マタイによる福音書28章1-10節「キリストの復活」
2025年4月20日
米子教会主日礼拝
イースターおめでとうございます。主イエス・キリストが十字架上で私たち罪人の身代わりとなって死なれたのち、信じる者に命を与えるため3日目に復活してくださいました。
暦の上でイースターは「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」(第1ニカイア公会議、325年)と定められております。現行の太陽暦では3月から4月の間で移動祝日となり、特に日本では年度をまたぐのでイースターがどちらの月かと気を揉むこともあるものです。
いずれの月であったとしても主イエスが十字架にかかられて復活されたのは週の第7日である安息日を挟んだ3日目、つまり「週の初めの日」でありました。キリストの復活を祝って週の初めの日すなわち日曜日を「主の日」と呼び、「教会は主の日ごとに礼拝を守り、時を定めて聖礼典を執行する」(教憲第8条)のです。
本日はマタイによる福音書を開き、主イエス・キリストが復活した週の初めの日の明け方に起こった出来事を読みました。この個所より「キリストの復活」と題して、主の十字架と復活そして「バプテスマと主の晩餐との聖礼典」(信仰告白)について思いを深めてまいりましょう。
1.週の初めの日の明け方に
「さて、安息日が終わって」(1)と記されておりますのは、実は当時のユダヤでは一日というものは日没から始まり日没ともに終わるものでありました。したがって「週の初めの日」が夕方から始まるとすぐに夜を迎えますので、マグダラのマリアたちはそわそわしながら更に一夜を明かしたことであります。
誰が墓石を動かすのかはさておき、女性たちはとにかく墓所へと急いだものです(マルコ16:3)。女性たちが墓につくや否や大きな地震が起こりまして、墓の入り口の石が転がされたというのですから驚きです(2)。
福音書はそれが主の天使のわざであったことを示しています。その輝かしい姿がまるで主イエスがかつて3人の弟子たちだけに示された栄光のお姿のようであります(17:2)。
墓の番をしていた大の男たちは恐ろしさのあまり身をこわばらせてしまい、かたや天使は女性たちに「恐れることはない」と声をかけました。天使は「かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」と主イエスご自身が話されたことの成就であるとマリアたちに告げました。
何と申しましても十字架と復活は人類史上最初で最後のことでありますから誰にも予想ができないものであります。ですからこの女性たちが主イエスの言葉を信じてなかったとか疑っていたということではないのです。
むしろ御言葉を聞いても信じない人であれば見ても信じることはできないでしょう。女性たちは主イエスの言葉を聞いて心に留めていたので、天使の言葉に促されて目で見た出来事を信じることができました。
そして主イエスの「遺体の置いてあった場所」(6)には女性たちがその手で収めたはずの遺体が見当たらなかったわけです。主イエスから聞いた御言葉を天使から再び聞かされたことで、女性たちは目の前の光景を主が確かに復活されたことであると確信しました。
続けて天使は弟子たちへの伝言を女性たちに託しました。「あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」(7)と復活の後にガリラヤへ行くことは主が前もって教えておられた通りです(26:32)。
さてマグダラのマリアたちは恐れつつも、天使の知らせに喜びながら弟子たちのいる家に向かいました。すると先に行くとは言われたはずの主イエスが待っておられ(9)、女性たちは聞いたこと、見たこと、触れたことによってキリストの復活の証人となりました。
「イエスの足を抱き」とマリアたちがその足にすがったことがはっきりと示されています。ゆえに主イエスは幻やいわゆる霊的な何かのようなものとしてではなく、実際に体をもって死人のうちよりよみがえられたのです。
主イエスは女性たちに伝言を委ねられました。ご自分を見捨てた弟子たちを「わたしの兄弟」と呼び、「ガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」と招いてくださったのです(10)。
出発した最初の場所で待っているよ、そこから再び歩みだそう、と主は弟子たちを招かれました。こうしてガリラヤから始まった主イエスの働きはガリラヤにおいて愛する弟子たちへと受け継がれます(ヨハネ21:15-19)。
番をしていた者たちはその場に居合わせても信じることができなかったように、福音を聞いても信じない者たちは神の御業やキリストご自身を見ることができたとしても信じることができないでしょう。主のお言葉を聞いて信じた者に復活の主が近くおられることを、キリストの復活を祝うイースターの礼拝において感謝と共に胸に刻みます。
2.キリストの十字架と復活にあずかる
復活なさった主イエス・キリストを覚え、救い主が十字架にかかり復活されたということについてもう少し思いめぐらせてみましょう。復活とは「復た活きる」と読み下しますので、「復た」というからには一度は死ななければならないということであります。
本来であれば「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブライ9:27)のです。キリストは単に偶発的に復活したのではなく、死とさばきを受けてなお御父の栄光によって死者の中から復活させられたことであります(ローマ6:4)。
救い主として主イエスが歩みを始めたのはいつの時点からだったでしょうか。人々が「ダビデの子にホサナ」(21:9)と叫ぶ中をろばに乗って都に入られたときでしょうか、あるいはベタニアでナルドの香油を注がれたときからでしょうか。
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハネ1:29)とナザレのイエスを呼んだのは洗礼者ヨハネでありました。救い主として世の罪を取り除くため罪のない神の子が罪ある者と同じくなるために、主は悔い改める必要など一切ないのにヨハネから悔い改めに導く洗礼を受けられました。
罪のない方が罪人として死なれるのですから濡れ衣や冤罪のようなものでありますが、主イエスは何と「我々にふさわしいことです」(3:15)とおっしゃって洗礼を受けてくださったのです。洗礼によってキリストが私と同じ罪人となってくださったので、水による洗礼にあずかることで私もキリストと結ばれたのです。
儀式や行為にきよめる効力があるというより、主が受けた洗礼にあずかることによって十字架をも自分のためであると身に負うのです。そしてキリストが十字架の死と葬りの後3日目によみがえられたのですから、私たち罪人も死に定められていた中から命へと移していただいたのです。
使徒パウロは書簡の中で私たちが「キリスト・イエスに結ばれ(中略)またその死にあずかるために洗礼を受けた」(ローマ8:3)と明らかにしています。洗礼において私たちはキリストと共に葬られて、キリストの復活によって新しい命をいただいたのです。
「このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」(ローマ6:11)と聖書は教えます。しかしキリストの十字架において古い自分に死んだ私たちは罪から救われたはずですが、まだ死ぬべき肉体にあるので罪が私の魂を支配しようとするのです。
「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます」(ローマ6:8)と、あなたは信じますか。この肉体にある限り罪は何度でもむくむくと起き上がって私たちの魂を何とか滅びへと引きずり込もうとするわけですから、いつも何度でも私たちは古い自分を十字架にかけて死んでいくのです。
復活したキリストが神に対して生きておられるので、神に対して死んでいた私たちがこの方の名によって神の前に祈ることが許されるようになりました。キリストの十字架により罪が許されて復活によって命へと移していただいたので、私たちは洗礼によってキリストと同じ神の子とされて神の前に生かされています。
「かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」と天使の言葉を信じた女性たちは、すでに聞いていた主の御言葉を信じました。キリストの十字架ですべての罪が許されたこと、主の復活によって命が与えられたことを聞いて信じる者たちは、洗礼を授かることでキリストと共に神の御前で生かされているのです。
<結び>
「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使途4:12)
イエス・キリストが死んで葬られ3日目に死人のうちよりよみがえられたので、この方を唯一の神、救い主であると信じる者は神の前に命を得ます。キリストと共に死んで葬られ復活の命をいただいたしるしとして、キリストがお受けになった洗礼を受け、キリストの体と血にあずかります。
洗礼によってキリストと共に葬られた者はキリストの復活によって新しい命に生きる者とされます。教会とそこに結ばれている私たちは主が苦しみのうちに裂かれた御からだと十字架で流された血にあずかり、キリストの復活すなわち永遠の命を受けて神の前に生きるのです。
「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」(マタイ28:6)