マルコによる福音書1章1-8節「悔い改めの洗礼」

 2025年12月14日
牧師 武石晃正

 12月も半ばを迎え、世間では年末の賑わいの中にクリスマスの装いがあちらこちらで見られます。米子教会では12月13日に教会学校のクリスマス会を皮切りに、今週のコンサートからクリスマスイブまで行事が催されます。
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)という天地創造に始まって以来最大級のプレゼントが天の父から与えられています。子なる神キリストが私たち罪人の友となられたばかりでなく同じ罪人と数えられてくださったことを覚えつつ、本日はマルコによる福音書を開き「悔い改めの洗礼」と題して救いの恵みを味わいましょう。


PDF版はこちら


1.クリスマスが先か、福音の初めが先か

 マルコによる福音書は冒頭に「神の子イエス・キリストの福音の初め」(1)との宣言がおかれた上ですぐに洗礼者ヨハネの話が切り出されています。いわゆる降誕について触れているマタイによる福音書とルカによる福音書においても、幼少期について限られた記述がなされた後は直ちに洗礼者ヨハネのことに切り替わります(マタイ3章、ルカ3章)。
 そもそも「クリスマス」や「降誕節」という語は聖書の中に見ることはありませんし、弟子たちが主の降誕を祝ったという記述もないのです。むしろ4つの福音書に共通していることは、イエス・キリストの福音の始まりを洗礼者ヨハネに置いていることです。

 本日の前半では使徒たちから始まった教会がイエス・キリストの福音の初めというものをどのように捉えていたのか、あるいはクリスマスがいつから教会で祝われるようになったのかを考えてみましょう。実は主イエスの誕生そのものを扱っているのは四福音書のうちルカによる福音書だけであり、ルカは使徒パウロの同行者ではあったものの福音書の記者のうち唯一の異邦人(非ユダヤ人)でした(コロサイ4:10-14)。
 旧約において主なる神が与えたもうた救いの約束を待ち望んでいた民イスラエルに生まれ、自身もユダヤ人であった使徒たちはイエス・キリストの福音を語るには洗礼者ヨハネから始めます(使徒10:37)。確かにマタイによる福音書には「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった」(マタイ1:18)とありますが、そこでは主イエスの誕生そのものよりも養父であるヨセフがダビデ王の血筋であったことを明らかにしています。

 一方でマルコは直接の使徒ではないもののペトロが「わたしの子」(ペトロ一5:13)と呼んでおり、ヨハネとも呼ばれる彼はバルナバのいとこであり(コロサイ4:10)使徒パウロに同行したこともありました(使徒12:25)。またエルサレムにあった彼の母マリアの家は主の弟子たちの隠れ家のような場所でありましたから(使徒12:12)、マルコは使徒たちばかりでなく主の兄弟ヤコブらとも非常に親しい「弟分」のような存在といえましょう。
 ナザレのイエス直系の弟子たちの間では降誕そのものよりも罪のない神の子が「悔い改めの洗礼」を受けて「罪人」と同じくなられたこと、更には十字架で死なれた方が復活して彼らに現れたことを喜びつつ尊んでいたようです。「飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子」(ルカ2:16)についてはルカだけが記しておりますが、主イエスがヨハネから受けられた洗礼については四福音書すべてが漏らすことなく証しをしています。

 もちろんルカによる福音書に記されている事柄も聖霊の働きによって教会の中で受け継がれた真理でありますが、使徒言行録の中にはいわゆるクリスマスを祝ったという記述はないのです。教会の家族たちは集まってパンを裂いては主の十字架による死を告げ知らせ、過越祭の時期になれば復活を大いに祝ったことです。
 ではクリスマスがいつごろから教会で祝われるようになったのでしょうか。諸説あるようですが古代ローマで異教の太陽神の祭だったものを紀元4世紀にキリストの誕生を祝う日として取り入れたと伝わっています。

 日が短くなる冬至には太陽神が一度死んで復活あるいは誕生するということを祝う祭りが行われておりましたから、教会は「まことの光で、世に来てすべての人を照らす」(ヨハネ1:9)キリストこそ復活の主であると対抗したのでしょう。それを教皇ユリウス一世の時代に冬至とされていた12月25日をキリストの誕生を祝うクリスマスとして教会暦に定めたということです。
 更に20世紀の日本に限ってはまた別な事情がありまして、1926年に大正天皇の崩御によって12月25日が「大正天皇祭」という祝日になりました。この日が祝日になったことはクリスマスが年末の一行事として日本に浸透するきっかけの一つでした。

 このようにいわゆるクリスマスという祝祭についての定めも12月25日であるという根拠も聖書には具体的に示されてはいないものでした。このようなわけですから世の中でクリスマスとは名ばかりでごちそうや贈り物に賑わうとしても、そもそも異教的この世的ないわれのあることを考えれば無理もないことだと言えるでしょう。


2.悔い改めの洗礼

 使徒たちから始まった教会はイエス自身から与えられた「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(マタイ28:19-20)との命令を守り続けます。お誕生日を祝うよりも主が命じたことを守るように教えること、罪のない方が私たち罪人の身代わりとなるため悔い改めの洗礼まで受けられたことを宣べ伝えたのでした。
 日本基督教団信仰告白においてはキリストの体である教会の務めが告白されるにあたり、公の礼拝を守ることがまず挙げられます。そして教会が福音を正しく宣べ伝えることと聖礼典の執行について告白しています。

 主の死を告げ知らせる聖餐を教会は時を定めて行います。洗礼において「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(ヨハネ3:5)との主イエス・キリストの御言葉が明らかにされます。
 独り子である神が肉体をもって世に生まれるために聖霊によってマリアに宿られました。この方を信じる者が洗礼によってキリストと結び合わされ、聖霊を受けて新生の恵みに与るのです。

 この大いなる恵みを届けてくださるために御父は御子を世に遣わされました。このことを思い返すとき、「悔い改めの洗礼」を宣べ伝えた洗礼者ヨハネを「神の子イエス・キリストの福音の初め」とされている意図が伝わってくるでしょう。
 改めてマルコによる福音書に聞きましょう。主の道を整えよと告げる「荒れ野で叫ぶ者の声」(3)こそ洗礼者ヨハネでした。

 まっすぐな道を整えるためには高速道路や鉄道の盛り土のように土を盛り上げますが、さらに預言者イザヤを通して主なる神は「わたしの民の道からつまずきとなる物を除け」(イザヤ57:14)と命じます。イザヤの言葉は「へりくだる霊の人に命を得させ 打ち砕かれた心の人に命を得させる」(イザヤ57:15)と続き、かくして洗礼者ヨハネは「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」(4)のです。
 「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ3:2)と言われているうちに御声に聞き従った者たちは「ヨハネのもとに来て、罪を告白し」(5)ました。そしてヨルダン川でヨハネから洗礼を受けました。

 「受けた」というのですから自分から水に潜ったとか、水垢離(みずごり)のように自分で水を浴びることではないのです。水に沈められることで古い自分が葬られ、水の中から上げられることで新しい命を受けて生まれ変わります。
 「毛衣を着、腰に革の帯を締め」(6)て荒れ野に立つ洗礼者ヨハネの姿はまさに預言者イザヤその人のようにユダヤの人たちの目には映ったのでしょう。なんと「ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来た」(マタイ3:7)ほどに宗教指導者たちでさえヨハネの洗礼を無視することができなかったのです。

 「わたしよりも優れた方が、後から来られる」(7)とヨハネが宣べるところは、預言者イザヤを通して「あなたの救いが進んで来る」という神の救いです(イザヤ62:11)。「見よ、主は地の果てにまで布告される」と告げられたように、今やイスラエルの聖なる方がイエス・キリストとして世に来られたことが世界中に宣べ伝えられています。
 「わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」(8)というヨハネの洗礼を4つの福音書は伝えています。そして十字架と復活の主キリストご自身が「あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」(使徒1:5)と教会へ聖霊をお与えになったのです。

 聖霊によってマリアに宿り、全き人として世にお生まれになった神の子キリストが洗礼者ヨハネから「悔い改めの洗礼」を受けられました。キリストが世にお生まれになったことにより、主を生かしたる聖霊が悔い改めて御子を信じた者たちへ与えられます。
 神が人として世にお生まれになったばかりか、「正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです」(ペトロ一3:18)。私たちが罪に対して死んで義によって生きるようになるためにキリストが十字架にかかって罪を担ってくださったこと、この方を信じて悔い改めの洗礼を受ける者に聖霊をくださること、これが全能の父なる神からのクリスマスプレゼントです。


<結び>

 「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」(マルコ1:4)

 洗礼者ヨハネは主の道を備える者として悔い改めを宣べ伝えました。使徒たちの教会では主の降誕を祝うクリスマスよりも、キリストの福音の始まりをヨハネによる悔い改めの洗礼に見出します。
 罪のないキリストが私たち罪人の身代わりとなるため洗礼まで受けられました。教会は「父と子と聖霊の名による洗礼」を授けることを主の命令として守ります。

 人として生まれたキリストが十字架の血によって私たちの罪を贖ってくださいました。御子を信じる者には聖霊による新生の恵みすなわち永遠の命が与えられ、「悔い改めの洗礼」によって私たちは真の贈り物を全能の父なる神より受け取ったことを喜びましょう。

 「わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」(マルコ1:8)


(引用「聖書 新共同訳」©日本聖書協会)


このブログの人気の投稿

マタイによる福音書27章32-56節「十字架への道」

ルカによる福音書24章44-53節「キリストの昇天」

マタイによる福音書20章20-28節「一人は右に、もう一人は左に」