マタイによる福音書6章1-15節「祈るときにも」
2025年5月25日
牧師 武石晃正
4月に着任して2か月が経とうとしております。もう2か月も経ったのかと驚きつつも、役員をはじめとして礼拝者の皆さんが親身に受け入れてくださったことで2か月とは思えないほど様々に関りをもたせていただいております。
引っ越し荷物を運びにまいりました3月上旬から比べますと朝夕の明るい時間がとても長くなりました。朝ごとに礼拝堂の戸を開けて十字架の前で祈るにも、頬で日差しを感じると主が触れてくださっているような嬉しい気持ちがいたします。
平日の祈祷会は出席者も増し加えられつつあり、日々に神の御前で祈ることが赦されている恵みを主に感謝いたします。本日はマタイによる福音書を開き「祈るときにも」と題して御言葉に整えられてまいりましょう。
1.愛のわざに励みつつ
山上の説教として知られる一連の教えが福音書に記されております。これは主イエスが特定の山の上で一度にお話になられたものというよりは、むしろガリラヤ地方の行く先々で説かれた教えをとりまとめた説教集のようです。
マタイによる福音書は5章において「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た」(5:1)と山上の説教を切り出しています。聖書は教えを聞くために山の上まで主イエスに従った者たちを弟子と呼ばれており、ふもとに残った群衆との間に区別を設けています。
世俗のものから神のために取り分けることを聖書では「聖別する」と言います。ガリラヤでの宣教を始められた当初、主イエスは新たに弟子となった者たちを聖別して8つの幸いを告げられました(5:3-12)。
弟子となるということはこの世から区別されて天の国の「えこひいき」を受けることになりますから、御子とともに歩むならば世の人々からねたまれて迫害を受けるでしょう。そればかりか主イエスは「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ」(5:20)と名指ししたうえで、従来の伝統的な考えを「天の国に入ることができない」道であるとしたのです。
朗読された箇所において「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」(1)と言われているのも当時のファリサイ派の人たちのことです。弟子たちはユダヤの人たちですから幼いころより律法学者たちが立派な先生であると教えられ、実際に彼らの指導のもとで割礼や成人の儀を受けておりました。
一連の教えの中で「あなたがたも聞いているとおり」(5:21,27,33,38,43)と繰り返し、主イエスは人々が言い伝えてきたことや信仰的に正しいとしてきたことについて取り上げました。そのようなものは実は人間の因習に過ぎないのです。
本来、律法の教えはこれを守ることで契約の民が幸いを得るようにと主なる神が与えたものでありました(申命10:12-13)。しかし人々が神ではなく人の為に善いことに変えてしまったので、主イエスは律法学者たちを「偽善者たち」と厳しく扱われたのです。
「偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でする」(2)「偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる」(5)と立派であると思われていた人々を示し、まねてはならないと主は弟子たちを戒めました。そして弟子たちも教えを聞いただけにとどまらず、教会に対してキリストの教え「山上の説教」として語り継ぎました。
つまりここに書かれていることは直接的には2000年も昔のユダヤの教師たちのことでありますが、この福音が宣べ伝えられているあらゆる国や地域の教会においても同様のことが起こりうるということです。教会が律法学者たちと同じことをしていませんか、あなたはファリサイ派の人々と同じではありませんか、と聖書が私たちに問うのです。
わざわざ言いふらさなくても本当に正しいことをしているなら分かる人には分かりますし、見ている人はちゃんと見ているものです。中身が伴わないとか自信がないとかそのような場合に人前に出ては騒々しい立ち居振る舞いをするか、あるいは表に出ていくことができなくなってしまうのでしょう。
密室の祈りや静思の時は教会においても信仰生活の上でも不可欠であり(6)、これらが妨げられると弱さの中でこそ十分に発揮されるはずの神の恵みも力も見失われてしまうように思われます。私たちは愛のわざに励みつつ主の再臨を待つのですから、教会も一人ひとりも世の人の目ではなく天の父の目にかなうように歩みます。
2.祭司としての祈り
施しをすることなどの善行がみな偽善であると言われているわけではないことはお分かりでしょう。神のため御国のためと言いながら人に見せては自分を良く見せようとする者たちを主イエスは偽善者と呼ばれました。
かつてイスラエルには断食する月を年に2度も設けるほどに熱心だった人たちがおりました。しかしいくら熱心であっても神の言葉を聞いて行うのでなければ、「あなたたちは食べるにしても飲むにしても、ただあなたたち自身のために食べたり飲んだりしてきただけではないか」(ゼカリヤ7:6)と主なる神はおっしゃるのです。
似て非なるものを混ぜ合わせてはいけないと旧約の律法は口が酸っぱくなるほど繰り返し教えています。俗なるものから神のものを取り分けることを「聖別する」というように、けがれているものからきよいものを区別して切り分けることは「きよめ」の原点です。
偽善であるのか愛のわざであるのかは紙一重であり、なかなか区別をつけられないこともあります。人の知恵ではできないとしてでも、鋭い剣のような神の言葉は心の思いや考えを見分けることができるのです(ヘブライ4:12)。
「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない」(5)と神の前に嘘偽りを持ち出してはならないことを、道であり真理である方が説かれました。「だから、こう祈りなさい」(9)と後に「主の祈り」と呼ばれる祈りを主は私たちに授けてくださいました。
「御名を崇めさせたまえ」と主の祈りの冒頭で私たちは祈りますが、原文をそのまま訳すと「御名が聖とされますように」(9、聖書協会共同訳)という意味です。聖とするのですから世俗のものと混ぜてはならず、すなわち「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」(出20:7)と第一の戒めのとおりです。
父を聖であるとしながら自分がそうでないなら、はたして子と呼ばれることができるでしょうか。御心が地の上にも行われるとき私たちがどれほどかけ離れた者であるかが明らかに示されるので、「わたしたちの負い目を赦してください」(12)と祈るのです。
「我らの罪をも赦したたまへ」と祈るのですから、私には罪がある負い目があるとの告白です。この祈りを授けてくださったキリストが私たちの身代わりとなって罪を贖ってくださり、今も父の前で執り成してくださるので私たちを完全に救うことがおできになります(ヘブライ7:25)。
「わたしたちも自分に負い目のある人を」(12)というときにその誰かの罪を晒してしまうことにはならないでしょうか。「赦しました」と祈るからには私たちも隠れたところにおられる御父の前でその人のために執り成します。
「赦しました」と祈った以上、いつまでも腹のうちに抱えていては二心ある者や偽善者と言われても仕方のないことです。その一方で赦しを受けた者にはきよめが必要です。
また、罪や負い目を赦すことと物事をうやむやにすることとは全く別の話です。是は是、非は非としたうえで、非を認めて悔い改めた者に赦しときよめが与えられます。
「人の子は、失われたものを捜して救うために来た」(ルカ19:10)とその使命を果たすため、十字架の死に至るまで従順であった方が弟子たちに祈りを授けました。キリストの体である教会が「主の祈り」をささげるとき、自分たちのための礼拝ではなく神の前で罪の赦し求める執り成しとして祈るのです。
主イエスがこの祈りを授けるにあたり「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる」(14)と言い含めておられることを覚えます。「我らの父よ」と「私」ではなく「私たち」がささげる祈りは、互いに執り成し罪を赦すための祭司としての祈りです。
<結び>
「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」(マタイ6:14-15)
私たちは「主の祈り」を祈るとき、この祈りを与えてくださった主が「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない」と言われたことも心得ます。祈りや礼拝をささげることは信仰的なことでありますが、見てもらおうとして行っているのか隠れたことを見ておられる父に向けられているのかが問われます。
罪人である私たちの身代わりとなって十字架にかかられた主は葬られて3日目によみがえり、天に昇られ御父の前で栄光をお受けになりました。主の体の肢(えだ)である私たちは食べるにしろ飲むにしろ何をするにしてもすべて神の栄光を現すためにするように(コリント一10:31)、祈るときにもキリストの十字架と復活における救いを現します。
「それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。」(ヘブライ7:25)