ルツ記2:10-13「主が報いて下さる」

2025年3月16日
2025年度関東教区栃木地区総会
開会礼拝説教

はじめに 

 栃木地区総会の開催にあたり、一言お祝いを申し上げます。栃木地区は3月より新年度を迎えますので、年度が明けた新たな1年が始まりました。

 3月か4月かと毎年のように確認するのは地区総会の日取りばかりでなく、教会暦ではイースターもまた同様であります。教会は主の復活を祝うことでありますが、主が十字架にかかられたのはユダヤの過越祭でありました。

 「春分の日以後の満月より後にくる最初の日曜日」(ニカイア会議、325年)とイースターは定められておりまして、その起点となる春分をいよいよ来週に臨んでおります。季節の話をいたしますと、イスラエルの春分は雨季から乾季に変わろうとする頃合いで草木の芽吹きが渇いた大地を彩るのだそうです。

 「過越祭と言われている除酵祭」(ルカ22:1)を控えたこの時期に畑では大麦が収穫され、パン種を入れずに焼くことができる大麦のパンは過越祭の風物詩だったことでしょう(ヨハネ6:4)。朗読いたしましたルツ記は飢饉が明けて翌年のことでありましょう、時は「大麦の刈り入れの始まるころ」(ルツ1:22)でありました。

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(引用は「聖書 新共同訳」を使用)



  

1.ルツ記について 

 ルツ記は旧約の中で名前だけでも知られている書のひとつでしょう。聖書物語、絵本や紙芝居などで幼い子どもたちにも読み聞かせることがあります。

 時代は士師記と概ね同年代であり、「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた」(士師21:25)ような時代です。とはいえ「旧約」とはキリストがご自身の血によってお与えになった「新しい契約」(ルカ22:20)に対する呼び方ですから、本来はイスラエルの歴史であるはずなのです(ローマ9:4)。


 それなのに、ルツ記だけはモアブ人すなわちイスラエルから見て異邦人の女性の名を冠して呼ばれているのでとても稀な書であります。ユダ族のエリメレクの嫁であり後にベツレヘムのボアズにめとられたことによって、ルツはイスラエルの家において「命の恵みを共に受け継ぐ者」(ペトロ一3:7)とされました。

 したがって主の契約という面においては必ずしもルツ自身が主体ではなく、むしろボアズによって彼女がユダの家に加えられたところが要点であります。そして本書の目的はダビデ王の出自が明らかにされるところにありました(4:18-22)。


 そもそもモアブ人は律法においてアンモン人と同様に主の会衆から退けられる者でした(申命23:3-7)。エドム人やエジプト人と異なり、彼らとの混血の者は「十代目になっても、決して主の会衆に加わることはできない」(同4)のです。

 11代目であればよいということではなく、言葉の意味としてはそれ以後も主の会衆(エクレーシア)に加わることができないということです。イスラエルに王がなくそれぞれ自分の目に正しいとすることを行っていたという事情もありますが、ボアズを通して「主があなたの行いに豊かに報いてくださるように」とつげられたことが成就してルツは神の民そしてイエス・キリストの系図に継がれることとなりました。(マタイ1:5)。


 なんと異邦人であるモアブの女ルツよりユダの王ダビデが出ることになったのです。そしてこのダビデの子孫として私たちの救い主イエス・キリストが世にお生まれになったので、異邦人であろうと誰であろうとこの方を信じる者は永遠の命を得ることができるのです(ヨハネ3:15)。

 春分を前にした地区総会のこの時節、ベツレヘムでは大麦の刈り入れが始まったころのベツレヘムを思いながらルツ記を開いた次第です。

 

 

2.ルツとボアズ 

 さてルツ記はナオミとルツの家族愛や、異邦人でありながらイスラエルの神である主をわが神とするルツの信仰が描かれており、これらはキリスト者にとって模範となるものです。その一方でルツ記全体において示される思想はレビ記25章に定められている「土地を買い戻す権利」(レビ25:23)また「買い戻す義務」(同25)にあります。

 聖書新共同訳で「家を絶やさぬ責任」(3:9)と訳されている語は、レビ記においてその家の嗣業である土地を「買い戻す」(レビ25:26)責任があるという意味で用いられています。代価を支払って償うことを別な表現をすると「贖う」と言います。


 ルツに信仰があったとしても、自分自身を買い戻すことはできませんでした。支払うだけの財産を持っていなかったこともありますが、そもそもモアブ人は主の契約の外にありましたので買い戻しを行う権利すら持っていなかったからです。

 買い戻す側について考えてみますと、ナオミの亡き夫エリメレクの土地を買い戻す権利はあっても異邦人の女ルツまでは買い戻す義理はないのです(4:6)。ルツに信仰がなければナオミを追ってユダの地ベツレヘムまで来ることはなかったとしても、ボアズが彼女を贖うことをしたのは憐れみによるものであり一方的な恩寵でありました。


 このボアズの素性については詳しく述べられておりませんが、4章にはダビデの系図として彼の血筋が明かされています(4:18-22)。これはイスラエルの12部族のうちユダの血筋でありまして、族長であるユダについて思い起こせばヨセフが他の兄たちに殺されそうになったとき「弟を殺して、その血を覆っても、何の得にもならない」(創37:26)とその命をかばった人物です。

 後にエジプトへ下るにあたり末息子ベニヤミンを惜しむ父ヤコブに対し、ユダは「我々も、あなたも、子供たちも死なずに生き延びる」(創43:8)「あの子のことはわたしが保障します」(同9)とユダは身をもって命の担保となったのです。この男気のあるユダの血を引いている者がルツ記におけるボアズであり、エッサイの子ダビデであるわけです。


 新約において「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」(マタイ2:2)、ユダの地ベツレヘムで生まれたイエス・キリストが「ダビデの子」と呼ばれるのでしょうか。それはこの方が御父の前でご自分の民の命を保障し買い戻すことができるからです。

 ダビデの子と呼ばれるキリストはルツの贖い主となるボアズが彼女にパン切れと炒り麦を与えたように(2:14)、ガリラヤの山辺において「大麦のパン五つと魚二匹」(ヨハネ6:9)で人々の空腹を満たされました。ボアズがルツにパン切れを与えたのは「大麦の刈り入れの始まるころ」(1:22)であり、ヨハネによる福音書が示す5000人の給食の「過越祭が近づいていた」(ヨハネ6:4)とは同じ季節であります。


 除酵祭が近づく大麦の刈り入れの季節ですから、ボアズが与えたのも主イエスが与えたのもパンはパンでも大麦のパンや炒り麦です。ルツがそれら食べ「飽き足りて残すほどであった」(ルツ2:15)ように、ガリラヤでは「人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった」(ヨハネ6:13)のでした。

 ルツ記に照らして福音書を開けば主イエスがただ人々の空腹を満たされただけではなく、ご自身に買い戻しの権利があることを示されたのだと気づくでしょう。主イエスが単に系図の上でダビデの子孫と呼ばれているのではなく、ユダの家の生まれたボアズのような気前の良さ、憐み深さを備え持った贖い主であることを気づかされるところです。



おわりに 

 時間が過ぎますのでこの辺りにいたしましょう。関東教区栃木地区は合同教会の一端であり、すなわちキリストの体の肢の一つであります。御子が十字架にかかり私たち罪人の贖いとなられたのは、義務として買い戻しを果たされたのか深い憐みをもって買い戻してくださったのかと思いめぐらせるところであります。

 教憲教規諸規則に基づいて、また慣習法や社会通念などに照らして物事を運ぶことは正しいことです。その上で私たちがキリストの体として、ダビデの子またボアズに見る寛容と憐み深さをもって、主の恵み豊かさを現わすことができれば幸いであります。


 本日の栃木地区総会の議事運営全般において、またここから始まります2025年度の歩みにおいて、主が6杯の大麦や12の籠いっぱいのパンのように豊かな恵みを賜りますようにお祈りいたします。特にこれまで多くの労苦を担ってくださった地区委員長の高﨑先生はじめ地区委員のお一人ひとり、本日の選挙において選出される地区委員長と地区委員の方々を豊かに主が報いてくださいますように。


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