マタイによる福音書11章25-30節「神の豊かな恵み」

 2025年6月15日
牧師 武石晃正

 

 米子教会が加入しておりますホーリネスの群では毎年6月を「四重の福音強調月間」と定め、新生・聖化・神癒・再臨の特色教理を覚えるところであります。2025年度は4月のホーリネスの群年会において「四重の福音栞」が伝道部より配布され、枚数に限りはありましたが当教会でも受付の机上にて配られました。
 日本においては中田重治監督がホーリネスの信仰として「新生・聖化・神癒・再臨」といたしましたが、もともとは19世紀から20世紀初頭の米国で長老派の牧師であったA.B.シンプソンが提唱したものであります。聖歌520番はシンプソン牧師の作詞であり、イエス・キリストについて「救い主」「きよめ主」「癒し主」「再臨の王」の4つの側面を明らかにして福音を歌い継いでいます。

 全き神でありながら全き人として世にお生まれになったキリストがどなたであるのかを「四重の福音」を通して学び、思いめぐらせることができます。その一方で本日はマタイによる福音書を開き「神の豊かな恵み」と題して私たちの主イエス・キリストの恵みを受け取りましょう。

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1.休ませてあげよう

 朗読の個所は「そのとき」(25)と切り出されておりますが、どのような時だったのでしょうか。それは主イエスの弟子たちが天の国の到来と悔い改めを伝えるために遣わされた先々で迫害を受け始めた時期でありました(10章)。
 当時イスラエルの人々はローマ帝国の支配化にあり、解放者としての救い主メシアを求めておりました。しかしながらナザレのイエスとその弟子たちが伝えた天の国は彼らが願っていたものと違ったため、数多くの奇跡が行われても悔い改めることなく御国の言葉を拒み続けたのでした(11:1-24)。

 御国の言葉を聞いてもしるしとしての奇跡が行われても受け入れない人々を指して、主イエスは御父が「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しなりました」(25)と言われています。ここで言われている「知恵ある者や賢い者」とは身分や学識の高さに限らずとも、この世の価値観や損得勘定などの世故に長けた人たちを含めてよいでしょう。
 マタイがこの言葉を福音書として記していることですから、主イエスが語られた時代の人々ばかりでなく福音書が書かれた年代の教会の中にも当てはまるものでありました。世の知恵や賢さによって天の国を値踏みしようとする者たちは今の時代に至ってもおり、この先の時代にあってもそのような者の目には御国が隠されてしまうでしょう。

 「幼子のような者」(25)すなわち素直に御国の言葉を受け入れる者こそ「これは御心に適うことでした」(26)と主イエスは喜ばれました。このような者たちはキリストの救いも癒しのみわざも疑うことなく信じるので、世に属する者たちからは「信じる者は騙される」などと軽んじられることもあるでしょう。
 そこで主は「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と幼子のように御国の言葉を受け入れる者たちを招かれました。この御言葉は世界中でどれほど多くの人々を慰め、励まし、救いへと導いたことでしょうか。


2.安らぎを得られる

 ところが「休ませてあげよう」と招かれつつも主イエスは「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と命じておられるのです。軛とは牛や馬などの家畜に荷車などを牽かせるために2頭の頸(くび)を連結させる器具ですので、休ませるどころか重い荷を牽(ひ)かせようという意味合いを呈しています。
 自分に知恵や力があると思って己が道を歩もうとする者は背の上に荷を負った家畜のようです。つながれていないので思うままに歩き回ることはできるとして、疲れを覚えて水を飲むにも藁をはむにも地面に伏すにも常に背中には重い荷が負わされたままなのです。

 軛という木製の太い器具がかけられると家畜は首を自由に振ることができず、思うままに動こうとすればかえって窮屈な思いをいたします。ところが一緒に軛につながれているのが「わたしは柔和で謙遜な者だから」とおっしゃる主イエスでありますから、無理やり引っ張りまわすことなくご自分に似た者となるよう導いてくださいます。
 背負って来た重荷を降ろして軛をかけていただくと、多少の窮屈はありますが重荷のほうは荷車へと積まれるわけです。肩の荷は軛の重さだけになり、しかも主イエスが一緒に負ってくださるので軛の重さも半分に軽くなるでしょう。

 人生という自分の重荷は他人に背負ってもらうことはできませんし、いくら重くても最後まで自分で負うしかないものです。しかし主イエスの軛を負うことによって同じ重荷でも荷は軽くなり、主の謙遜とともに首を垂れるときには飼い葉と飲み水が備えられていることでしょう。
 信仰の道は初めのうち窮屈に感じるかもしれませんが、このようにキリストに従って歩むことで学ぶ者は「安らぎを得られる」のです。重荷そのものは減ることがないとしても、軛は負いやすく荷は軽くなるからです。

 時には神様のご用であったり迫害などの困難であったりと、これまでに自分が背負っていたよりも多くの荷を積まれることもありましょう。確かに主イエスの軛を負うことがなければ余計な荷を牽かされることもないのかもしれませんが、そもそも私は自分自身の重荷すら満足に背負えない者であったのです。
 罪のない方が罪人である私と同じ軛につながれてくださいました。キリストがあなたの罪をも担ってくださったので、この方を信じて従うことで神の前に正しい歩みへ導かれ、安らぎを得られるのです。


3.キリストとはどなたであるか

 主は「だれでもわたしのもとに来なさい」と招かれましたが、近年では声掛け事案などと申しまして以前のように往来で子どもたちへ福音を伝えることが困難になりました。とはいえ従来も幼子たちに対して「知らない人について行っちゃいけません」と教えてきたわけでありますから、私たちは「来なさい」と招かれたキリストとはどなたであるかをよく知っておく必要があるでしょう。
 ホーリネス信仰の柱である「四重の福音」の視点をもって使徒パウロの書簡から手短に取り上げてみましょう。エフェソの信徒への手紙1章では神のご計画の中心にキリストがおられることが示されています。

 「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました」(エフェソ1:7)とあるとおり、キリストこそ救い主であります。キリストを救い主として信じる者は神の霊によって新しく生まれ、すなわち新生の恵みにあずかるのです。
 そして「神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」(同4)。キリストはきよめ主であり、この方が賜る神の霊と御言葉によって聖なる者とされ、信じる者たちは聖化の恵みにあずかります。

 「神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ」(同8)るので、キリストの贖いは罪の赦しにとどまらず傷ついた心と病める体にも及びます。癒し主であるキリストが病人を救い起き上がらせてくださるとの信仰において、私たちは神癒の恵みにあずかります。
 パウロは続けて「こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され(中略)天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです」(同10)と述べ、再臨の王キリストを示しています。その時には主御自身が天から降って来られ、生きていてキリストに結ばれた者たちが復活の恵みにあずかることになります(テサロニケ一4:16)。

 キリストは私たち罪人の罪を赦し、魂をきよめ、体をも癒すことがおできになります。そして主が再び世に来られるときに私たちは復活して朽ちない者へと変えられるという希望があるので、この方のもとに来る者はみな安らぎを得られるのです。


<結び>

 「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです」(エフェソ1:7)

 主イエスが説かれた御国の教えと悔い改めは世の多くの人々に受け入れられず、幼子のような者たちだけに示されました。「わたしのもとに来なさい」との招きに従う者にはキリストと結び合わされる軛(くびき)が与えられ、この方の道を歩むために学ばされます。
 私たちの救い主は単に人々へ安らぎを与えるだけでなく、信じる者に完全な赦しと新しい命を与え、罪をきよめて造り変えてくださる方です。キリストは信じる者の傷ついた心も病んだ体をも癒し、神の豊かな恵みによって私たちを復活させてくださいます。

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)





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