マタイによる福音書12章38-42節「新しい人を着る」
2025年5月4日
牧師 武石晃正
先週の日曜日は主日礼拝の後に教会総会が開かれました。多くの議案の審議に先立って役員選挙が行われ、新年度を担う8名が選出されました。
永年にわたり教会の重要な事柄を担われた方々が任期を満了し、この度の総会では再選のほか新人の役員も選ばれています。本日の主日礼拝式において聖餐式の後に役員就任式を執り行いますので、役員の任をこれまで担われた方々とこれから担ってくださる方々を労いましょう。
この4月には牧師が招聘されたことでありますから、役員会も教会も新たな体制での歩みを踏み出しております。本日は朗読されたマタイによる福音書を中心に、「新しい人を着る」と題してキリストの復活とその命に生かされることを覚えましょう。
1.旧約の預言者ヨナと復活のしるし
「先生、しるしを見せてください」と申し出たのはユダヤの指導者である律法学者たちとファリサイ派の人々でした。我々もしるしとやらを見たいものだ、と揶揄するような響きにも取れる言い回しです。
目に見えるもの、手で触れられるものにしるしを求める人々がいます。それらは「この世」に属するものであるので、神のわざを自分の手の内に収めるようとするのでしょう。
見たり触れたりできるものは既に人間にとって経験可能なものでありますから、その人の気持ちひとつ受け取り方ひとつで右にも左にも変えようがあるのです。自分の意思で判断できるもので信じるのであればそれは単なる気の持ちようであって、世間でも「鰯の頭も信心から」などと呼ばれる類のものでありましょう。
ユダヤの人たちは契約の民イスラエルとしていわゆる選民思想がありましたから、それ以外の人々を異邦人と呼んで区別していました。契約の血筋にない異邦人は改宗者として割礼を受けなければ神の恵みを受けることができないということであります。
しるしを求められた主イエスは律法学者たちを暗に「よこしまで神に背いた時代の者たち」(39)と呼び、「預言者ヨナのしるし」について触れられました。預言者ヨナは旧約のヨナ書に記されておりまして、子ども向けの聖書物語や絵本などの題材にされるほどによく知られている預言者の一人です。
「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいた」(40)という話は教会学校の子どもたちも何度か聞いたことがあることでしょう。教案書の見出しにも「逃げ出したヨナ」などと付されることもあり、臆病者であるかのような印象を持たれることもあるわけです。
主イエスはそのような者をメシアとしてのしるしに選ばれたのでしょうか。実は預言者ヨナの業績はイスラエルにとって偉大でありまして、アミタイの子ヨナを通して語られた神の言葉によって周辺諸国からの圧迫を受けていたイスラエルは領土を大きく回復したのです(列王下14:23-26)。
イスラエルの解放者としての預言者ヨナでありますから、ローマ帝国の支配下にあったユダヤの人たちにとって救い主メシアのしるしに不足はないものです。そしてこのヨナは大魚の腹から吐き出された後に、当時のイスラエルを脅かしていたアッシリアという国の都ニネベまで単身で乗り込んで悔い改めを説いたほどの人物であります(ヨナ3章)。
ところがこのヨナは三日三晩、巨大な魚の腹の中にいたというのです(ヨナ2:1)。なぜ彼が魚の腹の中にいたのかと申しますと、主なる神の命令に背いたヨナは正反対の方角へ逃げるため船に乗って海に出たからです。
海の上で大嵐に遭ったその船は人々が積み荷を投げ捨てても転覆を免れないほどに危うい様子でした。「わたしの手足を捕らえて海にほうり込むがよい。そうすれば、海は穏やかになる」(ヨナ1:21)と自分の身を差し出したヨナの言葉は、「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」メシアである主イエスの使命に通じるところです。
多くの人々の命が助かるために身を捨てた預言者を主なる神は捨て置かれず、「巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませられた」(2:1)のでした。死と葬りに引き渡されても父なる神が必ず救いだしてくださることが預言者ヨナのしるしであり、「人の子も三日三晩、大地の中にいることになる」と主イエスはご自分の使命を明かされました。
2.新しい人を着る
仇であるニネベの住民さえも惜しまれたのがヨナを遣わされた主なる神であります(ヨナ4:11)。主はヨナに対して「そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから」と語られたことですから、14万人以上の人々がいるこの米子市をも主が惜しまれずにはおられないことでしょう。
創造主である神の御心はイスラエルに限ったことでなく「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る」(ヨハネ3:16)ことであります。旧約においてもニネベの人々ばかりでなく「南の女王」すなわち「シェバの女王」(列王上10章)が主なる神をあがめたことが記されています。
旧約において既に示されたことであり、主イエス自身がそれらをしるしとされています。もし今の時代にあって「キリストが本当に神の子だというならしるしを見せろ」という人がおられたとしても、神ご自身がしるしは律法と預言者の書で十分であるとされたのです。
ある個所で主は「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」(ルカ16:31)とおっしゃいました。聖書の言葉を聞いて信じない者は、復活された主イエスに出会うことがあっても救いの言葉を聞き入れることはないということです。
異邦人が悔い改めて創造主をあがめることは律法学者たちには受け入れがたいことでした。彼らは古い考えや信心のままなのでヨナのしるしも異邦人の救いも、ましてキリストの復活をも信じることができなかったのです。
聞いても信じない人は見ても信じることができないでしょう。人は心の中にあるものでしか物事を判断することができないからです。
「ヨナの説教を聞いて悔い改めた」(41)と異邦人であるニネベの人たちについて説かれたのですから、律法学者たちはその時点ではっと気づけばよかったのです。悔い改めとは御言葉に示されて古い考え方や古い生き方に気づくことであり、すなわち主なる神の御心から離れていたことを文字どおり悔いて改めることであります。
とは申しましても、いくら悔いたところで新しい生き方をどのように始めることができるのでしょう。この世に生まれ死ぬべき体を着ている魂は遅かれ早かれ死に至り、そのままでは滅びに至ります。
神の前に悔い改めることについて、使徒パウロは「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されている」(コロサイ3:3)と言っています。死んだといわれているのですから、徐々に弱っていくということではなく死ぬのはだれしも一度きりの出来事です。
生まれることも誕生日に半分だけ生まれて残りは後日に別の誕生日を持っている人はいないでしょう。悔い改めもまた同様に少しずつ良いほうへと考え方を変えるというものではなく、神の霊によって新たに生まれ変わらせていただくことであります。
パウロはキリストを信じて新しい命に生きることを「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け」るとも言っています(コロサイ3:10)。「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て」ることですから、神の御前に出るためには汚れた服を脱いで礼服を着るのです。
もし古いものを脱ぐことなしに、信仰があると言いながら古い生き方のままだとしたらどうなるでしょうか。新しい人を着ていないので「どうして礼服を着ないでここに入って来たのか」と神の御前からほうり出されてしまうのです(マタイ22:13)。
一方で旧約の時代に悔い改めたニネベの人々や南の女王たちが復活すると言われています。ソロモン王より優れた方すなわち御子イエス・キリストと共に復活する者はどれほど大きな恵みを受けることでしょう。
既に与えられていたしるしのとおり主イエス・キリストは「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり」(使徒信条)ました。キリストがその血によって代価を払いすべてを用意してくださったのですから、神の御前に出るために私たちは礼服すなわち新しい人を着るのです。
復活にふさわしい生き方、新生の恵みにあずかりましょう。古い生き方を脱ぎ捨てた者は、永遠の命にふさわしい生き方を着せていただくのです。
<結び>
「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。」(コロサイ3:3)
かつてイスラエルに律法をお与えになった主なる神は預言者ヨナやソロモン王を通して異邦人にも御言葉を語られました。時が過ぎ、神の民であると自負した人々は主なる神が自分たちだけを愛しておられると思い違いをしておりました。
罪の世に生まれて神の御心から離れて私たちは生きていたわけですから、御言葉を聞いて古い生き方を悔い改めることによりキリストの復活にあずかるのです。キリストは私たちの罪の身代わりとして十字架にかかられましたが、預言者ヨナのしるしのとおり3日目に死人のうちよりよみがえられたのです。
キリストの十字架と復活を信じる者は心の底から新たにされて、真理に基づいた正しく清い生活を送ります (エフェソ4:23-24)。十字架において罪に対して死んだ私たちは、新しい人を着ることで復活のキリストと共に生きるのです。
「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。」(コロサイ3:9-10)