ヨハネによる福音書14章1-11節「神の内にいること」
2025年5月18日
牧師 武石晃正
米子市内でも蒸し暑さを感じる今日この頃、5月も中旬を折り返したところでございます。今月末には米子空港に新たな国際線の定期便が就航すると聞いております。
最寄りの東アジアに限られますが世界がまた少し近くなったように感じるところです。米子教会で国際交流が行われるようになる日も遠からずというところでありましょうか。
外国の方を迎えるにしても私たちが海外へ出かけるにしても、言葉や物腰によって国柄が知れるところです。またどの国へ行こうと、どれほど現地の言葉が上達しようと、国籍や市民権というものは本国にあるものです。
「しかし、わたしたちの本国は天にあります」(フィリピ3:20)とは使徒パウロの言葉です。帰るべき国、帰るべき家が天にあることを覚えつつ、本日はヨハネによる福音書より「神の内にいること」と題して御言葉に思いを深めましょう。
1.道であり、真理であり、命である
「心を騒がせるな」(1)と主イエスは弟子たちに語られました。弟子たちが心を騒がせていたからでありますが、それはペトロが「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできない」(13:36)と言われたからでした。
ペトロの言として「あなたのためなら命を捨てます」(同37)と記されているものの、その覚悟の思いは他の弟子たちとて同じでありましょう。それほど強い思いを表したにも関わらず「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言う」(同38)と一蹴されてしまったものですから、弟子たち一同の胸中には不安と疑問が湧いたわけです。
信仰について教えるなら「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」(1)との一言にすべてがかかっています。ではどのように信じるのかということを「わたしの父の家」(2)と切り出して主イエスは説かれました。
目指すところが御父の家であるならばそれは地上の生涯で達成できることではないわけです。世を去ること、その先にあることを主イエスは弟子たちに指し示そうとされました。
場所を用意したら戻って来られるというのですから(3)、このことを私たちは主が再び来られる「キリストの再臨」を指していることがわかります。私たちは主が天に帰られてから2000年も経っており、聖書が与えられているので信じることができました。
ところが復活どころか主が十字架にかかられることさえ思いもよらない弟子たちです。「その道をあなたがたは知っている」(4)と言われても何のことやら心当たりがないのです。
分からないなりにもトマスが口を開き、続いてフィリポが主イエスに問いました。少し先の9節には「こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか」と一緒にいるのに理解してもらえないという主イエスのもどかしい思いが記されています。
「わたしは道であり、真理であり、命である」(6)との御言葉はしばしば前後の文脈から切り取られて引用されることがあるでしょう。短く歯切れよく語感もよいので何となくわかったような気持ちになるのはよしとしても、言葉だけが独り歩きしてしまうことでかえって主の御心がわからなくなってはいないでしょうか。
自分が今どこにいるかが分かっていても、どちらを向いているのかによって話も行き先も変わってきます。道端の辻に一緒に立っていてもどちらを向いているかで行き先は正反対になることもあるでしょう。
道であると言われた主イエスは真理でありますが、その導きを受ける私が受け止め違いをすれば永遠の命に至らないということも十分に考えられるのです。ペトロ、トマス、フィリポがいかに熱心であったとしても、この時点での彼らの思いは「そうすれば満足できます」(8)という自分を中心とした信心に過ぎなかったのです。
信仰なのか信心であるのかはともかく、いくら力強く進んでいても行き着く先が正しくなければ困りものです。どれほど熱心に聖書を読んで祈っていても、その人の主観や思い込みによるならば年月が経つほどに道や真理から遠のいてしまうでしょう。
地上にあるものではなく、父の家、天にある永遠の住まいを目指すのです。主の復活を体験して立ち直ったのちに使徒ペトロは手紙において「愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。」(ペトロ一2:11)と教会を励ましています。
帰るべき家あるいは国があるならば旅人でありますが、それを失ってしまったら旅人ではなく放浪者や難民と呼ばれるものです。信仰という名目で私自身が私の魂を誘惑することがありえますし、教会が信仰と世俗とをまぜこぜに扱うようになってしまっては「父の家」への道が見失われてしまうでしょう。
「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(1:18)と聖書はキリストを証しします。御父を見た者はいないので知らなくて当然でありますが、「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられる」(ヨハネ14:11)と言われる御子を信じるなら、その道において真理を知り、御父の家で命を得るのです。
2.神の内にいること
弟子たちとの問答の中で主イエスは「もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい」(11)とも言われています。その教えが真理であるなら業と一致するはずです。
主の昇天から半世紀以上も経った後のことですが、使徒ヨハネは教会に向けて「『神を知っている』と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません。」(ヨハネ一2:4)と書き送っています。真理がないと言われるのですから、「道であり、真理であり、命である」と言われた主イエスがその人の内にないということです。
ではどうすれば私たちは主イエスの道を歩み、その真理を得ることができるでしょうか。ヨハネは続けて「神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています」(同5)と教えています。
神の言葉を守るということについて考えるとき、まず私たち一人ひとりの信仰に問われます。そればかりでなく当然のことながら教会もまた神の言葉を守るのです。
教会が神の言葉を守るということはどのようなことを指すでしょう。いくつかの側面があると思われますが、まずは公の礼拝を守ることにあります。
日本基督教団信仰告白では「教会は公の礼拝を守り」と告白しており、その公の礼拝とは「福音を正しく宣べ伝え」ることと「バプテスマと主の晩餐との聖礼典」を執り行うことにかかっています。礼拝の中心は説教と聖礼典であり、説教は聖書の言葉を語りますが聖礼典も御言葉によって制定されています。
つまり第一に礼拝において私たちは神の言葉を守るのです。そして教会もまた礼拝において神の言葉を守っていることを神と人との前に明らかにします。
聖礼典が制定の言葉と祈りによって執り行われるとき都度に会衆の同意を求めないように、説教も神の言葉の宣言であって会衆の賛同を得るための説得ではないということです。主イエスは弟子たちに人々を無理に説得させるのではなく、「あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい」(マタイ10:14)と命じておられます。
聞いても分からない話をしたのでは意味をなしませんが、公の礼拝であるからには出席者だけでなく教会が置かれている地域に対して神の言葉が発せられるのです。世の為政者から出された命令や法令がその場で聞いていない者に対しても有効であるように、神の口から出る言葉も人の意思に関わらず主が望むことを成し遂げます(イザヤ55:11)。
御子イエスが御父の内におられたように私たちが神の内にいることは、教会が福音を正しく宣べ伝えていることと深く結びついています。その正しさは人の熱心や人間的な因習によるものではなく、基本信条など伝統的な信仰に照らして正しいということです。
説教は教師の務めであるとして、「教会は」それを公の礼拝において宣べ伝えます。語る者と聞く者とで役割は異なりますが、説教に正しさが求められると同時に、聞く者にはそれを守ることが求められます。
主イエスが私たちのために御父の家で場所を作ってから戻って来てくださるその日まで、神の言葉を守りつつ教会は愛のわざに励みます。愛のわざの一端として礼拝に出席できない方々を訪ねては、主から受けた言葉を届けます。
「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」(ヤコブ1:22)とは主の兄弟ヤコブの言葉です。こうして教会が主の日ごとの礼拝を守ることで私たちは神の言葉を守る道へと整えられ、真理であり命である神の内にいることになるのです。
<結び>
「イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14:6)
神を見た者はおりませんので神のもとから来られた独り子である神だけが私たちに御父を示されます。御子は私たち罪人の救いとなるために十字架にかかられましたが、身代わりとなって死なれた後3日目によみがえられました。
復活した主イエス・キリストは「父の家」に私たちを迎える場所を備えるために天に昇られました。主が私たちを迎えるために再び来られるときまで、キリストの内に働かれた神の業、愛の業に励みましょう。
私たちが神の言葉を守るとき神の愛が実現し、御子が御父の内にあるように私たちも神の内にいることが示されます。教会が説教と聖礼典によって神の言葉を守るので、神の内にいることを自らも世に対しても証しするのです。
「しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります。」(ヨハネ一2:5)