マタイによる福音書28章11-15節「死者の中からの復活」
2025年4月27日
牧師 武石晃正
大山(だいせん)の冠雪が解けはじめると裾野でも山里でも田起こしの季節であります。主イエスが歩まれたガリラヤでは過越祭が近づく頃になると大麦の収穫を迎えました。
先週の日曜日は主イエスの復活を祝うイースターでありました。主が十字架にかかられたユダヤの過越祭は私たちの3月から4月でありますから、日本では田起こしの季節に主の復活を改めて思い起こすのです。
国柄や気候風土が異なりますが、季節の移ろいの中で主イエスの足取りや息遣いを近しく覚えるところです。本日はマタイによる福音書を開き、「死者の中からの復活」と題して福音の真理に照らされましょう。
1.復活を聞いて信じた者と偽った者
主イエス・キリストの十字架と葬りから3日目、安息日を挟んで2晩を過ごした週の初めの日のことであります。主イエスの亡骸を葬ったはずの墓が開き、主の天使がマグダラのマリアたちに現れ「あの方は、ここにはおられない。(中略)復活なさったのだ」(28:6)と告げました。
天使のお告げに従って弟子たちのもとへ向かおうとするや、よみがえられたイエスご自身が彼女たちにお姿を示されたのです。そして「行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい」(10)と言付けされたとおり、マリアたちはエルサレムの町の中に潜伏しているペトロたちのもとへと向かいました(11)。
かたや大きな地震と天使の出現に身をこわばらせていた番兵たちは女たちがいなくなると、彼らもまた都に戻って祭司長たちのところへ急ぎます(11)。この番兵たちはローマ総督ポンテオ・ピラトの配下にあった者たちで、大祭司らが執拗に願い出たためにピラトが彼らに同行することを許した者たちでした(27:65)。
番兵たちが報告に向かったのは上司であるピラトのところではなく、ユダヤの祭司長たちのところであります。祭司長たちはイエスの葬りまでは墓で見届けたものの(27:66)、ユダヤの掟で安息日に入る夕方からは異邦人である番兵たちに任せきりだったようです。
ピラトはピラトでナザレのイエスの一件では辟易していた様子があり、十字架刑へと引き渡す際にわざわざ群衆の前で手を洗いながら「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ」と言ったほどです(27:24)。番兵たちを祭司長たちにつけてやったものの、それ以上の関わり合いも彼らからの報告ももはや御免こうむりたいといったところであります。
仇敵であるナザレのイエスを葬るために群衆を焚きつけてまで十字架刑に追いやったものの、祭司長たちは週明け早々に番兵たちから極めて不都合な知らせを受けました。そして兵士たちには「多額の金を与えて」(12)、イエスの弟子たちが死体を盗んで行ったと嘘の証言をするよう求めたというのです(13)。
その額がいかほどであったのかは記されておりませんが、あなたならいくら握らされればこの話を請け負うことができるでしょうか。兵士たちが言いふらした話について福音書が「今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている」(15)と示すとおり、主の復活から30年以上も経ってなお偽りの証言が根強く伝わっていたのです。
それ以来も伝承や風説、妄想話などが数多と生じることになります。あるいは弟子たちは空っぽの墓を見ただけで復活そのものを目撃したわけではない、単に遺体がなかっただけだという人たちも現れたほどです。
聞いて信じる者は幸いである一方、人の話を疑う者はその人の心に偽りがあるから信じることができないのでしょう。「見ないのに信じる人は、幸いである」(ヨハネ20:23)と復活された主イエスは愛する弟子に告げられました。
2.キリストの復活を拒む者と信じる者
祭司長たちは兵士らに「弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に(後略)」(13)と言わせたとあります。嘘をつくにもほどがあるわけですが、そもそもローマ総督の直属である兵士らが任務中に眠りこけるなど考え難いことであります。
嘘をつくにももう少しましな嘘はなかったのか、あまりに安直で稚拙な嘘なのでこのこと自体がむしろ作り話だったのではないかと思われるほどです。見張りも一人や二人なら居眠りをしないとも限りませんが、「数人の番兵」(11)が交代で番をしたのに遺体をまんまと盗まれたとなれば彼らの名誉にも傷がつくことでしょう。
もしこれがローマ総督の命令で墓の見張りしたのであれば、任務を果たせなかった兵士らは厳しく罰せられるはずであります。あるいは事が事であるだけに、ナザレのイエスと同じ目に遭わされないとも限らないことです。
幸か不幸か総督ピラトは彼の妻からも「あの正しい人に関係しないでください」(27:19)と言われておりましたので、イエスの遺体についても関与しなかったでしょう。あまりにもうるさいのでユダヤ人らに自分の部下を貸しただけで済んだようです。
「総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう」(14)などと調子のよいことを祭司長たちは兵士らに言うものの、兵士たちにそのような心配はそもそもなかったものと思われます。とんだ茶番に付き合わされたと思いきや思わぬところで懐が温まり、兵士たちは上機嫌だったことでしょう。
すると嘘に嘘を重ねて大金までばらまいた者たちは非常に滑稽な姿に映るものです。しかし彼らはユダヤの大祭司、偉大な指導者たちの言い分を群衆は鵜呑みにするわけです。
神に従わずに背いて生きている「罪」の現実においても同様のことが起こります。都合の悪いことが生じると受け止めきれずに浅知恵を働かせてごまかそうとすることが往々にしてあるものです。
嘘偽りを用いたりすぐに人を疑ったりするのは、その人自身が人をだますような者であるからではないでしょうか。ユダヤの律法では「盗んではならない。隣人に関して偽証してはならない」(出20:16-17)と十戒に戒められているのですから、祭司長たちが正しい人であったなら「死体を盗んで行った」という発想も嘘偽りを広めようと考えつくこともなかったはずです。
疑う者や自らの誤りを認めることができない者は、事実のほうを捻じ曲げることでしか生きることができないのでしょう。その上でいたずらに正義感を振るおうとするものですから、取り繕うために不法を行っては自分の滅びを招くことになるものです。
主イエスに対しても祭司長たちは死に当たる理由は何も見いだせなかったのに、死刑にするようピラトに求めたことでありました(使徒13:28)。イエスが死んで葬られたのを見届けた彼らは勝利を確信したことでしょけれど、「神はイエスを死者の中から復活させてくださったのです」(同30)。
人間にとって死そのものが都合の悪いことでありますので、ときに見ないこと知らないことにしようとするでしょう。けれどもどうにも抗うことも叶わないので世の人々は死というものから目を背け、避けようとするのです。
特に日本では「忌む」という表現が用いられます。むしろ創造主に背いている私たち人間のほうが罪人として神から忌み嫌われていたのだと、聖書は教えます。
神を知らない人たちにとっては人生が死んで終わりではないこと、死後に神の裁きを受けることは不都合なことでありましょう。ですから死を忌みつつもそのように教える宗教あるいは死生観にすがり、イエス・キリストの十字架と復活を受け入れることができないのです。
聖書の言葉から悔い改めを説かれたところで、罪の世に生まれ育った人間がそれを受け入れられないのは当然のことでしょう。教会が十字架の言葉を宣べ伝えても世の人々が聞き入れないのも、余程おかしな話をしていない限り、正真正銘の御国の福音であるからなのです。
ある者は銀貨30枚で主イエスを売り、ある者たちは多額の金によって復活がなかったことにしようと企みました。使徒パウロが「多くの人々のように神の言葉を売り物にせず」(コリント二2:17)と記したほどですから、イエス・キリストの福音でさえ世の人々へ安く売りたたかれてしまうこともありうるのです。
福音書において祭司長たちが主イエスを十字架にかけて殺したように、この世の者たちはキリストを信じて永遠の命に生きる者たちをねたんでは憎むことでしょう。ただ一度死ぬことと裁きを受けることが定まっている人間たちの中にあって、主イエス・キリストの復活だけが信じる者に永遠の命と復活の希望を与えます。
<結び>
「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」(ローマ1:16)
イエス・キリストの復活という歴史的出来事に対して、ユダヤの祭司長たちは番兵に金を渡して偽証を命じて真実を隠そうとしました。今の時代に至ってもなおキリストの復活を否定する者たちは多く、あるいは福音を曲げて伝える者たちさえ現れます。
十字架の死に至るまでキリストが従順であられたので、父なる神の栄光によって死者の中から復活させられました。この世に属する者は都合の悪い事実を偽ったり隠したりしますが、教会は福音を正しく宣べ伝えキリストの十字架と復活を証しします。
キリストが私たちのすべての罪を背負って十字架にかかられたので、洗礼を受けてこの方の弟子とされた者は自分の十字架を負うのです。洗礼によってキリストと結ばれているので、死者の中からの復活が私たちをキリストと共に神の前で生かすのです。
「洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。」(コロサイ2:12)