マルコによる福音書4章35-41節「大きな救い」
2026年2月15日
牧師 武石晃正
早いもので今年は今週の水曜日より教会暦においてレントと呼ばれる受難節に入ります。イースターから遡ること40日、ただし主の復活の祝いである主日(日曜日)を数えませんので実際には46日前からキリストの受難受苦を覚える期間を数えます。
栄光の主がお育ちになられたガリラヤから十字架の苦難へと歩み出されたことを思うとき、聖書は私たちに「いったい、この方はどなたなのだろう」と考えさせます。本日はマルコによる福音書を開きつつ、私たちに与えられている「大きな救い」について深く思いを巡らせたいと願います。
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1.主イエスの権威に目を向ける
「その日の夕方になって」(35)とありますように、主イエスは朝からずっと湖のほとりで群衆にたとえ話を語り神の国の奥義を教えておられました。夕暮れ時になって心身共にお疲れになった主は、ようやく弟子たちに「向こう岸に渡ろう」と声をかけられます。
弟子たちのうち4人はガリラヤ湖を知り尽くしたカファルナウムの漁師たちでした。彼らにとって夕方に舟を出すことは日常茶飯事であり、この湖も自分たちの庭のような場所であったはずです。
とはいえガリラヤ湖は周囲を山に囲まれた地形ゆえに、突如として猛烈な風が吹き下ろす場所でもあります。「激しい突風が起こり」(37)と記されておりますのは、原文では単なる強風ではなく破壊的な暴風雨を意味する言葉が用いられているところです。
波に打ちつけられて舟が水浸しになると、百戦錬磨の漁師たちでさえ「もうだめだ」と死を覚悟するほどだったことでしょう。あるいは漁師たち4人だけであれば舟をどうにでも操れるところだとしても、ほか9人は全くの陸の者たちですので網と魚だけを載せているのとは訳が違うのです。
この絶望的な波風の中で弟子たちは恐れと不安に駆られ、舟の後ろで眠っておられる主イエスを揺り起こしました。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」(38)とは疲れて眠っておられる人物がまさか創造主なる神であろうとは思いも及ばなかったことの表れです。
たった一言ではありますがこの言葉には弟子たちの正直な叫びが含まれており、さらにそこには深い不信仰も混じっていました。彼らの意を汲むならば「先生、私たちはこんなに必死なのにあなたは寝ているのですか」「私たちのことなどどうでもいいのですか」という、主イエスへの非難です。
突風と波に圧倒された弟子たちは目の前の現象に心を奪われてしまいました。神の御子が同じ舟に乗っておられるという最も重要な事実があったにもかかわらず、波の高さや風の音、浸水する舟などの強烈な出来事は彼らの目と耳ばかりか心までも遮っていたのです。
私たちの暮らしの中でも同じようなことが起こります。社会の情勢や経済の不安、健康の問題や人間関係のもつれなど、現代社会には私たちを飲み込もうとする「嵐」が常に吹き荒れています。
そして私たちはそれらの現象や出来事に目と耳を奪われては心を乱し、ついには主なる神に向かって「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」「なぜ助けてくれないのですか」と叫んでしまうでしょう。信仰生活が長くなって祈りが生活の一部となるのは良いのですが、ともすると主イエスを「困った時の助け主」あるいは置き薬のような存在に押しやってしまってはいないでしょうか。
もちろん日々に祈ることそれ自体は良いことです。しかし朝夕の祈りが単なる「心の良い習慣」にとどまるならば、自分の手に負えない大嵐が襲ってくると私たちの主イエスに対する信頼はいとも簡単に揺らいでしまうでしょう。
弟子たちに起こされた主イエスは起き上がると風を叱って、湖に「黙れ、静まれ」(39) 言われました。するとたちまち荒れ放題だった風が止み、湖はすっかり凪になりました。
注目すべきは主イエスの言葉の力です。ただ荒れた天候を穏やかにしたという奇跡ではなく、イエスが発した「黙れ」という言葉は「汚れた霊」を追い出すときに発せられた神の聖者としての命令でありました(1:25)。
主イエスはガリラヤ湖に荒れ狂う突風に対して、創造主としての「権威」を行使されたのです。そこで弟子たちは凪になった湖を見て「非常に恐れ」ました(41)。
嵐の最中には「死ぬかもしれない」という恐怖がありましたが、今彼らが抱いているのはそれとは全く質の異なる恐れです。彼らはこれまでナザレのイエスを「素晴らしい先生」「奇跡を行う預言者」として見ており、自分たちの生活をより良くしてくれる尊いお方という程度に捉えていたわけです。
ところが突風の荒れ狂うガリラヤ湖という死の淵に直面し、そこから命拾いして初めて「いったい、この方はどなたなのだろう」(41)と大きな救いをもたらす方に驚愕させられました。そしてこの方は自分たちの理解をはるかに超えた天地万物を統べる「主」なのだと彼らは悟らされたのです。
ともすれば私たちもまたイエス・キリストを自分の人生という舟に乗せては、ただの旅の同伴者のように扱ってはいないでしょうか。もちろん主は「私の人生を祝福してください」「私の問題を解決してください」という祈りに答えてくださいますが、しかしこの方は私たちの言うことを都合よく聞いてくれるような共連れではないのです。
キリストは十字架で流された血によってあなたを罪と死の支配から買い戻してくださったことにより、あなたの人生という舟の所有者であり船長であります。そしてイエス・キリストは風と湖さえも従わせる支配者なのですから、私たちは目の前に起こる現象ではなくこの「権威」に目を向けることによって嵐の中でも平安を保つ唯一の道を得るのです。
2.押し流されないために
信仰の歩みを舟に見立てて考えるとき、聖書の別の箇所で興味深い記述を見出すことができます。ヘブライ人への手紙を開きますと、2章1節には「だから、わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます」との警告が記されています。
「押し流される」と訳されている言葉は、船が係留されている場所から外れしまい潮の流れで知らず知らずのうちに港から離れていってしまう状態を表しています。「漂流」という航海用語が用いられており、マルコによる福音書における突風や波のような激しい危険ではなく、ここで警告されているのはもっと静かでもっと気づきにくい危険です。
米子教会から最寄りの海辺である皆生(かいけ)海岸は日本海に面しており、普段は地域猫たちが戯れているような比較的穏やかな光景が広がっています。散歩がてらに砂浜に降りれば波打ち際まで足を延ばすこともできます。
ほどよく晴れた日に穏やかな日差しの下を散歩しがてら、寄せる波に足を浸すのは心地の良いものです。ところが晴れていて風もほとんど吹いていないような日にもかかわらず、消波ブロックを超えるような高い波やうねりが押し寄せてくることがあります。
遠くの海で低気圧によって生じたうねりが長い時間をかけて沿岸に届くため、沿岸部では風がやんで天気が回復したように見える時に突然巨大な波が押し寄せます。北陸などでは「寄り回り波(よりまわりなみ)」と呼ばれるようです。
恐ろしいことに「もう嵐は過ぎた」「ここは安全だ」と油断しているその瞬間に足元をすくわれ、海へと引きずり込まれてしまうのです。信仰が押し流されてしまう「漂流」もこれによく似ており、自分では大丈夫だと思っているときに突如として危機が襲います。
激しい迫害や大きな試練の中にいる時はつらい思いをしながらも、私たちの心は助けを求めて主なる神に向かうでしょう。むしろ平穏で何事もない日常の中にいる時こそ、「いっそう注意を払わねばなりません」と聖書は私たちに呼びかけるのです。
日々の忙しさや仕事の責任、趣味の楽しみやあふれる情報、これら一つひとつは必ずしも悪いものとは言えないでしょう。しかしこれらに心を奪われているうちに、私たちは少しずつ少しずつ、主なる神の御言葉という「港」から離れていってしまうのです。
「押し流される」とは主なる神を激しく拒絶することではなく、神から与えられた大きな救いに対して無頓着になることです(ヘブライ2:3)。「まあ、今日は礼拝を休んでもいいか」「聖書を読むのは時間がある時でいいか」と、そうした小さな「無頓着」の積み重ねがいつの間にか私たちの魂をとんでもない遠くへと漂流させてしまいます。
ですからヘブライ人への手紙の著者は次のように言うのです。「わたしたちは、これほど大きな救いに対してむとんちゃくでいて、どうして罰を逃れることができましょう」と。
ここで語られているのは「大きな救い」です。この救いは私たちが何か良い行いをして手に入れたものではなく、御子イエス・キリストが自らの命を捨てて私たちを罪と死の力から買い取ってくださった、あまりにも尊くあまりにも大きな救いです。
世の勢いは私たちを常に押し流そうとします。「自分らしく生きればいい」「この世では巧く賢く生きる必要がある」というような情報の奔流の中で、私たちはどうすれば立ち続けることができるでしょうか。
それは「聞いたことにいっそう注意を払う」ことであり、具体的には主の日ごとに教会に集うことが挙げられるでしょう。御言葉を聴くこと、聖書を開いて主の語りかけに耳を傾けること、それらは流されそうになる私の魂という小舟を太いロープでイエス・キリストという杭に結び直す作業となるのです。
<結び>
「もし、天使たちを通して語られた言葉が効力を発し、すべての違犯や不従順が当然な罰を受けたとするならば、ましてわたしたちは、これほど大きな救いに対してむとんちゃくでいて、どうして罰を逃れることができましょう。」(ヘブライ2:2-3)
ガリラヤ湖の激しい突風に弟子たちは死の恐怖に駆られ、眠っていた主を起こしては「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と叫びました。彼らは目の前の嵐に心を奪われ、創造主が共におられる事実を見失っていたのです。
この世の出来事や現象に目と耳を奪われることなく、世の勢いに押し流されることなく、主イエスの権威に心を向けましょう。主なるキリストがあなたの舟の船長として共に歩んでくださるのですから、「大きな救い」にしっかりと結ばれ今週も留まり続けましょう。
「イエスは言われた。『なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。』」(マルコ4:40)
(引用「聖書新共同訳」©日本聖書協会)