マタイによる福音書12章22-32節「義を行う者」

2025年3月16日
宇都宮上町教会主日礼拝


 昨日(3/15)はこの礼拝堂においてみふみ認定こども園の卒園式が行われました。主の御言葉と先生方の祈りのうちに育まれた25名の園児たちが保護者や来賓に見守られて次なる成長へと向かいました。

 3月4月は日本では卒業や進学の季節と言われますが、教会暦ではイースター(復活節)からさかのぼって四旬節(受難節)を迎えています。イースターは暦の上で「春分の日以後の満月より後にくる最初の日曜日」と定められておりますので、この時期は主の復活に希望を抱きつつ地上で主がお受けになられた苦難を覚えます。


 本日はマタイによる福音書を開き、反対者たちに煩わされる主イエスについて読みました。この箇所を中心に「義を行う者」と題し、キリストの体の肢(えだ)である私たちにおける主の御心を求めましょう。

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(引用は「聖書 新共同訳」を使用)



1.神の国の到来と正しい人
 「そのとき」(22)と切り出されておりますのは直前の文脈を受けた時系列のつながりというよりも、時期を広くとらえて「その時代」「主がガリラヤにおられた頃」という意味合いです。ほかの町々でも見られるように「目が見えず口の利けない人」(22)が連れてこられ、主イエスがその人をお癒しになられたことから始まります。
 「目が見えず口の利けない」ということですから、そのどちらかだけでも生きていく上で非常に困難を覚えることであります。彼をいやしてくださった主イエスの恵みは私たちの知識や理解を超える大きなものでありますが、この箇所での関心事は主のみわざそのものよりも周りの人々の態度に向けられているようです。

 「この人はダビデの子ではないだろうか」(23)とざわめく群集がナザレのイエスを受け入れてはいないことは、弟子たちのように「本当に、あなたは神の子です」(14:33)と拝んでいないことからも伺い知れるところです。心を動かされている群集の声を聞きつけ、ユダヤの宗教指導者であるファリサイ派の人々がイエスのわざを責め立てました(24)。
 彼らが自分たちの正しさを守るためにナザレのイエスを悪者にするのだとしても、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」とは随分とひどい言いようです。議論のための議論であり、よい業が行われていることを認めようとしない者たちによる言いがかりとも言えましょう。

 このような者たちは自分が立っている前提に誤りがあることに気づかないので相手のほうが誤りであると思い込んでしまうものです。その認識が事実と相違あるいは乖離しているため矛盾点を突かれると議論を続けることができず、「屁理屈を言うな」などと声を荒らげたり人が変わったように感情的になったりすることもあるでしょう。
 ファリサイ派の人たちに対して、主イエスは「サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ」(26)と彼らの主張が矛盾していることに追求されました。そして「あなたたちの仲間」(27)と呼ばれる祈祷師たちがユダヤ人の中にもおりましたから(使徒19:13)、ファリサイ派の人々こそ内輪で争うことの一因であり「彼ら自身があなたたちを裁く者となる」(27)ということになるのです。

 「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(28)と主イエスはご自身のわざについて証言されています。もとの文に忠実に翻訳されているので日本語の上では逆説的に響きますが、主イエスが神の霊によっていやしを行われていることが神の国が来ているしるしであるのです。
 神の国の訪れを否定することは神の国に敵意を示すことになりますから、それは主がファリサイ派の人たちについて神の国に敵対しその民を散らしているのだとおっしゃるところです。この箇所にファリサイ派の人々の反応は記されておりませんが、イエスと弟子たちに対する迫害は次第に強まっていくこととなります。

 正しい人の存在や行いによって照らされて、それまでに行われていた不正や非が明らかにされることがあります。するとそれまで得ていた利益や立場を守ろうとする者たちは不当な要求や悪口を言い、あるいは脅しの言葉をかけてその人を排除しようとするものです。
神の霊の働きを否定することは、神の国の到来を否定し敵対することになるでしょう。「神の国はあなたたちのところに来ているのだ」との良い知らせが福音書から私たちに与えられていることを覚え、教会と一人一人にふさわしい証しが求められるところです。


2.聖霊に言い逆らう者と義を行う者
 「聖霊に言い逆らう者」(32)とは一体どのようなことでしょうか。赦されるとされている「人が犯す罪や冒涜」(31)「人の子に言い逆らう者」(32)と併せて考えてみましょう。
 人が犯す罪の中で福音書に記されている赦された例として使徒ペトロについて取り上げてみましょう。彼は主が受難を予告した際にそれを打ち消し邪魔をしたため、「サタン、引き下がれ」とまで言われたことがありました(16:22-23)。

 また主イエスがユダヤ人らに捕らえられて大祭司の庭で不当な裁きと暴力を受けている傍らで、ペトロが3度も主を知らないと拒んだことが福音書に明らかにされています(26:69-75)。それでも主はあらかじめ「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:32)と彼の信仰がなくならないように祈ってくださったのです。
 では立ち直るならどんな罪でも犯してよいのか、何をやってもよいのかということになるでしょうか。使徒ヨハネは手紙の中で「だれにも惑わされないようにしなさい」(ヨハネ一3:7)と教会の信徒たちを戒めています。

 キリストとその救いを故意に拒むことは聖霊に言い逆らう者に当てはまります。そして当人がキリストを信じるか否かというばかりでなく、他の人を救いの恵みから遠ざけることも「散らす者」として聖霊に言い逆らう者として数えられるのです。
 朗読いたしました箇所の続きにおいて主イエスが「木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる」(33)と言われています。結果として人々をキリストの救いから遠ざけたりつまずかせたりする者を言い得ています。

 しばしば「本心ではなかった」「心にもないことを言ってしまった」と弁解することがあるとして、実はその人の心の中にあるものが言葉として実を結んだものでに過ぎないのです。心にもないのではなくその人自身が心無い者なのであり、聖書の中では「自分の兄弟を愛さない者」(ヨハネ一3:10)とも呼ばれます。
 兄弟を愛さない者は、つまり主イエスではなく世と富を愛したイスカリオテのユダのようです。ユダは弟子集団の財布を預けられたほどの人ですから、その熱心さや忠実さは自他ともに認めたところでありましょう。

 ところが3年あまりもずっと主とともに生きてきたのに世と富を愛してしまったので、とうとう「サタンが彼の中に入った」(ヨハネ13:27)のでした。なんと彼は銀貨30枚の報酬で主イエスの身柄を祭司長らに売ったのです(マタイ26:15)。
 「罪を犯す者は悪魔に属します」(ヨハネ一3:8)と聖書ははっきりと教えています。「悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れた」(同)のですから、主イエスが「わたしと一緒に集めない者は散らしている」とおっしゃるとおり「神の子たちと悪魔の子たちの区別は明らかです」(同3:10)。

 「信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得る」(ヨハネ3:15)すなわち「信じる者は救われる」とイエス・キリストの福音が宣べ伝えられる反面、信じない者やキリストを騙る者も現れます。主イエスを荒れ野で誘惑した者が聖書の言葉を巧みに用いたように、「一緒に集めない者」「聖霊に言い逆らう者」であっても御言葉を用いたりキリストの名を騙ったりすることがあるのです。
 このことは今になって始まったことではなく使徒たちの時代からのことでした。福音書が記されたのはこの出来事から30年あるいは40年と月日が過ぎた後のことであり、「聖霊に言い逆らう者」また教会から人々を散らす者の存在は正典として残さなければならないほど教会の命に係わる問題です。

 「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい」「だれにも惑わされないようにしなさい」と使徒ヨハネが勧告を書き送ったことからも、主に敵対して民を散らす者の存在は教会に差し迫った問題です。「聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない」(32)と主イエスは厳しく戒められましたが、罪の赦しを受ける私たちは義を行う者として「御子と同じように、正しい人」(ヨハネ一3:7)になりましょう。


<結び> 
 「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」(マタイ12:28)

 すでに神の国はキリストと共に来ており、神の支配が及ぶところには必ず神の霊が働かれます。そこでは主イエスが神の霊で悪霊を追い出しておられた時のように、人々がいやされ慰められ、神の子たちによって平和が実現するのです。
 しかしキリストに味方しない者や一緒に集めない者はいつの時代にも現れて、御子と同じように義を行う者に敵対しては散らすのです。使徒パウロも「人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません」(コリント一6:10)と明らかにしています。

 教会のかしらであるキリストが「神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と神の霊によって悪霊を追い出してくださいます。私たちは主の十字架を見上げるために目を開かれ、キリストの救いを告げ知らせるために口を開かれ、義を行う者とされました。

 「義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。」(ヤコブ3:18)

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