マルコによる福音書7章1-13節「御言葉を宣べ伝えなさい」

 2025年12月7日
牧師 武石晃正


 「主を待ち望むアドヴェント」(讃美歌21 242番)とクランツのろうそくが待降節の週ごとに1本ずつ灯されてゆく讃美歌があります。主の降誕を祝うクリスマスに備えつつ、私たちは使徒たちでさえまだ見たことがないキリストの再臨を待ち望みます。
 ナザレのイエスこそ神の子キリストであり、この方だけが救い主であることを聖書は一貫して証しをしています。そして人々に悔い改めを迫る「天の国は近づいた」(マタイ3:2、4:17、10:7)との呼び声は洗礼者ヨハネから主イエスに引き継がれ、使徒たちに委ねられた福音の真髄であります。

 近づいたばかりでなく「神の国はあなたたちのところに来ている」(マタイ12:28)というところまでキリストの来臨は迫っています。「わたしは戸口に立って、たたいている」(黙示3:20)とおっしゃる方があなたにとって裁く方でとなるのか共に食事してくださるのか、本日はマルコによる福音書を開き「福音を宣べ伝えなさい」と題してキリストの言葉を受けましょう。

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1.神の言葉を無にしている

 マルコによる福音書7章では主イエスが宗教指導者であるファリサイ派の人々や律法学者たちと対決しておられます。彼らはわざわざエルサレムからナザレ人イエスの様子を視察に来ていたわけですが(1)、その目はイエスと弟子たちの「手」に向けられました(2)。
 「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」(5)とユダヤの指導者たちはイエスに問い詰めます。ここで言う「汚れた手」というのは宗教的な儀式としての手洗いをしていないという意味であって、子どもたちが「手を洗いなさい。うがいをしなさい」とうるさく言われることとは違うのです。

 当時のユダヤの教えでは「昔の人の言い伝え」として身を清めることが定められており、外出からの帰宅時や食事の前には独特の方法で念入りに手を洗うのでした(3,4)。彼らにとってそれは神の民としての誇りであり、異教徒や罪人の汚れから自分を守るための大切な聖別のしるしでもあったのです。
 熱心さにおいて「神に従いたい」「きよくありたい」という思いはファリサイ派の人々や律法学者たちはとても真剣でした。その思い自体は私たちのホーリネス信仰が大切にしている「きよめ」への求めと重なるものがあります。

 しかし主イエスは彼らに対して「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ」(6)と衝撃的な言葉を投げかけられました。この箇所に記されている「偽善者」とはもともと「役者」という意味の語が用いられており、仮面をつけて舞台の上で自分ではない誰かを演じる人を指しています。
 主は彼らの熱心な手洗いが実は神への愛から出たものではなく、自分たちの宗教的な熱心さを表すための「演技」になっていることを見抜かれたのです。熱心な宗教家を演じる役者たちに向け、主イエスは「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」(8)と彼らの決定的な間違いを指摘されました。

 主なる神が本当に求めておられる「掟」とは何でしょうか。ある人が「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」と答えたとき、主イエスは「正しい答えだ。それを実行しなさい」と太鼓判を押しました(ルカ10:27-28)。
 ところがユダヤの伝統にしがみついた人々は自分たちの作った細かな規則を守ることに必死になるあまり、肝心の愛を見失ってしまったのです。その具体的な例として、主イエスは「コルバン」という言葉を挙げられました(11)。

 「コルバン」とは「神への供え物」という意味ですが、この人たちは神への献身を口実にして十戒にある「あなたの父母を敬え」(出20:12)という神の掟を破っていたのです。主イエスはこれを「神の言葉を無にしている」(13)と厳しく責められました。
 「これと同じようなことをたくさん行っている」(13)と聖書の言葉に耳を傾けるとき、これは2000年前の遠い国の話ではなく私たちへの警告でもあります。アドヴェントのこの時期に私たちは忙しくなり、教会の飾り付けやクリスマス祝会の準備などに追われます。

 それらは素晴らしいことであり、美しい「伝統」ではあるのです。しかし、もし私たちが教会の行事を成功させることに必死になるあまり、家庭で不機嫌になったり職場での責任をおろそかにしたりであったならどうでしょう。
 教会が忙しいから家や職場のことは後回し、そうなってはせっかくの奉仕も現代の「コルバン」となってしまうでしょう。外面的なクリスチャンらしさは完璧でも、ファリサイ派の人々の手を洗う儀式のようです。

 心の中に愛がなく私たちの内側にイライラや高慢あるいは批判的な思いが渦巻いているなら、きっと主は次のように言われるでしょう。「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている」(6)と。
 汚れとは洗っていない手から入るのではなく、私たちの心の中から出てくるのです(マルコ7:20-23)。アドヴェントの備えとは家の掃除やクリスマスの飾り付け以上に、神の言葉による心の掃除であるともいえましょう。

 キリストの十字架の血潮によって私たち一人ひとりが心の中にある「自己中心」「偽善」「冷たさ」という罪の性質をきよめていただきましょう。再臨の王キリストの前にきよい心ときよい生き方を求める祈りこそが、主を待ち望むための最良の準備となります。


2.御言葉を宣べ伝えなさい

 ファリサイ派の人々が偽善的な伝統に生きていたのであれば、私たちはいかにして真実な歩みをすることができるでしょうか。ユダヤの人々に対して主イエスが守ろうとされた「神の言葉」を命懸けで次世代に託そうとしたのが使徒パウロでした。
 このパウロがローマの牢獄の中で愛する弟子テモテに宛てたテモテへの手紙二を開いてみましょう。この手紙はいわば遺言であり、4章では処刑の時が迫っていることを悟りつつ彼は「真理の御言葉」へと読む者たちを招いています。

 彼が見つめているのは自分の「死」だけではなく、その向こうにあるキリストの「その出現とその御国」すなわち再臨です(テモテ二4:1)。「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます」との宣言は、まるで法廷での宣誓のようです。
 これほどの厳粛さをもってパウロは愛する弟子に「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい」(4:2)と命じています。なぜパウロは最期にこれを託したのか、それは「聖書」だけが神の霊すなわち神の息吹によって書かれたものだからです(3:16-17)。

 神の息が吹き込まれているのですから聖書の言葉は人を救い、人をきよめ、神の人として完成させる力を持っています。マルコの記事で見たように人間の作った「伝統」や「言い伝え」は時に人を縛っては偽善へと導きますが、神の御言葉だけが人を真に自由にすることができるのです。
 続けて使徒は「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます」(4:3)と警告しています。「人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります」(4:3-4)とは、まさに現代の様子そのもののようです。

 「罪」とか「悔い改め」とか「十字架」といった話は否定的で消極的であるということから敬遠されがちです。「ありのままでいい」「癒やし」「成功」といった耳に心地よいメッセージが好まれるので、キリストの再臨や終末の裁きについては教師であっても語調を弱める者もいないとも限らないでしょう。
 だからこそパウロは愛する弟子テモテへ、聖書は聞く耳のある者たちへ、「折が良くても悪くても励みなさい」(4:2)御言葉を語るようにと命じています。人々が聞こうとしない時でも社会の風当たりが強い時でも、教会は真理を曲げずに福音を語り続けるのです。

 福音は牧師だけが語ればよいのはなく私たち一人ひとりがそれぞれの家庭や職場、学校へ遣わされることにより、教会が「福音を正しく宣べ伝え」(日本基督教団信仰告白)ます。語る言葉とその生き方を通して「天の国は近づいた」という希望を不安の中に生きる人々へ届けること、それがアドヴェントを生きる教会の使命です。
 またパウロは自分の終わりの日を覚えつつ人生を振り返り、「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました」(4:7)と語ります。私たちもまた「主が来られるのをひたすら待ち望む人」(4:8)として、正しい審判者である主が「義の栄冠」を授けてくださるという確信を未来に抱くのです。

 冒頭でも触れたように再臨の王キリストが「わたしは戸口に立って、たたいている」(黙示3:20)と私たちに呼びかけておられます。もし私たちが自分の「正しさ」や「伝統」という殻に閉じこもり心の扉を閉ざすなら、主が戸を叩く音は裁きの音として響くでしょう。
 アドヴェントにおいて主が再び来られることを待ち望みつつ、主にある者たちは自分自身の終わりの日への確信と備えをいたします。そして私たち自身がまず聖書を正しく信じてふさわしく生き、そして子どもたちや次世代の人々の前で確信をもって悔い改めとキリストの救いを宣べ伝えることが、名実ともに主を待ち望む備えとなるのです。


<結び>

 「こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」(マルコ7:13)

 主イエスは形式的な言い伝えに固執するあまり神の掟を無にしていたファリサイ派の人々を「偽善者」であると厳しく批判されました。主は外面的な熱心さではなく心からのきよさと、神への愛と隣人への愛の実践を求めておられます。
 使徒パウロは主の再臨を思いつつ、人々が真理から耳を背ける時代にあっても福音を曲げずに語り続ける使命を弟子に託しました。クリスマスの飾りつけやご馳走の支度も愛のわざであるとはいえ、果たして教会において主を待ち望む備えのほうは万全でしょうか。

 戸口に立っておられるキリストを審判者ではなく救い主として迎えます。「御言葉を宣べ伝えなさい」との使命があなた自身と愛する人々が救われるために与えられています。

「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。」(テモテ二4:2)


(引用「聖書 新共同訳」©日本聖書協会)


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