知るのです。しかも、その愛は単なる感情論ではなく「子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう」(18)と行動とともに強く勧められています。
困窮している兄弟姉妹を見て見ぬふりをするならば、どうして神の愛がその人のうちにあると言えるでしょうか。キリストご自身が十字架における死にまで従うという自己犠牲の愛によって私たちの身代わりとなられたのですから、主の復活にあずかる私たちの愛もまた具体的な行動となって心の中から生み出されるのです。
<結び>
「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。」(マルコ7:20-21)
先に天に召された信仰の先達たちもまた「神から生まれた人」として、もがきつつ不完全さを抱えながらも「聖化」の道を信仰によって歩まれたことでしょう。この方々が神の前に受け入れられたのは立派な功績を残したからではなく、ただキリストに結ばれていたことによるのです。
イエス・キリストを唯一の救い主であると信じ告白する者にとって、死は絶望的な終わりではなく天の故郷へ帰り着くための通過点であります。今はまだ地上に残されている私たちもキリストに結ばれているなら新しい命に生きる者であり、神から生まれた人は新生から始まる聖化の歩みを経て神のもとへと向かいます。
「神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません。」(ヨハネ一3:9)